自己防衛

 男は彼女の反応が薄いのは、腹が減っていると思いメイドに食事の準備をさせた。

 そして、彼女の前に並べられた昼食は、彼女の人生の中で比べられない程豪華な物だった。

 肉や魚に野菜も、パンも一見しただけで高いものだと分かる代物。

 それらを目の前にして、エレナは混乱していた。

 高い飯に反応しているのではなく、目覚めてから今に至るまでの全てが彼女が理解出来るキャパを超えているからだ。

 しかし、身体は正直なもので漂ってくる芳香が鼻をくすぐると、すぐに腹が鳴った。


「召し上がれ」


 男はワインを飲み、相変わらずの気色悪い笑みを浮かべている。

 エレナにハンガーストライキする覚悟も度胸も無いので、おずおずと飯に手を付け始めた。

 フォークを手に取り、一番近くにあった鮭のムニエルに狙いを定めるが、ふと脳裏に声が響いた。


『いいか、エレナ』


 石田の声だった。


『飯を食う前には、必ず“いただきます”って言うんだ。……食材に感謝するんだ』


 日本で暮らし始めたばかりの頃、何も言わずに飯を食べようとした時に言われた言葉。

 フォークを置き、手を合わせる。


「……いただきます」


 蚊の鳴くような小さな声だったが、そう言った。

 それから、改めてフォークを握りムニエルへ突き立てた。

 美味しいはずなのに、エレナには味を感じれない。長いこと眠っていたのに、彼女の身体はマラソンが終わった時と同じくらい疲れていた。

 ストレスが彼女の心身を蝕んでいたからだ。

 結局、ムニエル一切れとスープを半分程飲んで食べるのを止めてしまう。


「具合でも悪いの?」


 男が問いかけてくる。

 常人なら、「お前のせいでな」くらいは言い返すだろうが、九歳の女の子はそんな胆力を持ち合わせていない。

 エレナは何も言わず席を立つと、覚束ない足取りで寝室に戻った。

 そして、布団を被って目を瞑った。

 脳が強いストレスから自我を守る為に、現実逃避を推奨したのだ。

 もう一度眠ってみて今度目が覚めれば、そこは知っているアパートの一室で、元気な状態の石田とイリナが居る……つまり、彼女の脳は夢オチを期待している。

 しかし、現実は非情なもので今この瞬間が現実なのだ。

 寝ても覚めても、この屋敷からは逃れられない。

 深層意識では理解しつつも、自我は認めようとしない。

 挙句、脳は柔らかい布団に包まってる状態を、イリナに優しく抱き締められていると認識しだす。

 堪えきれない感情が、涙になって溢れだしていく。

 次第に布団が温まって来るが、それは彼女を癒してはくれない。

 その温かさは、決して人が出す慈愛に満ちたものじゃないのだから。

 

 神奈川県横須賀市。米海軍横須賀基地。

 公安四課の草薙と山寺は、横須賀市本町、稲岡町、楠ヶ浦町、泊町、大滝町に位置する広大な基地内にいた。

 山寺は並んで立つ商業施設を眺めながら、感嘆の言葉を呟いた。


「こりゃあ、基地ってより一つの町ですね」


 横須賀基地内には、一万二千人程の人間が暮らしている。軍人やその家族も含めた数だが、軍事基地と考えると中々の数だ。

 それらの人数を養うのだから、商店が集まり町にもなる。

 草薙はその言葉に頷きつつ、遠くに並ぶミサイル巡洋艦やミサイル駆逐艦を見た。

 二人が居るのは居住地に近いエリアだが、同じ敷地内には威圧感を放つ軍艦が駐留している。

 日本国内でありながら、日本ではない。

 奇妙な空間だなと、草薙は思った。

 彼等がここに来たのは、今回の事件に関する調査だった。

 現役米海軍兵士によって、日本国内に銃器が持ちこまれたなんて御偉方が聞いたら泡吹いて憤死しかねない。

 だから秘密主義の公安が来たのだ。

 二人は海軍犯罪捜査局のオフィスに入り、担当捜査官と対面した。

 社交辞令もそこそこに、仕事の話へ入る。


「調査の結果、十名の補給部隊の兵士が犯罪行為に加担しているのが判明しました」

「十名ですか」

「はい。大金を見返りに、米国から兵器を密輸していたと自供しました」


 捜査官が調書を差し出す。

 草薙と山寺はそれにざっと目を通し、大きな溜息を付いた。

 それには、拳銃やアサルトライフルやサブマシンガンなどを米国から密輸した旨の証言が書かれていた。

 

「銃器はともかく、手榴弾まで……」

「本国の基地から盗んだらしいです。……まったく、嘆かわしい」


 捜査官は怒りを露わにする。


「……確かに、金は大事です。ですが、金には代えられない物がこの世にはあると思うんですよ。……綺麗事かもしれませんがね」

「分かります」


 草薙が彼に同調した。彼は話を続ける。


「私は、軍人じゃありませんけどね、法の下で働く者としてのプライドがあります。軍人も、国を背負って働く者としてのプライドがあると思うんですよ。……なのに、金と引き換えにプライドや軍人としての誇りを捨てるなんて!」

「………………」


 最後の方は立ち上がって演説の様になっていたが、我に返ったのか座り直し咳払いをした。


「……それに、使う理由も許せません。自分にも、十歳になる娘が居まから。……その、娘さんを攫われた人の気持ちは、よく分かります」


 二人は苦笑しながらも、彼の言葉に頷いた。


「金を使って子供を攫うなんて、許さるはずが無いのに。……子供だって、喜びなんかしないですよ」


 彼の言葉に、二人はその通りだと返した。

 エレナが攫われてから一日。何かされるには、十分すぎる時間が経っている。

 最悪の場合も想定しなければならない。

 だが、その前に何としてでも助け出さねば。

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