32:やっちゃった女

 私の目の前にある一件の寂れた店は、入口のドアに木の板を打ち付けて、誰も出入りできないように固く閉ざされていた。


『おばさまのパン屋さん』


 この看板も、元はただの『パン屋さん』という表記だったのだけれど、いつだったか、子供たちがイタズラで『おばさま』と書き加えたのだったわね。

 字なんか知らないくせに、子供たちはわざわざ私に文字の書き方を教えて欲しいとやってきたことがあった。それがこのザマだ。


 まあおばさまも字はあまり得意じゃないらく、何を書かれたかなんて当初は分からなくて、落書きをされたことに怒っていたのだけれど。

 でもそれが、『おばさま』と読むのだと分かると、途端に怒るのをやめて、ニコニコと上機嫌になったのよね。


 うちの領地は確かに寂れてボロボロだけど、今日はとびきり、空気が重くて、殺伐としているように思える。

 いつもは私の顔を見れば笑顔で挨拶をしてくる領民も、困り顔で顔を伏せるだけだった。


 そしておばさまは、もう何日も家からでていないそうだ。


 ――おばさまがパン屋を閉店した。


 それを聞きつけ、いてもたってもいられずここに来たけれど……どうも事実と相違ないらしい。

 なぜ? おばさまの為にバスターズは活躍した。麦も領内で買えば、むしろ前までよりも安く仕入れられるようになった。

 そもそもまだ私があげた麦粉だってあるはずでしょう?


 ……悔しい。

 私のこれまでの努力が……踏みにじられた気分だわ!

 おばさまに一言申し上げなければ気が済みませんわ!


 店の裏手をノックする。


 ……返事がした。

 若い男の声だった。

 私のよく知る声だった。


「ごめんなさい、おばさんちょっと――って、カリン様!?」


 麦色の髪と暑苦しいまでのムキムキ!

 やっぱりカント!


「あんたね……最近バスターズの訓練に出てこないと思ったら、なあにおばさまの家に転がり込んでるのよ! スケベ!」


「えええ!? ち、違いますよ! そんなつもりじゃ……!」


「こ、これはカリン様! こんな場所まで来ていただいて……」


 カントに呆れて文句を言っていると、奥から、私が最も文句を言いたい人物が現れた。

 ……少し、痩せたわね。まあそんなの関係ないわ。


「おばさま。訳を話してくださいませ。どうしてお店をやめてしまったんですか?」


 気恥ずかしそうに顔を伏せるおばさま。

 少しの沈黙の後、カントが代わりに何かを言いかけたけど、おばさまにそれと止められていた。そして、おばさまが自ら、その理由を口にする。


「実はね……その…………やっちゃったの……」


「……なんですって?」


 要領を得ずに聞き返す。

 おばさまはおずおずと口を開く。


「ですから……や、やっちゃったんですっ! こ……! 腰を! あ、あいたたたた……!」


「おっと!」


 突然痛みに苦しみ崩れ落ちるおばさまを、カントがうまくキャッチした。

 深いため息……。おばさまのものだ。さらに気を重くして、おばさまは言った。


「み、見ての、通りです……ううっ! や、やっちゃったんです! ――ギックリ腰ッッ!!!」


「な、なんですって!?」


「くっ! おばさん……なんて悲惨な姿にっ!」




 いやいやおかしいでしょうがっ!? じゃあなに、治ったらまた続けるのよね!?

 でもあの街の雰囲気は……!?


 も、もっと詳しく教えなさいよ!

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