いらつく、母親

 家の最寄り駅のバス停で下車し、帰宅すると時刻は十七時半をまわっていた。

 東雲篤貴の革靴はないことをさりげなく確認して、玄関の上がりがまちを踏む。あいつはまだ帰っていないらしい。朝に言っていた通り、お母さんの病院に寄っているのだろう。ひょっとしたらまだ会社にいるかもしれない。

 制服のままリビングに直行して、エアコンのリモコンを手にとって冷房をかける。蒸した部屋に冷たい空気がゆっくりと広がった。

 ふと、ダイニングテーブルにあったメモが目に留まった。


『祈璃へ。朝ごはんと一緒にカレーをつくりました。冷蔵庫にカレーの入ったタッパーがあるから、エビピラフだけじゃ足りなかったら、レンジで温めて食べてください。父。』


 そんな内容を読んで、顔をしかめる。

 あいつは朝、私の話をきいていなかったのだろうか。

 よその女に手をだしたけがれたその手で、どんな料理をつくろうが絶対に食べないと言ったのに。

 苛つきのままに、冷蔵庫からカレーの色が透けた長方形のタッパーを取り出して蓋を開ける。スパイスの香りがツンと鼻をつく。

 私は冷蔵庫の脇にある生ごみ用のゴミ箱を開け、カレーの入ったタッパーを逆さまにした。不均一な大きさに切り揃えられたジャガイモやニンジンが、とろみのあるカレーと共にボトボト落ちていくのを無感動に眺める。手書きメモも握りつぶしてそこに一緒に捨てる。このメモがですます調で書かれていなかったら、私はきっとタッパーを壁に叩きつけていただろう。ついでに、冷蔵庫からラップにくるまれたこぶし大の白米も取り出して投げ込んだ。肺の空気を全て入れ替えるような深いため息が出る。

 【娘から冷遇されてても不慣れな料理を作り置きしてあげる俺けなげ。】

 おそらく彼はそんな自己評価でいて、自分に酔っているに違いなかった。

 捨てたメモ用紙の端が、カレーに浸食されかけている。「父」という文字と目が合った瞬間、私はゴミ箱のフタを乱暴に閉めた。

 むかつく。なにが父だ。

 空になったタッパーを流しに置いて、手をハンドソープでがしがし洗う。

 まだ私の父でいられると本気で思っているのか。私の中で、東雲篤貴はもう父じゃない。家族をうらぎった他人なのだ。

 濡れた手をタオルで拭いていると、ふいにスカートのポケットに入れたスマホが振動しだした。取り出してみると、母からの着信だった。たまにLIMEで近況報告をすることはあったが、電話がかかってくるのは久しぶりだ。

「……もしもし」

「あっ、祈璃! 今日から新しい学校だったでしょう? どうだった? 古かったでしょう? お母さんも高校生のとき聖涼高校通ってたんだけど、まだ礼拝堂に天使がいるとかいう噂ある??」

 開口一番、ひっきりなしに質問を重ねてくる母の声は、とても明るかった。一か月前に心労で倒れたとは思えない。けど、あれからだいぶ元気になったようで何よりだ。ホッとする。

「べつに普通。たしかに校舎は古かったけどね、ドア外れたりしてたし。天使の変な噂も聞いた。でも皆いい人そうだったし賑やかで楽しそうだったよ」

「そうなの。よかったじゃない」

 お母さんは嬉しそうに言った。

「……ていうかさ、」

「お母さんも早く退院したいな~。ちょっと古いお家だけど、お庭が広いんでしょう? なにもない田舎で家庭菜園するの夢だったの。ちょっと交通面は不便かもしれないけど、緑がいっぱいあるって素敵じゃない?」

 私の言葉を遮るようなタイミングで言う。ずいぶんと口調が弾んでいた。私たち一家が越してきた原因をまるっと忘れてしまったかのようだ。

「あ、交通面と言えば。祈璃、バスで通学してるんだって? 家から学校まで往復で二時間かかるなんて大変でしょう? やっぱり電車にすればよかったのに。ほかの子だって電車で通ってるんでしょ?」

「……」

「あ、そうだ、さっきまでね、篤貴さんが来てくれてたの。おみやげに林檎を買ってきてくれて、看護師さんにも『良い旦那さんですね』って言われちゃって――」

「浮気するのが良い旦那なんだ」

 一瞬会話が途絶えた。

 お母さんはやがて、困ったように言った。

「……そりゃ、祈璃にだって反対する権利はあるし、私にとっても祈璃のことはとても大事。……でも、お母さんはあなたのためだけに生きてるわけじゃないの。私の人生なんだから、私がどんな選択をするのかは自由じゃない?」

「……」

「……ねえ、篤貴さん悲しんでたわよ。祈璃がつめたいって」

 その言葉にはさすがにカチンときた。

 は?

「こんな早く許す方が頭おかしいでしょ。だってお母さん、今だれのせいで入院してると思ってんの? あいつのせいでしょ。あいつが浮気なんかしたから、お母さんその心労で倒れちゃったんじゃん。そんな奴とどうして一緒にいたいとか思えるの? 普通は離婚するでしょ、なんでまだ一緒にいたいと思えるの? 意味わかんない」

 いっぺんにまくし立てると、お母さんは少しの間だまった。

「…………でも、さすがに少しやりすぎよ。篤貴さんちゃんと謝ってくれたじゃない。あれから、家のことをよくやってくれるようになったし、本当に篤貴さんは変わった。反省して心を入れ替えてないとなかなかできる事じゃないでしょう。『もう二度とあんなことはしない』って誓ってくれたうえに、ちゃんと行動で示してるし。家族なんだから信じてあげないでどうするの。祈璃にとって、この世でたった一人のお父さんでしょう?」

 母の熱弁に、スマホを握る手に自然と力がこもる。そもそも東雲篤貴も何なんだ、「祈璃がつめたい」って。妻から異常に早く許しをもらえたからって調子づきやがって……。

「あのさ、お母さんは『家族だから信じなきゃ』とか言うけど、私たち家族のこと最初に裏切ったのって東雲篤貴のほうだよ? 外で女と会ってたくせに平然とした顔で毎日家に帰って来てたんだよ? そんな奴が今更なにしようが信用とかできないんだけど。ほとぼりが冷めたらまた同じようなことするって絶対」

「そ、そんなこと言わないで。篤貴さんには私にもあるんだから」

「なにそれ? お母さんが何したって言うの?」

「ええっと……だって…………篤貴さんも仕事で疲れてたのに私、自分の愚痴ばっかり話してろくに篤貴さんの話を聞いてあげてなかった。お弁当だって毎朝いそがしくてつくれてなかったし……。祈璃だって反抗期で篤貴さんにそっけなくしてたこともあったでしょ? そんな居心地の悪い家じゃ、帰って来たくもなくなるんじゃないかって……」

「そんなの浮気していい理由にならないでしょ。お母さんばかなの?」

「……ねえ祈璃、愛してる夫と離れたくないと思うのは、そんなにいけないこと?」

 切実に訴えかけてくる声に、少し言葉に詰まった。

 好き合って籍を入れた夫婦なのだから離れたくないと思うのは決していけないことではないし、自然なことだと思う。でも、それは浮気されても同じことが言えるものなのだろうか? お母さんにとっては愛する夫でも、娘の私からすればただ家族を裏切った最低で気持ち悪い男でしかないのに。

「……よくあんなことした奴のことを、まだ愛せるよね」

 気が付いた時には私はそんな呟きを吐いていた。

 母が電話越しに息を呑んだのがわかった。あ、と思ったけど、覆水は盆に返らない。

「……そう、ね」

 頼りなく震えた声が画面の奥から聞こえだす。私の後ろで蛇口から水が一滴垂れる音がした。

 少女のようにしくしくと泣き出す母。私はそれ以上なにも言えなかった。

 お母さんは浮気されてから少し変わった。

 やたらと東雲篤貴のことを褒めたり、擁護するようになった。浮気が発覚する前はもっと良妻賢母を絵に描いたようで、いつもにこにこした人だったのに、よく泣くようになった。東雲篤貴の一件で、お母さんにまで悪い影響が出ているのだ。

 あいつの浮気が発覚する直前にも、お母さんは少しぼんやりしていたり、頻繁に家事を休んだりすることが多く、薬を飲んだりしていたところも見かけたから、ひょっとしたらあの頃には既にもう勘づいていたのかもしれない。

「……祈璃、今はまだわからないかもしれないけど、あなたも恋人ができれば、好きな人を手放したくないって気持ちがわかるようになるから……」

 やがて、涙声で発されたその言葉にゾッとした。

 お母さんの気持ちが分かるようになんて、死んでもなりたくなかった。

 東雲篤貴みたいな男に引っかかって傷つくのなんてごめんだし、ひどいことされてもちょっと真剣な顔で謝られた途端コロッと許して、「家族だから信じたい」とかほざいてるお母さんのような女はすごく頭が悪そうに思える。世の中にここまで伴侶に依存してる同性が、どのぐらいの割合で存在するのかはわからないが、私だけはその一部分になるのはごめんだった。

「ねえ、祈璃も高校生なんだし彼氏ほしいでしょ?」

「は……? なんでそういう話になるの?」

 噛みつくような口調になった。

「クラスにかっこいい男の子とか、気になる人とかいないの? ねえ――」

「私は一生恋人なんてつくらない! お母さんみたいになりたくないもん!」

 頭に血が上って、さっき母にひどいことを言ってしまったばかりだということも忘れて画面越しに怒鳴りつけた。

「そんな、悲しいこと言わな」

 怒りの衝動に任せて通話を切る。スマホをスカートのポケットにねじ込んだ。

 ぐう、とお腹が鳴る。

 なにか食べたいと思い、ゴミ箱のフタを閉めた。もう一度冷蔵庫を開ける。

「……なんにもないじゃん」

 思わず独り言ちた。冷蔵庫のなかをよく見ると、卵が二個と、野菜室に使いかけの生姜がラップにくるまれているほかは、マヨネーズやケチャップやしょうゆやみりんといった調味料しか入っていなかった。

 しかたないので冷凍庫を覗くと、幸いにも冷食がたくさん詰まっていた。しかし、そのすべてがエビピラフ。東雲篤貴はこれがいまだに私の好物だと信じて疑っていないのだ。

 再度、ぐううとお腹が鳴った。背に腹は代えられない。ため息をつきたい気持ちで、というか実際ため息をつきながら凍ったエビピラフの袋をひっぱりだした。

 袋ごとレンジに放り込んで解凍のボタンを押す。電子レンジのなかに灯りが点き、ゆっくりと袋が回転を始めた。

 一袋だと五分半はかかるはず。出来上がるまでの間に着替えてしまおう。

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