せつない、笑顔

 いくら頭を悩ませていても時間は流れてく。あっというまに翌日になり、打開策は思いつかないまま、和泉先生と莉乃ちゃんも相変わらずだった。朝のHRの時もコミュニケーション英語の授業中も、両者とも目を合わせない。莉乃ちゃんのハーフツインも未だ復活はしてなくて、ミルクティーブラウンの長い髪を背中に垂らしている。昼休みも和泉先生とは一緒に過ごさず、例によって私たちのところへやってきた。

 あの二人が仲たがいしてると、クラスの雰囲気もどこか重苦しく、クラスメイト達もその空気を察知しているようだった。「マジあの二人どうしたんだ? マジで喧嘩してるのか?」、「まさかガチで破局する系……?」と休み時間になると、時折そんな憶測が聞こえてきていた。

「莉乃ちゃん、勉強会しない? 数Bの小テストあるしさ」

 そして帰りのHRが終わったころ、私は莉乃ちゃんの席まで歩いて行ってそう声を掛けた。リュックに、ポーチみたいな大きさのガーリーな筆箱をしまい、帰り支度を完了させようとしていた莉乃ちゃんは顔を上げた。

 数B小テストで赤点を免れるために計画したものでもあるが、莉乃ちゃんの気をまぎらわせてあげたくて計画した勉強会でもある。

 断られたらどうしよう、と内心ひやひやだったけど、昨日よりも平常通りに近い機嫌を取り戻した莉乃ちゃんは「いいよー」と笑った。ホッとする。でも、その笑顔には、いつものように元気を凝縮した感じがない。心配をかけちゃいけないから笑っておかなきゃ……、といった感じだ。

「よかった。星廉と赤羽君もいるんだけどいい?」

「えっ、一くんいるの? やったー。分かんないとこ、いっぱい教えてもらおーっと。でも場所は? どこでやるの?」

「図書室。星廉が今、職員室に鍵とりに行ってる」

 学校の周りには山と木しかないし。スタバやファミレスなんてもちろんない。よって、場所はろくに使われていない図書室だった。

「何だい、ミス祈璃にミス莉乃。勉強するのかい? それなら僕らも混ぜてくれたまえ」

「ごめん、もう定員オーバーだから」

「定員とは」

「あと、莉乃のことミス莉乃って変な呼び方するのやめて。可愛くないから」

「僕は君たちに何かしてしまったのかな」

 私はスルーして、莉乃ちゃんの手を引いて教室を出た。後ろで「ふひひ、アナタ今日星座占い最下位とかだったのでは?」、「なあ、マジでこの後、体育館でバスケして帰ろうぜ!」とナルシストに慰め(?)の言葉をかけるオタクと脳筋の声が聞こえた。悪いけど今はあいつらにかまってる時間はない。

 莉乃ちゃんと肩を並べて図書室に向かう。「いっちゃんって理数系つよそうな感じするよね」

「全然そんなことないし、文系だよ……」

「そうなの? 意外~」

 人がまばらな廊下を進んだり角を折れたりして、図書室にたどりつく。ドアを開けると、先に来ていた星廉と赤羽君は、窓際の広い机に、斜陽を背負って横並びに座っていた。

「おまたせー」

 莉乃ちゃんが軽い足取りで二人のいる机に近づいて椅子を引く。なるべく心配をかけまいと、いつも通りに振る舞おうとしてるんだろう。けなげな一面。

「おお、来てくれたのか綿貫女史!」

「よかったです」

 二人とも莉乃ちゃんが来てくれたことにほっとしているようだ。

「うん。莉乃もお勉強しないとまずいもん。一くん、いっぱい教えてね」

「任せてください。復習は万全にしてきました」

「復習? 予習は?」

「ぼく、高校数学は中二のときに先取りして学び終わっているので、高校の授業は全部復習なんです。予習になるのは、大学レベルの数学とかですね。最近は偏微分方程式が面白いんです。数学って代数学・幾何学・解析学・統計学に分けられるんですけどぼくは特に解析学が好きで……」

「解析学のことはわからんが、生きてる世界がちがうんだってことはわかったぞ」

 星廉が教師より先生役にふさわしいこともわかり、そんなこんなで勉強会in図書室が幕を開けた。……しかし。

「助けてくれ星廉! 今回のテスト範囲だが、俺は全部わからん!」 

 全員がノートと教科書を机に出したタイミングで赤羽君が星廉に縋った。

 開始五秒で助けを求める奴があるか?

「だいたい複素数って何だ!? このⅰっていう記号はアイじゃなくてフクソスウという読み方をするのか!?」

「あ、赤羽くん、ちょっと落ち着きましょう」

「そうか、わかったぞ! このⅰは一年の時にやった屋根みたいなやつの仲間だろう! 違うのか?」

「根号とは違いますよ!」

「じゃあ、正弦定理の仲間か!?」

「正弦定理を覚えてるのはえらいですけど、それは今回の範囲とは無関係ですから……! まず赤羽君は公式を覚えましょう。ここに書いてある式を三十回くらい書いて覚えてください」

「よし! それならできるぞ!」

 赤羽くんは声高に言うとノートを開いて式を書き始めた。罫線から飛び出しそうな元気のいい大きな字だ。星廉は子を温かく見守る親みたいな眼差し。なんて寛容なの。「あー、うるさいうるさい! まず自力でやれ!」とか投げ出したくなりそうなシチュエーションなのに、親切だ……。

「あれっ、赤羽君そのシャーペン新しいやつですね」

「これか? 近所の文房具屋で買ったんだ」

「どこのメーカーのものなんですか? 価格はどうでした? 機能性はどうですか?」

 星廉は目を輝かせた。

 でたよ、知的好奇心の権化。勉強会なのに早くも脱線しかけてるけどいいのかな……。

 正面の男子ふたりから視線を外し、隣を見ると、莉乃ちゃんは開いた問題集を前にシャーペンをサラサラと動かしていた。しかも真顔。え、もしかしてちょっとは数学得意なの? と意外性を期待して手元を覗き込んだら、問題の余白に「和泉学人。一七四センチ。AB型。母、父、姉。せいえい高校普通科卒。秋田第一大学教育学部卒」と、喧嘩中の彼氏のプロフィールを作成していた。

 ……まずい。莉乃ちゃんの心が彼氏に寄っている。勉強することで、少しでも彼女のなかの苦しい気持ちをまぎらわせてあげることが目的の会でもあるのに。ていうか、犀映高校って県内で三番目くらいに偏差値高い人気校だし、秋田第一大学もそこそこ手堅い良い大学じゃないか。和泉先生エリートだったんだ……、で、姉が一人いるって、姉もスローペースな感じの人なのかな? それとも案外、普通の人? 「あんたって本当のろまよねぇ」とか普段は和泉学人を詰りつつも、実際、スローな弟が級友にからかわれている場面に遭遇したら、「あたしの弟になにしてんのよ!」とか庇う感じの姉だったりしそう……。個人の想像だけど。ていうか、和泉先生は姉のこと何て呼ぶんだろう。無難に「姉さん」とかかな……、などという感想はひとまず脇に置いておいて。

「り、莉乃ちゃん、ここの問題わかる? 私わからなくて」

 本当は教科書を見ればぎりぎり解けそうだったけど、あえて訊くと、莉乃ちゃんはハッとした様子。距離をおいてはいても、本当は彼のことが気になっていると私にバレたくなかったのか、ページを一枚めくって彼氏のプロフィールを隠した。

「ど、どれ? どの問題? 莉乃、英語以外はあんまり得意じゃないんだけど……」

 その莉乃ちゃんのセリフに、「英語イコール和泉先生の担当教科」という公式が脳内にパッと思い浮かんでしまって、私は反応に困った。星廉も同様の様子。

「そういえば、英語は和泉教諭の担当教科だったな! だから、綿貫女史は英語が得意なのか!?」

 私も星廉もあえて黙ってたのに。赤羽くんの天然キラーパスが入り、場が凍りつく。

 貴様はこの勉強会に、勉強以外の目的があることを忘れたのか!? 莉乃ちゃんの気をまぎらわせるという目的が!

「あっ、赤羽くん、公式を書きましょう! まだ十回しか書いてないですよ~」

「む、そうだったな!」

「うん。和泉先生の科目だから、英語がんばるようになったの」

 私も星廉も赤羽くんも、皆が莉乃ちゃんを見た。

 莉乃ちゃんはどこか切なげな笑みをたたえていた。

「……ごめんね。莉乃ずっと落ち込んでて。きょう誘ってくれたのだって、莉乃のことはげましてくれようとしてたからでしょ? ごめんね、わざわざ」

「いえ、そんな……」

「莉乃、和泉先生が莉乃以外の人と仲良くしてるとこなんて今まで一度も見たことなくて……。しかも先生、家族の前ですらめったに笑ったりしないのに。あの先輩といたときは、ほほえんでたから……。あんなのもう、絶対、浮気じゃんって……」

 莉乃ちゃんの瞳が潤みだす。場の空気が重たくなる。

 莉乃ちゃんが和泉先生と家族ぐるみの真剣交際だった事実まで発覚した今、事態の深刻さがより増した気がした。

「当人に確認してみたのか? 浮気してるのかって。いっそのこともうはっきりさせたらいいじゃないか。和泉教諭は、綿貫女史にどうして避けられてるのか理由も把握できずに困っていると思うんだが」

 赤羽くんのその問いかけに、莉乃ちゃんは大きく首を横に振った。

「むり……! だって、もし『浮気してるでしょ』って訊いて、和泉先生本人に『してる』って認められちゃったら、もう莉乃どうすればいいの? 大好きな人に自分より大事な人ができたなんて言われたら、ぜったい立ち直れない……! 学校来れなくなっちゃうもん……!」

「莉乃ちゃん……」

 隣に座っていた私は背をさすってあげた。多少落ち着きを取り戻した莉乃ちゃんはスン、と鼻をすすった。

「……莉乃ね、あんなに大好きって思った人初めてだったの。なのに、こんなことになっちゃって……。大人になったら、先生のお嫁さんになるって本気で思ってたのに……。なんか、もうばかみたい……」

 後半、莉乃ちゃんの声がかすれた。指先で涙を拭う彼女に、なんて声をかけたらいいのかわからなかった。「そんなことないよ」と言うのはあまりに薄っぺらいし、かといって、「そうだね」と京先生なみのドライ発言をするわけにもいかない。

「綿貫女史」

 私も星廉も困っていたら、赤羽君だけが口を開いた。

「前に一度、皆は恋したことないの? と訊いてきただろう」

「え……、うん」

「あのとき俺は無いと言ったが、よく考えたら俺は一度だけ恋したことがあったんだ」

 爆弾発言だった。一瞬、その場の時間が止まった。

「ええっ!?」

 莉乃ちゃんが両手で口もとを覆って椅子から立ち上がる。

「きっ、きいてないです……! ぼく友達なのに! 言ってくれたら応援しましたよ!?」

「お、落ち着け星廉! 小学生のときの話だぞ!」

「小学生……」

「あ、小学生ですか」

「あ、なんだぁ……」

 小学生のときの話か……、というどこか安心した空気が広まり、莉乃ちゃんは再び椅子に腰を落ち着けた。

「あれは、まだ俺が小学校六年だったときのことだ。俺は、同じ学年のとある女子が好きだった」

「えーと、その人はどんな方だったんですか?」

「水色と、給食のきなこ揚げパンが好きで、いつもショートパンツで、スカートを履いているところは一度も見たことがなかった。姉御肌というか、面倒見が良くて先生からの評判も良かった」

 私たちは勉強の手を休めて、赤羽君の語りに聴き入った。正直、興味がなくもなかった。

「まず俺は、小学校からこの髪色なんだがな」

「えっ」

 私は動揺を隠せなかった。小学生で髪を染めるって発想がまずない。ていうか、赤羽くんの髪は根元から毛先まで真っ赤である。黒髪ばかりの小学生のなかにまじって、こんな突飛な頭の色をした子どもがいればさぞかし浮いたんじゃ?

「と、とっても目立ったでしょう……」

 星廉がオブラートに包んで尋ねた。ナイス。赤羽くんは「ああ」と満足げに首肯しゅこうした。

「なんで赤色にしたの~? たしかに赤羽くんはイエベ春っぽいから、明るい暖色系の色は似合うと思うけど」

「銀河太陽★警官という漫画のキャラに憧れてたんだ。まあ、それは今でもなんだがな」

「どういう漫画なの?」

「近未来が舞台の戦隊ものでな、ざっくり言うと特殊能力を持つ警察みたいな感じの主人公が、人間の姿に擬態した謎の宇宙生物と戦う話なんだ。俺の好きだったキャラは小柄だが情に厚くて、炎をあやつる能力だから髪が真っ赤だった。偶然、俺と同じ赤羽という名字だったんだ。そしてヒロインの森田のことを『森田女史』と呼んだりしていてな。新鮮な呼び方でカッコいいだろう?」

「……ちなみにその漫画の主人公は、教師のこととかは何て呼んでたの?」

「教諭だ。書き下ろしで学生時代のことも書かれていたからな」

 悦に入った様子で語る赤羽君を見て、「やっぱ独特な喋り方は中二病のせいだったか」と、初対面のときにいだいていた違和感が腑に落ちた。

 でも、わずかに赤羽くんの表情が陰る。

「その主人公に憧れ、俺は何年もかけて両親を説得し、とうとう小学六年の春に髪を染めたんだ。親は許してくれた」

 たぶん根負けしたんだろう。

「親には『学校で嫌なこと言われたって知らないからな……』と半ばあきれられたが、俺は好きなキャラと同じ色の髪になれて満足だった。だが」

 だが、現実はシビアだった。小学六年のクラス替え初日、派手な髪で登校した赤羽くんを見て、当たり前だがクラスメイトは潮が引くように避けた。「なにあの髪色」、「こわ、不良?」、「いや、厨二病でしょ、いつも変な漫画よんでたし」とか何とか言われ新しいクラスで早々に浮いてしまったのだ。

 その日のうちに学校の先生から家に連絡がきて、親には「だから、やめなさいって言ったでしょ」と黒染めするように説得してきたが、黒にもどしたら負けのような気がして、赤羽くんは赤髪のままで小学校に通いつづけた。

 でも喋り方もその漫画のキャラに忠実に寄せたせいで、新しいクラスで友人はできなかった。

「おい、お前いつまでその髪のままでいるんだよ。ガチのオタクみたいだし、きめーんだけど。マジ目障り」

 五月に入ったころ、休み時間にクラスのガキ大将からとうとうそんな指摘を受けた。クラスメイトたちは、怯えたように二人のやりとりを窺い見ていたという。

 今よりも少し幼かった赤羽くんはムッとして、「俺は一生、この髪のままだ!」と言い返した。

「うわー、いっちゃってるよコイツ。だいたい一生そのままってお前、将来その頭で会社とかに行くつもりかよ。引くわー」

「そうだな。俺はこの髪色だけは譲れん。だから頭髪の色が自由な職場を選ぶか、会社の上司に相談をしようと思っている。どうしてもダメだと言われたらそのときは会社の規定に従うが」

「……。……ていうか、漫画のキャラに憧れて髪の色同じにするとかありえねー。戦隊モノに憧れて、おもちゃのベルト欲しがる幼稚園児かよ」

 ガキ大将はそう小馬鹿にした口調で嘲笑った。

「何だと!?」

「おっ? なに急にヒスってんだよ、本当のことだろー」

 にやにやと馬鹿にした笑みで言ってきた。普通の小六男子なら、怒りでつかみかかるか、めそめそ泣きだすか、その場から逃げ出すかだろう。しかし、赤羽くんは普通の小六ではなかったし、強かった。

「お前も読んでみろ、面白いから! 人生が変わるぞ!」

 ランドセルの奥底に隠し持っていた漫画をガキ大将に向かって押しつけたのだ。

「さあ、読め今すぐ! お前が俺のことを馬鹿にするのは銀河太陽★警官の面白さを知らんからだ! これさえ読めば、『これだけ魅力的な主人公なら、生き様を真似たくもなるだろう』と納得できるはずだぞ! 読め!」

「は、はあ? そんなもん読まねえし、馬鹿じゃねえの」

「そうだな、俺は馬鹿だ! この間の算数のテスト、一人だけ0点がいると桜井教諭が言っていたが、あれは俺だ!」

「あのテスト、クラスの平均点88点だったやつだろ……。とんでもねぇ馬鹿じゃん……」

「ああそうだ! だが、この漫画の面白さを知らずに生きているお前のほうがもっと馬鹿かもわからん! 読め、今すぐ!」

「は……!? ちょ、おい、やめろよ、うっわ、オタク怖えんだけどー」

 ガキ大将が、赤羽くんに絡んだことを後悔するように眉根を寄せたそのときだった。微かに笑った声がしたのは。

 振り向くと、いつのまにか、ドアの近くに他クラスの女子がいて、こちらを見ていた。

「む!? なんだ読むか!?」

「いや、ごめん。助けようと思ったら言い返しちゃうんだもん。強いなって思って。予想外だったから」

 目を輝かせた赤羽くんに、その子は笑って言った。

「は? おい待てよ、なんだよ『助けようと思ったら』って。それじゃ俺が悪いことしてるみてーじゃん」

「実際そうでしょ。迷惑かけられたわけでもないくせに、そんなガキみたいな文句つけて。私、赤羽よりもあんたのほうが意味わかんないしダサいと思うけど」

 あきれた声音と、少し寄った眉根。彼女のそんな反応に、ガキ大将はどこかバツの悪そうな表情を浮かべて黙った。

「あたし赤羽の髪、好きよ。燃えてる太陽みたいでカッコいいし」

 その笑った顔が綺麗で、初めて変わった自分を受け入れてもらえて、幼き日の赤羽くんはあっさり恋に落ちた。

「それが俺の初恋だったな!」

「きゃー! それは莉乃でも好きになっちゃうよ!」

「ああ、しかも俺は単純だからな! 好きになってしまってからは、用もないのによくその子のクラスに行ったもんだ!」

 またしても莉乃ちゃんが「あるあるー。莉乃も和泉先生のこと好きになったばっかりのとき、用もないのに職員室に行ったりしたもん」と両手で自分の頬を包んでにこにこしていた。それはちょっと先生たちの業務に差し支えるのでは。

「でも、ある時のことだった。彼女が『一八〇センチくらいの人とつきあいたい。自分より背低い男子とかいっしょに歩けないよねー』って女友達に言っているのを聞いてしまったんだ。当時一四二センチだった俺はすごくショックを受けた」

「それは、つらいですね……」

「ああ、でも背は縮めることはできないが伸ばすことが出来る! だから俺は毎日牛乳を飲んで、煮干しも食べて、早寝早起きして適度な運動を心掛けた。中学に上がるころには背が十センチくらい伸びたんだ」

 それはすごい……。すごいのは認める。でも、想い人のためにそこまで努力したのに、なぜこの間まで恋をしたことがあるということを忘れていたのか。記憶力がなさすぎないか。

 私はそんなツッコミを入れたかったが、星廉は「すごいです赤羽君」と感嘆気味に褒めているし、莉乃ちゃんも「ストイック! そこまでできるなんて素敵!」と目をきらきらさせている。皆、ピュアっ子だ……。何かごめん。私だけ心汚れてて。

 それで、ふだん褒められるようなことが特段ない赤羽君は「そうだろう」と得意げに胸をそらせる。

「で、俺は晴れて小学校を卒業した」

「留年しなくてよかったね」

「ああ。だが、中学でも彼女とはクラスが離れてしまってな。彼女は中学に入ってからは吹奏楽部に入ってしまって、昼休みも部活の友達と過ごしていたし、放課後は部活だしであまり会うことができなくなってしまったんだ。それから、数か月ほどたったとき、彼女が俺より二十センチは背が高い男子と手をつないで歩いているのをみかけた。お望み通りの高身長彼氏が出来たんだな。彼女はいつも笑っていて、とても幸せそうだった。……それで、俺の初恋は終わりだ!」

 いい笑顔で赤羽くんが話を締めくくる。……感想に困った。

「赤羽君、そんなつらい恋をしてたんですね……」

「ああ。でも過去のことだからな! 今はもう気にしていないぞ! 一応、今は背も一六五はあるしな!」

 日本男子の平均より低いけど、本人がいいのならそれでいいのだろう。

「どうだ、綿貫女史。俺の方がばかみたいだろう? 一年間で十センチ背を伸ばしたのに、想い人に気づいてもらえもせず、もちろん片恋が実るわけでもなく全部無駄になったんだからな!」

「え? 莉乃は、無駄じゃないと思うけど……?」

「む? そうか? どこがだ?」

 赤羽くんはキョトンとした目で首を傾げた。

「だって、自分磨きはできたんだし、それに誰かのこと好きになるのは、すごく素敵なことだと思うから。無駄だなんて言わないでほしいなぁ」

「そうか」

 眉を八の字にさせた莉乃ちゃんに、赤羽くんが満足げに頷く。

「だったら俺も、たとえ和泉教諭とうまくいかなくても綿貫女史に『今までのことが無駄だった』なんて思わないでほしいぞ」

 赤羽くんの弧を描いた唇の間から、白い歯が見えた。眩しい笑顔だった。

 もしかしたら、彼なりに莉乃ちゃんを元気づけようとしていたのかもしれない。……赤羽君、いいやつだな。

「……ありがとう」

 莉乃ちゃんは微かに笑って言った。だけど、それでも、まだいつも通りの笑顔には程遠かった。

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