むなしい、感情
家の最寄りのバス停で降りて、星廉と別れた。バスが走り去って見えなくなったとき、スカートのポケットで軽快な音が鳴った。確認すると、天使からのメッセージで、「登下校の際、手をつなぐ」という課題をクリアしたことを報せるものだった。
「よかった……」
画面を見て、ほっと息をつく。
これで、残る課題は本当にあと一つだけだ。
……でも、できるのだろうか。星廉と。
キスをするのが心理的に嫌なわけではないけど、私は経験がないから身構えてしまうのも事実だ。
偶然、なにかの拍子に口が当たって、事故ちゅー的な展開になったりしないだろうかとも思ったが、そもそも私と星廉の間にはちょっと広めの身長差がある。そんなラッキーなことは、そうそう起こりそうにない。
どうしようか。キスのやり方なんてよくわからないし、誠実そうな星廉には「交際してるわけでもないのにいくらなんでもそれは……」と拒まれるかもしれないし、第一そういう雰囲気に持ち込めるのかもわからない。問題は山積みだ。
……でも、もし、私が最後のその課題を片付けることが出来たら。そしたらやっと、東雲篤貴の顔を見ることはなくなるんだ――。
妙に凪いだ気持ちでバス停から家までの短い距離を歩き、玄関のドアを開けた。すると、そこには女性ものの靴があった。一瞬、
「あ、祈璃! おかえり!」
台所からお母さんが明るい声で言って、顔を出す。顔いっぱいに笑みを浮かべていた。驚いた。
「え……お母さん? なんでいるの? 病院は?」
「え? 篤貴さんから聞いてなかったの? 今日退院だって。さっき篤貴さんが病院まで迎えに来てくれて二人で帰ってきたの。いま篤貴さんは、スーパーに夕飯の材料買いに行ってくれてる」
こともなげに言われて、ここ数日間のあいつの様子を思い出した。そういや、東雲篤貴が何か言いたげだったけど、まともに取り合っていなかったので何も知らなかった。
「あ、そうなんだ……」
靴を脱ぎながらそう返すと、お母さんは「さっきから祈璃が帰ってくるの待ってたんだから。ほら、早く来て」と嬉しそうにこちらに駆け寄ってきて、私の腕を引っ張った。
見舞いに一回も行かなかったのは、「病院で管に繋がれ弱った母の姿を目の当たりにしてしまったが最後、東雲篤貴への憎しみが最高潮に達して、私は奴を殺してしまうかもしれない」という確信に近い予感があったから。それに、車がないと行けない距離だったからだ。電車やバスでは時間がかかるし、料金もそれなりにするから財布に痛い。浮気相手を乗せていた東雲篤貴の車に乗るのはどうも躊躇われる。
私は母に促されるままリビングへ向かう。帰って来たのはほんのちょっと前なのか、そこはあまり冷房が効いていなかった。
「それにしても、ほんと良い家」
ダイニングテーブルの椅子を引いて座ると、お母さんが氷と麦茶を入れた二人分のグラスを置いた。喉が渇いていたので一口のむ。
「ここ、お庭も広いし。あっそうだ、せっかくだしなにか植えてみようか。祈璃はなにがあったらいいと思う? やっぱり食べられるもの?」
何だかやけに上機嫌だ。妙に思いつつも私は言った。
「え……、まあ夏だし夏野菜とかがいいんじゃないかな。あ、でも植えてすぐには収穫できないだろうし、いっそサツマイモとか? 花とかも綺麗でいいんじゃない?」
お母さんは「あー、いいねえ、お花」と頷いていた。一体なんなのだろう。コップを傾けて麦茶を飲むと、氷が涼やかな音を立てた。
「きいたよ」
「え? なにが?」
どきどきしながら、ほとんど中身が空になったコップを机上に置く。
「篤貴さん、言ってた。最近ちょっとだけ祈璃が変わった気がするって。前は顔を合わせるたび、罵声浴びせてきてたのに今はほとんどスルーするだけになったんでしょ? どうして?」
母は穏やかな笑顔を浮かべている。さっきまでのは、どう切り出せば良いのかを迷っていたからだろうか。本当に訊きたいのはそれだったのかもしれない。
「……まあ、あいつも少しは反省したのかな……って思ったっていうか?」
頬を掻いて答えた。こめかみに冷や汗が滲む。
嘘だから。
もうすぐ天使からの課題を達成できるし、そうすれば離婚という願いも叶えてもらえる。どうせあと少しで家からいなくなるのだし、と思ったら前よりもイライラしなくなっただけ。
私の返答を聞いて、お母さんはあっさりだまされて「そう……」と、どこかホッとしたように頬をゆるめた。
私も安堵して、そのお母さんの姿を改めて見て、何となく少し違和感を覚えた。
頬の肉が少し落ちた気がする。
もともと身長は低く痩せぎすだったけれど、それでも半袖のシャツから伸びた腕が妙にほっそりとしていて、朽ちかけた枯れ枝のように頼りない。
……お母さんって、こんなに痩せてたっけ?
「私もね、入院する前にいろいろ考えたの。いろいろ考えて、悩んで、出した結果がこれなの」
私が思わずお母さんを凝視していると、お母さんはいつのまにかまっすぐに私の目を見ていた。
これ、というのは離婚ではなく再構築を選んだという意なのだろう。
そうなんだ、とだけ言葉を返した。
お母さんの目には、力がこもっていた。夫がしたことのせいで、心労で倒れて入院まですることになったのに、それでも、きちんと考えたうえで離婚しないという結論を彼女が導き出していたことが、とても意外だった。もっと軽い気持ちで、いっときの気の迷いで、離婚したくないと言っていたのだと思ったのに。
「……お母さん、お父さんのこと、まだ好き?」
私はどうしてか、そんなことを尋ねていた。お母さんは、少しはにかんだ。
「大好きよ。篤貴さんのことは」
一瞬、聞き間違いかと思った。
……大好き?
一度、裏切られたのに? とさらに訊こうとしたら、お母さんははにかみ笑いのまま口を開いた。
「篤貴さんは、優しいのよ」
その言葉を聞いたとき、私は、「ああ」と心のどこかでひっかかりを覚えていた部分が、ふいに腑に落ちた感覚がした。
どうしてお母さんは、浮気されてもなお東雲篤貴のことを前と変わらぬ濃度の愛で包み込めるのか。
ダイニングテーブルを挟んだ正面に、笑っているお母さんを見る。
恐らくこの人は、とても慈悲深い人なのだ。
東雲篤貴を心から愛していて、だから浮気をされてもいくら傷ついても、慈悲深いから、「あの人は、優しいから相手の女性に言い寄られて断り切れなかったのだ」と許してしまえるのだろう。
胸が震えた。
なんて、世の中には優しい人がいるんだろう。星廉といい、うちのお母さんといい、人間離れしたそのやさしさはなに!
ていうか、そんなふうに、「大好き」だとか「彼は優しい」だとか、そんな、自分がいかに夫を想っているかののろけを聞かされてしまったら、私が天使に頼んだ「東雲篤貴がお母さんと離婚しますように」という願いごとを叶えにくいじゃないか。これ以上はもう、やめてほしい。
「あっ、そうだ。訊こうと思ってたんだけど学校は楽しい? 全然LIMEとかも来ないんだもの。今度の学校、二年生は二クラスしかないんでしょう? アットホームな感じで良さそうじゃない、友達はできた?」
「……まあまあ、話す子は何人かいるかな」
コップに視線を落とす。もう中には氷しか入っていない。
「嫌な思いはしてない?」
その慮るような声色で、先輩に詰められたことを思い出した。
「…………まあ、ちょっと面倒な先輩に絡まれたりはしたけど……。でも、この外見に生まれた以上は、そういう嫌な思いしないほうが……」
珍しいと思う、と続けて言おうとしたら、お母さんがガタンと席を立った。驚いて、顔を上げたら、腕がのびてきて、私は抱きすくめられていた。
お母さんに抱き締められたのなんて久しぶりだった。柔らかい髪から、柔軟剤の匂いが漂ってくる。
「祈璃、ごめんね。こんな中途半端な時期にいきなり転校とか引っ越しとか決まって……、いっぱいムリさせちゃったね」
…………何で?
天使からの課題、あと一個済ませたら、願いを叶えてもらえる段階まで来てるのに、どうしてこのタイミングでそんなこと言うの。どうせなら、礼拝堂に私が行く前に言ってよそういうことは。
星廉とのバスでのやりとりといい、ほんと今日は何なの?
当惑する。
【東雲篤貴がお母さんと離婚しますように】
最初は叶えたくて叶えたくて仕方がなかった願いごとが、私の中で叶えてもいいのか分からない不明瞭なものになってしまう。やめて。これ以上、聖母みたいなこと言わないで。言われたら、私は――。
「祈璃はやさしいね」
殺し文句だと思った。
願いを叶えたい気持ちと、叶えるのを躊躇う気持ち。わずかに後者が優勢だったのに、今やその天秤は完全に同じ重量で釣り合って、停止している。
心が揺らいでいる証だった。
「ありがとうね」
「…………うん」
お母さんの目を見れない。背中に腕をまわせない。
お母さんは、私のことを物わかりのいい娘だと信じて疑っていない。でも、ちがうんだ本当は。私は、そんな良い子なんかじゃない。天使に、二人が離婚するように願うような、そんな人間だ。
口数が減ったのを単なる照れだととらえたのか、お母さんは頭を数回なでてきた。
軽快な音が鳴る。お母さんのスマホからだ。私から離れてお母さんはスマホを取り出した。
「わあ、篤貴さんが退院祝いにケーキ買ってきてくれるって。祈璃はなにがいい? お母さんはチーズケーキがいいかな~」
はしゃいだ様子の母を、私は他人に向けるような空っぽの眼差しで眺めた。
……なんか、やっぱりお母さんすごく嬉しそうだ。
病院から家に帰ってこれたからというのもあるだろうが、それだけじゃないだろう。東雲篤貴と同じ家に戻ってこれたというそのことが、きっととても嬉しいんだ。
純粋にすごいな、と感心すらした。
だって、浮気した人だよ? 裏切った人だよ? なんで、そんなに楽しそうなの? 私は無理。絶対。
「祈璃は何のケーキがいい? ショートケーキ?」
お母さんが弾んだ声で問いかけてくる。
距離は近いのに、なんだか声は遠く聞こえた。
私は、心が狭いのだろうか。
星廉みたいに、おおらかでピュアな心を持っている高校生だったら、お母さんみたく東雲篤貴のことを許せたのだろうか。「これからまた家族としてやり直していこうね」、だとかそういう前向きで可愛いことが言えただろうか。
ゆるせない、私は。
私は、東雲篤貴なんか要らないよ。でも、お母さんはそうじゃないんだ……。本当に東雲篤貴が大事なのだ。
浮き足立つ母の姿をこれ以上見ているのはつらくて、気がつくと、私は勢いよく席を立っていた。
東雲篤貴に返信のメッセージを打っていた最中の母が、驚いたようにこちらを見る。
「……祈璃? どうかした?」
「……私、ちょっとでかけてくる」
「えっ、もう夕方だけど……」
「すぐ帰るから」
泣きたいような気持ちで、私は制服のまま家から飛び出した。何も考えていなかった。
ただ、この家にいたくなくて、どこか遠い場所へ行きたかった。
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