うわさの、天使

 案内されてたどりついた階段の踊り場は、本当にだれもいなかった。

 目の前に昇りと下りの二つの階段があり、屋上の扉は使ってない椅子や机でバリケードのごとく塞がれ、誰も入れないようにされている。

「わー! 本当に誰もいない! 良い場所だね。いっちゃん毎日ここでご飯食べたらいいんじゃない?」

「え。でも……」

 赤羽君と星廉に視線を向ける。

「構わないですよ、ぼくらも」

「ああ、でも京教諭が何て言うかわからんからな。あとで聞いてみないとだ」

 赤羽君が上りの階段に腰かけながらおにぎりの封を破る。私と莉乃ちゃんも、その数段下に腰を下ろした。定期的に掃除されてるのかほこりが薄く積もってるとかもなかった。

「何て言うか分からんって? もしかして、ここってもともと京先生がお昼ごはん食べてた場所だったの?」

 私の隣に腰を下ろした莉乃ちゃんが、踊り場の床に座っておにぎりの封を破る赤羽くんに尋ねた。

「まあ、そうだな」

「最初は、京先生が一服するのに使ってたんですよね。そこをたまたま赤羽くんとぼくが見つけて」

「へえ、星廉たちよく気づいたね」

「通りかかったら煙草の匂いがして気づいたんだ。あと、恨み節も聞こえた」

 恨み節?

 膝の上に購買で買ったお弁当を広げていた私は、思わず瞬きした。

「さっさと帰りてェとか、やってらんねェとか言いながら、煙草吸ってましたよ」

「俺的には、大人になりたくないと思った瞬間ベスト5に入るぞ、あの光景は。もうやつれて本当に幽霊のような顔色でだな」

「赤羽くん、それはちょっと話を盛りすぎです」

「おい、なに俺の悪口言ってんだ?」

 低い声が会話に割り込んでくる。

 音もなく階段を上ってきたのは、ワイシャツにスラックス姿の綺麗な男だった。

 シュッとして形の整った顎に、やや薄い唇。ワックスでセットされた艶のある黒髪。目鼻立ちのハッキリとした美形だ。クールさと色気が滲んでいる。その容姿には私でさえ、思わず一瞬呼吸するのを忘れてしまいそうになった。

 それでもって背が高く、武器になりそうなほどに長い脚をしている。たぶん180センチくらいはあるだろう。長身と痩身のコラボレーション。

 昼の学校より夜の街のほうが断然似合いそうだし、公務員よりメンズモデルのほうが適性がありそうだなぁ……。

「東雲女史、これが京教諭だ」

 ぼんやり見ていると、赤羽くんが注釈をよこしてくれた。

「はじめましてー。お邪魔してます」

 私は即座に営業スマイルを浮かべ、会釈する。

 しかし、彼はうんともすんとも言わなかった。京先生は、ジッと私を食い入るような視線を向けてきたのだ。

「……あの?」

「どっかで会ったことねェか?」

「え」

 間抜けな声が唇の間からもれる。

 記憶をさらうが、こんな男前の知り合いはいない。たとえ街中で一瞬見かけただけの関係性だったとしても、このレベルの人間がいたら目と脳に映像が焼き付いて絶対に忘れられないはずだ。

「……いや、そんなわけねェか。俺の勘違いだ」

 彼はポツリとだけ呟いて、自嘲的な笑みを浮かべた。自己完結されてしまったので私は首をひねるしかなかった。

「京教諭、東雲女史は星廉のクラスに転入してきた女生徒なんだぞ」

 赤羽くんは京先生にも説明をした。

「ああ、言われなくても転入生が来たってことくらい知ってんだよ。俺ァ、教員だからな。そういや、東雲、一と幼稚園いっしょだったらしいとか噂になってたな。どうだったんだ、昔の一は。さすがにもう覚えてねェか?」

「え? えっと……そうですね、昔の星廉は今とは違って『ぼく勉強しかしない、勉強以外どうでもいい。遊んでる暇なんて一秒もない』って感じでした」

「さすが俺が見込んだ男だ……」

 京先生がどこか感嘆気味にそんな言葉を吐いた。え、星廉はこの先生に見込まれてるの?? なんで?? 頭いいから?? 学校の先生って確かに勉強できる子好きだろうけど(LOVEじゃなくてLIKEの意味で)。

 星廉はこの人に気にいられて嬉しいんだろうか……と、私と莉乃ちゃんよりも何段か下の段に座る星廉を見る。彼はその言葉に引きつった笑顔を浮かべている。引いてるね。

「でも一くんといっちゃんは幼稚園が一緒だったのに、小学校からは別々になっちゃったの? なんで? あ、学区がちがったとか?」

 私の隣にいた莉乃ちゃんが尋ねてくる。

「学区は同じだったよ。でも星廉は、卒園と同時に頭いい学校の初等部に進学しちゃったからね。宮城に引っ越してったの。だからバラバラ」

「東億大の附属高校だろ?」

 サラリと京先生が暴露し、「うそー! すごく頭いい学校だよね!? 毎年、ニュースで卒業式とか入学式の様子が中継されたりしてる!」、「あそこ偏差値77とかだろう!? 全員エリート揃いだと聞いたぞ!?」と莉乃ちゃんと赤羽くんが声を上げた。

「しかも落第しねェかぎりエスカレーター式に大学まで行ける学校だ」

「エスカレーター式って、なに~?」

「本来なら、義務教育を終えたら高校受験をし、高校を卒業したら大学受験をして大学に入るところを、初等部を一度受験して受かっちまえば、あとは落第しねェかぎり順当に中等部、高等部、大学へと受験なしで進学できる」

「すごぉい、便利ー!」

「それだけ、初等部の受験は倍率も難易度も高ぇけどな。特に東億は人気校だから、保護者が目の色変えて、年端もいかねえガキを塾漬けにして入試対策してんだろうよ」

「京先生って口悪いんですね」

「そこも俺のセールスポイントだ」

 私の正直な発言を、彼はきれいな顔で不遜に笑って受け止めた。ちょっと意味が分からない。

「前から疑問だったが、一は何でわざわざ外部進学してきたんだ? こんな辺鄙へんぴな限界高校に。授業のレベル低すぎてつまんねぇだろうが。創立史上初の満点叩き出して、入試を首位で通過パスした男だぞ」

「そういえば星廉、校風が合わなかったとか言ってたよね」

 私は、今朝に星廉が言っていたことをそのまま口に出した。

「あ? いじめにでも遭ったんなら、俺がそいつをいじめ返してきてやる」

「やめておくんだ京教諭! 京教諭の年齢でいじめをしたら、顔と名前がニュースで全国放映されて鑑別所送りだ!」

「いじめではないですよ……。なんだか皆、学年が上がるごとに受験意識して殺気立ってて、こわかったんですよね。ライバルを蹴落とそうという感じが全面に出ていました……」

 莉乃ちゃんが「たとえば?」と首をかしげる。その拍子にハーフツインが肩にかかる。

「そうですね……テスト期間になると成績上位の生徒の机にカンペを忍ばせてカンニング疑惑をかけたり、ライバルのペンケースに入ってるシャー芯を全部折ったり、相手のノートを黒マジックで全ページ塗りつぶしたり……、あとは」

「待って、東億ってそんな殺伐さつばつとした校風の学校だったの?」

 驚いて私は思わず口を挟んでしまった。ほぼ、いじめじゃん。

「一くんもライバルのノート塗りつぶしたりしてたの?」

「馬鹿。一がそんな低俗なことするわけがねェだろ」

 莉乃ちゃんの純粋な疑問に、京先生は噛みつくような口調で言った。「やってませんよ……」と星廉も頷く。

「でも京教諭だったらやりかねんな!」

「やらねェよ。死にてェか、てめェ」

「ぼくは、そんなことはしたことありませんでしたけど……。でも、何度かやられたことはありましたね……。塗りつぶされたノートが親に見つかって、『いじめられてるのか!?』、『嫌あああぁー! うちの子がいじめられてるー!!』って盛大に誤解を生んで、『高等部には行かずに外部進学しろ』、『よその高校に行きなさい』って言われて。ぼくも嫌がらせを受けて学校生活に疲れ始めてたのは本音だったので、潮時かなと思って」

「やった奴、今どこに住んでんだ。家に火つけてやる」

「落ち着け、京教諭!!」

 殺気を滲ませた目の京先生をあわてて赤羽君がいさめる。教師に向いてなくないか?

「それで学校見学とか偏差値とか生徒数とかいろいろ吟味して、どこか一番いじめられなさそうかという協議が両親の間で幾度となく交わされた結果、今ぼくはこの学校にいます」

「そんなたいへんなことがあったんだ~。やっぱお勉強ばっかりだと息がつまっちゃうもんね。放課後あそびにいったり、恋とかもしたいよね」

「え、自分が恋愛するという発想は全くなかったです」

 星廉が目を瞬いた。

「えー、そうなの? つまんなーい。ていうか、いっちゃんに向かってすごい勢いで向かってったときは、てっきり一目惚れからの告白かと思ったー」

「一は一目惚れなんかしねェだろ。物事の本質を見る男だぞ……お前、うまそうなもん食ってんな」

 たばこを咥えて火をつけようとした京先生が、莉乃ちゃんのお弁当を一目見て言った。

 しかも担任の先生とおそろいらしいですよ、と言ったら彼はどんな顔をするだろう。

「えへ。莉乃がつくったの」

「すげェな」

「京先生、こういうの興味示すんですね」

「俺ァ、料理好きだからな。よく自炊もする」

 わお、ギャップ。

「莉乃いつもはもっとかわいいやつもつくってるんだよ。ほら、こういうのとか」

 莉乃ちゃんは、スマホにインスタの画面を表示させ、写真を見せてきた。皆で画面を覗き込む。

 可愛いクマのさくらでんぶのおにぎりに、アスパラのベーコン巻きやらプチトマトやら卵焼きなどが詰め込まれた、まあ可愛らしいお弁当だった。そんなお弁当写真の投稿には、#手作り、#可愛いお弁当、#よろこんでもらえるかな、と可愛らしいことこのうえないハッシュタグが付けられている。#愛妻弁当、#彼からのリクエスト、というアウトな項目は……見なかったことにしましょうかね。

「わ、わ~、かわいいですね」

 声に狼狽の色が滲んでいる星廉。明らかに怪しげなハッシュタグを見たようである。

「かわいいな! だが、アラサーの成人男性が食べるにしては可愛らしすぎる気がしなくもない!」

「俺ァ、自分の女にこんなん持ってこられたら、恥ずかしくて食えねェな……」

 そしてこっちはハッシュタグなど見ていなかった幸せな人たちである。

「なんでー! 可愛い方が女の子らしくてキュンとするでしょ? 朝の五時に起きてつくったのに」

「莉乃ちゃんって意外と尽くすタイプなんだね……」

「うん。皆はどう? 恋人に尽くすタイプ? 尽くされたいタイプ?」

 莉乃ちゃんの無邪気な問いかけに、シン……と場が静まった。

「あれっ、いっちゃんは自己紹介のときに恋人いないって聞いたけど……、男子たちは? 恋人とか婚約者とかいないの?」

「いないです」

「いないぞ!」

「いねェ」

 綺麗に三人の声がそろった。

 まじか。

「だれかに恋とかもしてないの?」

「ぼくはしてないですね……」

「俺もしてねェが、俺のことを一方的に好きな女は五万といる」

「悪いが、つきあいたいと思えるレベルの女子がなかなかいないんだ!!」

 約二名、恋以前の問題。

「恋したいとも思わないの~?」

 莉乃ちゃんは頬を膨らませてやや不満げに尋ねている。星廉が微苦笑した。

「ぼく、愛とか恋とかよくわからないんですよね……。どうやって皆恋したり、つきあったりしてるんでしょう……。恋愛は未知で未踏の分野です……」

「俺はまあ、いつか時期が来たら、とは思っているぞ!」

「そもそも、真面目に一人とつきあいたいと思わねェ。めんどくせェ。一晩遊んだら次いくからな俺ァ」

 約一名、最低。

「じゃあ、いっちゃんは?」

 莉乃ちゃんがキラキラの笑顔で横にいる私を見てきた。突然だったので少し面食らう。

「え、私?」

「うん! それだけ可愛いんだし、どんな人でも振り向かせられちゃいそうだよね~。どう? 恋してみたいとか思わない? うちのクラスに、いいなって思う人とかいなかった?」

「いないよ……」

 やたらキャラの濃い四つの顔が想起され、私はななめに視線をそらして言った。

「じゃあ、莉乃が他校の人とか紹介してあげようか? 花の女子高生なんだし、欲しいよね、彼氏!」

「いや、いいよ……。彼氏がいなくても死ぬわけじゃないし。私は一生独身でもべつに」

 そう返すと「ええー、せっかく可愛いのに。一人でさみしくない?」と莉乃ちゃんが唇をひんまげた。

 価値観を押し付けないでほしい。

 ちょっとイラっとしてしまった。

「……さみしいかもしれないけど、誰とつきあっても絶対にうまくいく保証とかないし。傷つくようなことになるくらいだったら、私は一人のほうがマシだよ」

「? どうしてキズつけられること前提なの? 優しい人だっていっぱいいるよ?」

 邪気の無い瞳で尋ねられる。

 答えあぐねる質問だった。

 優しい人はたくさんいる。でも、じゃあそのなかで浮気しない人はどれくらいいる? その人に出会える確率はどれくらい? もしも既にどこかで運よく出会えていたとしても、「この人は絶対浮気をしない人だ!」なんて、瞬時に気づける自信が全くない。父親という身近な存在の男性に裏切られた私は、もう、どんな系統の男性を彼氏にしたって、誰のことも信用できる気がしなかった。

「べ、べつに無理してだれかとつきあうことはないですよ。いい人がいれば、自然と気が向くものですよ、きっと」

 空気が悪くなりそうな気配を敏感に感じ取ったのか、星廉がフォローしてくれた。

「それに世の中、いろんな考えの奴がいんだからそんな話し合いしてたって一生平行線だろうが」

「そうだそうだ!!」

 莉乃ちゃんは、星廉と京先生の至極もっともな言葉と、赤羽君のクソでかボイスの同調にハッとした表情になった。

「ご、ごめんね。莉乃、いっちゃんにも恋愛の楽しさとか知ってほしいなって思っちゃっただけなの。莉乃は今、つきあってる人がいるけど、毎日すごく幸せだなって思うから。でもその考え方、押し付けちゃった。ごめんなさい」

 八の字になった眉から反省の色が窺えた。存外、莉乃ちゃんは素直に謝ってくれた。

「……ううん。私も、ちょっと言い方きつくなっちゃってごめんね」

 私が言うと、ゆるしてもらえてホッとしたのか、莉乃ちゃんはにへらと笑った。和泉先生の言った通り、キャラ濃いけど悪い子ではない。

「でも、ごめんね。莉乃、本当にいっちゃんのこと、なんかもうほんと『天使さん呼びだせそうなくらい可愛い!』って思ってたから、絶対幸せになってほしいなって」

「くだらねェ。あんなの作り話だろうが」

「京先生、ひどーい」

「天使ってなに?」

 ムッとしてた莉乃ちゃんは、こちらの問いに「この学校の言い伝えなの!」とよくぞ聞いてくれましたとでも言わんばかりの口ぶりで答えた。

「言い伝え?」

「えっと……、まず何から説明しようかな。この学校の裏庭にね、使われてない古い礼拝堂がそのまま残ってるの。昔は、全校生徒が朝と放課後に礼拝堂に集められてお祈りとかしてたみたいだけど。あっ、うちの学校が昔カトリックだったってことは知ってるよね?」

 細い指先で、莉乃ちゃんが私の胸元を指す。制服のカッターシャツに、十字架を模した校章の刺繍が入っている。

「知ってるよ」と首肯した。

 そう。この聖涼高等学校は、元カトリックの私立高校である。転入の前に公式ホームページでそう知った。けど今はカトリック系の学校と胸を張って宣伝できるような雰囲気ではなくなっているようだ。「入学式や卒業式のときに校歌と一緒に聖歌斉唱するくらいで、毎日、礼拝堂で礼拝をするという文化は途絶えている」と学校の口コミサイトで卒業生の誰かが書き込んでいたから。

「あんなとこ、さっさと取り壊しちまえばいいのにな」

「まあ建物こわすのにもお金いりますし、予算がないんでしょうね」

「ふむ! 大人の事情というやつだな!」

 莉乃ちゃんが咳払いして「それでね」、と続けた。

「昔は、生徒みんな熱心にその礼拝堂でお祈りしてたから、それをお空で見ていた神様が『その信仰心、実に素晴らしい。そうじゃ! ご褒美として、あの礼拝堂に天使を一人遣わそう! そしてその天使は、あの学校の生徒の願い事をなんでも叶えてやるのじゃ!』って、特に目をかけていた天使の翼をもいで、あの礼拝堂に堕天させたんだって」

 その天使、かなり可哀想なんじゃ……。

「礼拝堂って、ほこりくさくて寂れてて、つくりはチャペルみたいなところなんだけど。そこに行くとね、祭壇の前の席に分厚い聖書が一冊おいてあるんだって。それで、その聖書を手に取って、天使さんが登場している部分を読む。それからお願いをするの」

 彼女曰く、お願いはなんでもいいのだと言う。テストの点数が上がりますように。告白がうまくいきますように。あるいは世界平和とかでも可。

「お願いをしたのが絶世の美女だったときだけ、聖書の中から天使さんが現れて願い事を叶えてくれるんだって」

「……ふうん」

 意図せず気のない返事になってしまう。いくら私が小説フィクション好きだからって、現実でそんなことが起こるはずがないことくらいわきまえているつもりだ。

「あ、でもね。ただでは叶えてくれないんだって」

 ただでは叶えてくれない……? まさか、命と引き換えに……とか? いや、それじゃもう天使っていうより悪魔か。

「あのね、昔は皆あの礼拝堂でお祈りしてくれてたから、その信仰心に免じて天使さんも仕方なく無償で願いを叶えてあげてたらしいんだけどね。今はほら、誰もあの礼拝堂でお祈りなんてしないから……。いくら美人だったとしても信仰心皆無の人間の願いなんてただでは聞きたくないし、でも神様の命令には逆らえないから願いを叶えることはやめちゃいけないし、本当は天界に帰りたいけど翼がないから戻れないしで、どんどん性格がゆがんでいったみたいなの」

「性格が……ゆがんだ?」

「それは……京教諭よりもか?」

「ぶっ飛ばすぞ」

「ま、まあまあまあ……」

 鋭い眼光を見せる京先生を星廉がとりなす。

「ゆがんだってどんな風に?」

「自分が願いを叶える代わりに、人間には苦しんでもらいたいと思うようになったみたい。だから、意地悪な交換条件を出すんだって。それをクリアしないと願いは叶えないらしいの。しかも何日以内に完遂すること~、とか期限つきで」

「ええ……。まあ気持ちはわからなくもないけど」

「その交換条件は課題タスクって呼ばれてて、それをすべてクリアしてからでないと願い事は絶対に叶えてくれないの。期限を少しでも過ぎたらアウトなんだって。願い事のグレードが上がれば上がるほど、出される課題の数は多くなって課題ひとつひとつの難易度も上がるらしいよ~。はあ、莉乃がもっと可愛かったら天使さん呼びだせたかなあ」

「でも、そこまで意地悪だと天使っていうか、悪戯好きの妖精って感じだよね。天使だったらもっと慈悲深そうだし、信仰心ない人の願いも、不美人の願いも、普通に全部叶えてくれそうなのに」

「ね。莉乃もそう思う~。まあ、噂だからね。あとは、本当は礼拝堂でお祈りしてた生徒のうちの誰かに天使さんが一目惚れしちゃって、自分から神様に『あの人の願いを叶えたいから堕天します』って降りてきたけど、その好きな人に振られちゃって、人間に対して意地悪になった、とかいう噂もきいたことあるよ。莉乃はこっちが本当だったらいいなって思ってる」

「天使なんかいるわけがねェだろ。令和だぞ」

「え~? でも、本当に天使さんいたら良くなーい? ロマンチックだし、願い叶えてもらえるかもしれないんだよ?」

「いや、でも、よく考えてみるんだ綿貫女史。本当にいたら怖くないか? どんな姿形をしているかわからないんだぞ!」

 恐れるように自分の腕を抱く赤羽くん。

「でも、一目でそれと分かる姿をしていたらすぐ人間に捕まってしまって、生き残れていないと思います。今も天使がいるとしたら、相当うまく人間に擬態してこの世界に溶け込んでるんでしょうね……。それか人の目にはもともと視えない仕様なのかもしれないです」

 星廉マジレス。

「もし天使さんがいたら莉乃は~、彼氏とずっと一緒にいられますようにってお願いしたいな~。皆は何てお願いする?」

 真剣な表情の星廉とは対照的に、莉乃ちゃんは夢見る乙女モード全開だ。男性陣は、一瞬思考して答えた。

「……今の十倍くらい給料が上がって、煙草の税金も撤廃されますよーに」

「今日の夕飯、からあげにしてくれ!!」

「親の笑い方が、下品で嫌なのでいつか直りますように……」

「男の子って夢がなーい」

 莉乃ちゃんが不服そうに唇を尖らせた。「いっちゃんは?」と期待をこめた瞳で私を見た。

「え、うーん……」

 もし、天使がいたら私は……? そんなの叶えたいことなんて一つしかない。

「あ、でもいっちゃんはお願い事なんてないか! こんなに可愛くてモテモテだし、人生満足してそう! いいなー」

「あはは、そう見える?」

 べつにそんなこともないけど。莉乃ちゃんは「うん」と言ってぎゅっと抱きしめてきた。くっついてくる莉乃ちゃんの背を私はなでてあげた。莉乃ちゃんはけっこうスキンシップが好きなんだな……。

「仲がいいなお前ら……。俺ァ、そろそろ授業の準備をしてくる」

「がんばれ京教諭! 五限はどこのクラスなんだ?」

「五限が三年で、六限が一たちのクラスだ。今回も難しくしといたから楽しみにしとけ」

 京先生がほくそ笑んで星廉を指す。星廉は「ほかの科目に比べて解きごたえがあります」と笑っていた。莉乃ちゃんが「もっとレベル落としてよぉ」と先生のシャツの裾をひっぱる。

「落とさねェ、お前らが伸びればいいだけだろ」

 京先生は莉乃ちゃんの手を振り払うと、階段をカツカツ降りていって見えなくなってしまう。

 莉乃ちゃんが「けち」とむくれたとき、階下から黄色い悲鳴が飛んできて一同、身を竦めた。

「ぎゃあああぁー! 京先生! やばい、超カッコいいんだけど!」

「京様! 踏んでください! 罵倒してください!」

「うるせェ、お前らみてえな高校生には興味ねェっつってんだろ、どけ」

「ひぎゃあああああぁ! 罵倒ありがとうございます! ありがとうございます!!」

「かっこよすぎて死ぬううううぅーー!」

「死ね死ね。せいせいする」

 嘆息まじりのバリトンが階下から聞こえてきた。教育委員会が聞いたら卒倒必至のセリフ。星廉は思い切り苦笑。莉乃ちゃんは「相変わらずすごいねえ」と私に抱きついたまま言うし、赤羽くんは天然なのか「京教諭はコンプライアンスが怖くないんだろうか?」と首をひねっていた。

 でも、京先生のファンたちはどれだけ悪態をつかれてもそれはそれで嬉しいようで、「イヤー! 大好きー!」と叫びに近い声が響いてきた。うん。彼が人気のない静かなところで昼休みを過ごしたがるのにも頷ける。おそらく京先生って私と同じくらいモテてるんだろうし、それが三十年近く続いてたら鬱陶しくも思うわそれは。

 もしかしたらあと十年後くらいには、私も今以上にモテることに飽き飽きとし、彼と同等に毒舌かつ塩対応になってるかもしれない。

 ペットボトルの蓋をパキリと鳴らしてお茶を口に含む。

 ……それは嫌だな。

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