やさしい、友達

 すでに電車通学の皆は帰ってしまったのか、礼拝堂をでてバス停へ向かう道すがら、誰ともすれちがわなかった。けさ上ってきた長い坂を一人で下る。

 古びたバス停の時刻表を見て、あと八分ほどでバスが来るのを確認していると。

「あれっ」

 今日一日で聞き慣れた声がした。横を見ると私の数メートル手前に星廉が立っていた。

「祈璃ちゃんもバスなんですか?」

 目の前まで坂を下ってきて星廉はにこやかに訊いた。

「そうだよ。星廉もバスなんだっけ? 朝、和泉先生が言ってた」

「はい。祈璃ちゃんもなんですね。Suikaとかでスマートに駅の改札くぐってそうなイメージでしたけど」

「私ってそんなイメージなの?」

「そうですね。都会的というか。洗練されているというか。でも、どうしてバスなんですか? ぼくが言うのもアレなんですけど、電車のほうが早いですし……」

 またその質問か……。

 つい、少しだけイラっとしてしまった。

 星廉に悪気はないのだろうが、今日一日だけで莉乃ちゃんにもあの四人組にも同じようなことを尋ねられている。あのときは下手にごまかしたけど、不可解そうにされたり、質問攻めにされたりした。

「私、親が嫌いでさ。なるべく家にいる時間へらそうと思って」

 なるべく明るく、ノリが軽く見えるように笑って本当のことを言った。

 ごまかして面倒なことになるなら、言える範囲で本当のことを言えばいいのだと気づいた。

 これなら星廉も「そんなこと言っちゃだめなんですよー」みたいな言葉を返してくれて、それでこの話は終わるだろう。面倒なことにはならないで済む。

 そう思ったのに、星廉は一瞬きょとんとなって黙った。

「……何かされてるんですか?」

 えっ、と、思ったら星廉の目には色濃く心配の色が浮かんでいた。

「ひどいことを言われてるとか」

「……べつに、何も」

 そう言う自分の声が硬くなる。ミスった、と思っただけだったのだが、星廉の目には、ノリが通じなくて私がいらついているように映ったらしい。

「あっ、そういうのじゃないならよかったです。すいません、冗談がわからない男で……」

 星廉はホッとしたようだった。ホッとしたのは私も同じだった。よかった、親が浮気したとかいうことまで見透かされたりしなくて。

 でも親が嫌いと言っただけで、モラハラを疑うなんて星廉って変に真面目というか……、純粋なところがあるよなぁ。いや、でも親といたくなくて不便なバス通を選ぶなんて、いくらなんでもただの反抗期にしては度が過ぎていると思われたのかもしれない。

 星廉がバス通学を選んだ理由を訊いたら、「前の学校ではずっと電車で通ってたので、今度はバスで通ってみたいと思って」とのことだった。やがてけさ乗ってきたバスと同じ色のバスがやって来て、目の前で停まった。

 今朝とはちがう運転手で、覇気がない。白髪頭で、ほうきを擬人化したような体躯のおじいちゃんだった。定期を見せ、けさ乗った席と同じ一番奥のシートへ腰かける。

 星廉が私の隣を一つ分空けて席に座って、その空けた席に自分の学生鞄を下ろした。参考書やノートが詰まっているのか鞄は膨らんでいた。こんな重そうなものをももに置いたままバスに乗っていたら、到着するころには足がしびれて立てないのだろう。星廉の中に置き勉という概念はなさそうだ。

 バスが揺れとともに発車する。窓ごしに自然豊かな緑の風景が流れて行くのを見て、長い一日がようやく終わったことを実感した。なんだか肩の力が抜ける思いだった。

「一日おつかれさまでした」

 私がぼんやりしてるのに気づいたのか、星廉が労ってくれた。

「ありがと。なんかちょっと予想以上に騒がれたから、疲れた」

「祈璃ちゃん美人ですもんね……。あ、糖分でも取っておきますか?」

 星廉が鞄からお菓子の箱を取り出した。

「コアラのアーチだ。なつかしい」

「今日一日、祈璃ちゃんを見てて大変だな……って思ったので。あげます。ぼくが個人的に一番好きなやつです」

「いいの?」

「いいんです」

「わーい。ていうか、星廉もこうゆうお菓子食べるんだね」

 私は円柱形の箱を開封して、中に入っている銀色の袋を破った。手のひらに五粒くらい出して食べ始める。でもさすがに全部は食べれないので、袋の口を数回折って箱のなかにお菓子の入った袋を押し込んだ。

「ありがと」

 お菓子を頬張りながら星廉に箱を返した。

「あと、祈璃ちゃんに一つ訊きたいことがあったのを思い出したんですけど」

「?」

「祈璃ちゃん、数B……難しかったですか?」

 ふいに訊かれて、たじろいでしまった。咀嚼していた甘いものを呑み込む。

「え、なんで?」

「なんか、数学の時、祈璃ちゃんを見たら世界の終わりみたいな顔してたので」

 いつの間に見られてたんだろう。星廉は夢中でバリバリ問題解き進めてたから、てっきり何も気づかれていないものだと。

「……正直ぜんっぜん、わかんなかった…………」

 ぽつりと呟く私を見て、不可解そうに星廉が首をかしげてみせた。

「……あの、祈璃ちゃん。すごく言いづらいんですけど……、授業の進行度が前の学校と違ったとか……、扱っている単元や、使っている教科書がちがったとかいうことでは……」

「ない」

「なのに、ぜんぜんわからなかったんですか……?」

「私、数学は苦手でさ……」

 遠い目をする。もともと私はド文系で、得意科目が現文くらいしかない。なかでも数学は大の苦手だ。

 中学の頃は、定期考査で何とか50点はとれるくらいの数学力はあった。しかし高校に上がってから数学は容赦なく難化。結果、数学のテストの平均点は50前後だったのが、40から35点くらいに落ちた。そんな私のことだ。数学の授業なんて一度聞いただけで理解できるはずがない。授業の後には、一人で何度か教科書を読み直し復習をして、それでも何とかわかるかどうかという感じだった。

「ぼくでよければ教えましょうか? あっ、でも自分で調べたいとかなら全然……」

「え、いいの? 教えて!」

 食い気味に頼んだ。

 今まで、頼れるような友人をつくってこなかったから人に勉強を教わるという発想がなく、一人で苦しんでいた。でも、本当はだれかに頼ってみたかった。

 私のお願いに、星廉は「もちろんです」と言って笑う。

 助かったと思い、私はリュックのファスナーを開けた。そこから数学の青いノートとA5版の紺色の教科書を取り出す。出したペンケースを開けてシャーペンをさがしていると、リュックから文庫本が床にこぼれ落ちた。足元で鈍い音を立てる。

「あっ」

 私が声を上げるのと同時に、星廉が床に向かって腕を伸ばす。カバーをかけた本を拾い上げた。

「だいぶ緩いんですね」

 星廉がリュックを見て言った。

 安いリュックだからか、ファスナーがずいぶんとゆるくなっていた。さらにチャックの引っ張る部分にガラスで出来た重たい星のキーホルダーをくくり付けているせいで、数センチ開けただけでズルズルとファスナーが開いていく。そして、あっという間に全開になったリュックの口から、中に入れていた教科書やらがこぼれおちる、という現象がよく起きていた。

「買い替えようかなとは思ってるんだけどね」

 星廉の指摘に、リュックの表面を撫でて答えた。

 ちゃんとしたものを買おうと思うとけっこうお金はかかるし、バイトもしていない財布には痛手だ。キーホルダーを外せば少しはマシになるのかもしれないが、かたいこぶ結びにしてしまって解き方がわからない。紐を切るにしてもなまじお気に入りのものだけに少しつらい。

「で、こっちは小説ですか?」

 星廉が拾い上げた文庫本に視線を落とした。

 今朝、学校に向かうバスの中で読んでいたものだ。学校では一人になるタイミングが無くてずっとリュックの底に忍ばせているだけだった。

「そうだよ」

「そういえば、祈璃ちゃんの趣味は読書らしいってクラスの人が休み時間に言ってた気がします。ぼくは文豪の中だと夏目漱石が好きなんですけど。祈璃ちゃんはこういう恋愛小説が好きなんですか?」

「……まあね」

 物語が好きなのは本当だけど、でも胸を張って好きかと言えるとちょっとあやしい。昔からやることがなくて、読書ばかりしてきただけだし。それに、東雲篤貴の件があってからは、浮気しない男性キャラを眺め、東雲篤貴のことから気を紛らわせるためだけに――ほとんど現実逃避をするためだけに恋愛小説ばかり読んでいる。

 つまり私は現実の恋愛に夢を持てないから、幸せな恋愛をしている登場人物たちだけ見て、自分の恋愛云々からは目を背け続けていたいから、フィクションの世界に浸っているに過ぎないのだ。そう考えると純粋に恋愛小説が好きとは言うことはできないかもと思った。

 星廉は筆箱と本を返却してくれて、私は「ありがと」と言って受け取る。

「そういえば、風の噂で聞きましたけど小説書くのも趣味なんでしたっけ? どういうの書いてるんですか? さっき読んでるって言ったのと同じで恋愛もの?」

 星廉は興味があるのか、ちょっと目を輝かせていた。

 私は小説を書いたことなんてない。皆が勝手に私の容姿から幻想的なイメージに結び付けただけだ。

 本当に私が書いているのは――。

 けさ、机の引き出しに入れてきたリングノートの表紙の模様が脳内を踊った。

 何にせよ私が書いている文章は小説ではない。それも、他人には絶対言えない、見せられない文章だ。

 星廉は言う。

「小説書く時って取材とかするんでしょう? NHKとかで作家の人がインタビューで言ってました! 刑事ものの話を書くときは元刑事の人とかに話聞きに行ったりとか……! 祈璃ちゃんも取材に行ったことあるんですか?」

 宝石みたいに輝いた目。何カラットですか。

「私はないよ」

 わざわざ小説を書いていないと否定して、彼の夢をこわすのもちょっと悪いかなと思ってしまい。本当は小説は書いていないことは明かさないでおいた。

「あっ、そうなんですね、残念……。でも、もし取材に行くときは教えて下さい」

「なんで?」

「ぼくもついていきたいからです」


 ――自分の知らないことはなんでも気になるんだってさ。勤勉だよこの子は。


 昼休みに購買のおばちゃんが言っていたのを思い出す。目の前の星廉はちょっと私に距離を詰めてわくわくしていた。購買のときも、後ろに並んでる人のことが頭から抜け落ちかけていたし、勉強のこととか、自分の知らないことか、興味のあることに直面すると視野が狭くなりがちなのやもしれない。

「いや、行かないよ?」

「でも、もしかしたらいつかは行くかもしれないじゃないですか」

 妙に食らいついてくる星廉にちょっと困惑する。

 でも実際にそういう取材に星廉が行ったら、彼はめちゃくちゃメモをとるだろうし、賢いから色んな鋭い質問をたくさんするような気がする。知らないこと知れるの楽しいとか言う勉強大好きマンだし。記者とか天職だったりするかもしれない。

「ていうか、その話は一旦おいとこ。まず数Bを教えて?」

「あっ、そうでしたね」

 今日の授業で解いた空欄だらけの数Bプリントを差し出すと、あわてて彼は胸ポケットからペンを引き抜いた。

 星廉の解説があまりに分かりやすく丁寧なものだから、今朝の「絶対、前世、敏腕塾講師だっただろ」という星廉への指摘が、ひょっとしたら的中しているのではないかと感じるほどだった。

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