ひみつの、文章

 リビングを出て廊下を進む。東雲篤貴がいないときは吸い込む空気がとても軽い気がする。

 自分の部屋にたどりついて、背負ったままだったリュックの肩紐から腕を抜き、落とすみたいにして床に下ろした。制服も脱いで下着だけになると、タンスからオーバーサイズのTシャツを出して着替える。太ももをすっぽりと覆いかくしてくれるし、涼しいので夏場の部屋着はこれ一枚で過ごしていた。

 学習机の前の椅子を引いて、腰を下ろす。まだリビングからは電子レンジが稼働している低い音がうっすら聞こえる。きゅるるる、とさっきとは違う音で胃が鳴る。エビピラフは未完成の模様。限界に近い私の胃腸。制服を洗濯しないといけなかったが、空腹のせいか何だか動きたくない気分だった。

 なんとなく机の引き出しを開けると、今朝隠したリングノートがそのままあった。

「コレでも書こ……」

 独りごち、ノートを引っ張り出した。新しいページを開いて机に広げる。ペン立てからカラーペンを引き抜くと、思いつくままに文章を書きなぐった。



『東雲篤貴の不貞行為の現場を目撃したその足で、雨に濡れたまま家に帰った。母がタオルで髪を拭いてくれた。あのとき、見たことをストレートにそのまま伝えたのはよくなかったと思う。

 母の表情が硬くなり、東雲篤貴に電話をかけるので部屋に行っていろとだけ言われた。見たことない顔で、聞いたことない声だった。

 自室にいる間、東雲篤貴を糾弾しているのか、お母さんの感情的に叫ぶような声が聞こえてきて、なんだか私まで泣きたくなった。

 その夜はあまり眠れなかった。

 翌朝起きると母がいなくて、東雲篤貴の口から、母は心労で倒れたからしばらく入院だということを告げられた。

 その日から、私はいつ母から『この家を出ていく』と言われても出ていけるように荷物をまとめていた。母は入院が必要になるほど精神的なショックを受けたのだから、当然東雲篤貴とは離婚するものだと信じて疑っていなかった。

 しかし、予想外の展開になった。

 浮気相手のあの魔女みたいな女とどこにでも行けばよかったのに、東雲篤貴は妻が心労で倒れたことをとても重く受け止めたのである。「二度とあんなことはしない。こんなことになった妻を放っておけない」と妻への愛情と愛着をみるみるうちに復活させ(浮気相手は遊び相手というか体だけのつきあいだった模様)、あろうことかもう一度やり直したいと思ったらしい。そして、一度はほかの女に靡いた東雲篤貴が、それでも最終的には自分のところに戻ってきてくれたのが嬉しかったのか……母もそれを快く了承してしまった。そういうことで、二人は夫婦関係を再構築するということで話がまとまった。

 そんな、いくらなんでも出来過ぎた事後報告を東雲篤貴の口から聞かされたその夜、納得ができない私は入院しているお母さんにすぐさまLIMEでメッセージを送った。

「あんな奴とはもう離婚した方がいい」、「娘と同年代の女と浮気するような気持ち悪い男と一緒に暮らすなんて私は絶対無理」、「東雲篤貴は家庭を壊そうとした張本人だよ。浮気したんだよ?」。

 諸々。

 しかし母は、「大丈夫。あの人はもう二度と浮気しない」と全く聞く耳を持たなかった。何を根拠にした「大丈夫」なのだろうか?

 とはいえ、こうなっては私に拒否権などなかった。これからもあの男の顔をしていた東雲篤貴と、同じ空気を吸って暮らさないといけないと思うと、皮膚の下を虫が這っているような不快感に襲われたのを覚えている。まだ高校生で子供の私は、家をでていくこともできないし、親の決定事項には従うほかない。新居に引っ越して、奴と二人暮らし状態になってからというもの、なるべく奴と顔を合わせないようにするため、自室からなるべく出ずに過ごした。

 私のほうからはあいつに絶対話しかけないし、向こうから話しかけてきても冷たくあしらう。

 何が、「祈璃がつめたい」だ。

 母に許されたからって、私にまで許してもらえると思っているのか。笑ってしまう。

 家族を裏切り、お母さんを深く傷つけ、――そんな人、家族でも父親でもなんでもない。血がつながっているだけの他人だ。今からでも母が離婚を選んでくれたら……と思うが、そんなことは起こらないだろう。母は東雲篤貴をまだ愛している。離婚するわけがない。非常に残念ながら。』



 そこまで一気に書き綴ると、ペンを机の上に投げ出して机に突っ伏した。机上で乾いた軽い音がして、ペンが机の奥までころころ転がっていった。

 これが、私の書いている誰にも見せられない文章だ。小説ではない。決してフィクションなんかじゃない、まぎれもないノンフィクション。

 いつから書き始めたのかは忘れた。ただ、東雲篤貴と離婚しないなんて選択肢を選んだ母は、全く私の理解の範疇を超えていて、とにかく納得いかなかった。かといって、母に離婚しろと言っても聞き入れようとしない。前の学校では高嶺の花のようなポジションで友達はいなかったから、相談できるような相手はだれもいなかった。

 募りに募らせた親への不満を発散できるのは、紙の上だけだったのだ。

 浮気が発覚した初期のころはただ、「ムカつく」、「何様だアイツ」など苛立ちに任せて書いていたのが、日を経るごとに両親の離婚への諦念が強くなり、冷静さを取り戻したせいか少しずつきちんとした文章で不満を綴るようになっていた。

 また、東雲篤貴と二人暮らしになってからストレスで読書量も増え、読んでいる小説の影響を受けてどんどん文体が小説っぽくなってきた。我ながら、一読しただけだと小説の地の文のように見えなくもないな、と思うことが増えてきている。

「……離婚してくれないかな」

 机に片頬をくっつける。本音が唇の間からこぼれた。

 東雲篤貴のような親なら、要らないとさえ思う。浮気なんてして、お母さんが入院するまで追い込んだのだ。単純にゆるせないし、そんな人間と血がつながっていること自体恥ずかしい。そんな人間の金銭的援助を受けながらでないと生きていけないというのがやるせない。どれだけお金がなくたって構わないから、東雲篤貴なんか捨てて、お母さんと二人で生きていってもかまわないくらいだった。

 離婚に踏み切らないお母さんのことはわけわかんなくてムカつくけど、でもお母さんは被害者でもある。私が目を覚ましてあげないと。きっと真摯に東雲篤貴が「もう浮気なんてしない。君にはひどいことをした。本当に愛してるのは雲母きらら(※お母さんの名前)だけなんだ」とか熱っぽく言ってきたものだから、その姿がプロポーズしてくれた瞬間の若かりし東雲篤貴と重なって一時的に新婚に戻ったような錯覚に陥って浮かれてるだけなのだ。一年くらい距離を置いてみれば、とんでもない軽薄馬鹿にうつつを抜かしていたということに気づくはずだ。いきなり離婚とまではいかなくても、退院したら別居でも何でもしてみて、一度冷静になった頭で再考してほしい……。

 なんて、ずっとこんなことばかり考えているから、うっかり、切実に天使がいてくれないかな、と思って、今日は礼拝堂であんな真似をしてしまった。

 本当に天使がいるのだったら、出てきてくれるんじゃないか。私って皆曰くめちゃくちゃ可愛いらしいし、美女の前に現れるんなら私の前にもでてきてくれるんじゃないかって。

 天使なんて、いるわけがないのに。

 そう思ったらだんだん悲しくなってきて、涙が滲んできた。視界がぼやけて、部屋のふすまの柄が不明瞭になる。

 あーあ。もしも天使が姿を見せてくれたのなら、私は躊躇いなく二人の離婚を望んだのにな。現実ってフィクションと違ってシビアだ。

 そのとき、ふいに音高く通知音が鳴った。肩が跳ねる。

 指で目尻の涙をぬぐって、椅子から降りる。床に脱ぎ捨てた制服のスカート。そのポケットに入れっぱなしにしていたスマホをぬきとって私は床に座った。

 ロック画面を確認すると、LIMEから通知が来ていた。


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