考える暇

 十八歳の秋に出国して以来、一度も帰ってくる事は無かった。

 母国、日本。

 傭兵達の中には、故郷を失くし落ちぶれた奴も少なくなかったが……帰ってこれる場所があるだけ、マシなのだろうか。

 空港から出て、タクシーに乗った。

 情報こそ少し仕入れていたが、生の景色には負ける。

 浦島太郎の気分が分かる気がする。

 

「……運転手さん」

「なんです?」

「少し、東京の街を回ってくれないか」

「……分かりました」


 流れる街並みをぼんやりと眺めながら、いつの日か読んだシェイクスピアを思い出す。


「今は10時である。かくしてわかることだが、世界は動いている。9時であったのはつい1時間前のことで、これから 1時間後には11時になるであろう。かくしてわれわれは一刻一刻熟していき、それから一刻一刻腐ってゆく。」

――『お気に召すまま』


 俺がまだこの国にいた時、新宿に都庁は無かったし、隅田川のほとりにスカイツリーなんてそびえていなかった。

 人々はスマートフォンなんて持っていなかったし、こんな世の中になるとは想像もしていなかっただろう。

 世界は常に動いていて、永遠なんてものは無い。

 諸行無常。栄枯盛衰。

 俺も、シェイクスピアの言葉を借りるなら……腐っている最中なのだろう。

 過去に戻りたいなんて言わない。

 だが、生きる理由の一つくらいは恵んで欲しいものだ。

 ……しかしそう思っても、死ぬのは怖い。

 せめて死ななないように動き続けていると、気が紛れたからいつも考え動き続けた。

 特技ともいえる外国語で飯の種を得ようと考え、英会話教室の講師となり、近くのアパートを借りた。

 自分も激動の生活を送っていたが、動き続ける世界も激動だった。

 新宿駅で爆破テロ未遂。

 多発する銃器犯罪。

 半グレによる陸上自衛隊駐屯地への襲撃未遂。

 ……そして、後に新宿事変と呼ばれるテロ事件。

 破滅願望を持つテロリストが若者を扇動し、海外から密輸した自動小銃で武装し、官庁街への襲撃を企てた。

 その際、陸自と衝突し双方に死者を出した挙句、政府は攻撃ヘリを持ち出して事態を収束させた。

 俺は当事者でもない第三者だったが、連日新聞やラジオで報道されるテロリスト達の身勝手な犯行理由に耳を傾けていると、どうも胸の奥が切なく痛む。

 生きる理由。戦う理由。

 俺に足りないものは、その二つ。

 いくら身勝手でも、その二つを充実させているテロリスト達が、羨ましく思えた。

 理由を持って好き勝手に生きて人様に迷惑を掛けるか、理由が無くとも迷惑を掛けずに生きるか。

 道徳的に正しいのは後者だが……ついこの前まで前者に近い立場で生きていただけあって、完全に否定は出来ない。

 そんな煮え切らない胸の内を抱えながら、俺は毛布に包まり目を瞑り続けた。


 俺が帰国して一年と四か月。

 季節は廻り、夏になっていた。

 仕事は休みで大した予定も無かった俺は、気持ちの慰め程度に買ったサボテンの鉢植えを弄っていた。

 趣味らしい趣味を持った事も無く、草花を育てる機会にも出会えなかったくせに、これがまた意外と楽しい。

 生きる理由とまではいかないが、多少生活にハリが出てきたはずだ。


「サボ子、大きくなれよ」


 ボキャブラリーが貧しいせいでなんともダサい名前になってしまったが、怒るでもなく、拗ねるでもなく、毎日少しづつ大きくなっている。

 バックミュージック代わりに流しているラジオからは、新宿事変の公判について流れている。

 親からのマインドコントロールやら、強迫されていたやら、そこが裁判の論点になるやら。

 たが、いくらか熱が冷めた話題に俺は耳を澄ますでもなく、サボテンの産毛の様な棘を指先でもて遊ぶ。

 怠惰として表されるこんな生活にも慣れてきたが、それが良くない。

 考える事無く必死に動いてきたから、こうした安寧がある訳なのだが……逆に言えば今は考えられる余裕があるという事だ。

 朝起きてすぐの空白の時。

 仕事中のふとした時。

 サボ子に水をやっている時。

 布団に入ってから、眠りに落ちるまでの暗闇の時。

 気を緩めると、思考が雑草のように生えてくる。

 根っこから枯らすべきだろうが、いかんせん方法が分からない。

 俺は溜息を付き、サボ子をカラーボックスの上に置いた。

 時刻は昼前。

 素麵でも茹でようか。そう思い、窓を開けた。

 備え付けのボロイ換気扇だけじゃ、熱気は簡単に逃げてくれないからだ。

 ラジオの音をかき消す程のセミの声がなだれ込んでくる。

 緩い回転を繰り返す扇風機を外に向け、戸棚から素麺の袋を出した時だった。


「石田さん? 石田亮平さん。ご在宅ですか?」


 扉をノックする音と共に、男の声で尋ねられた。

 宅配便でもなければ、名前を出す当たり宗教勧誘でもない。

 不審に思いつつも、俺は扉を開いた。


「……どなた?」


 玄関先に立っていたのは、三十代半ばの眼鏡にスーツ姿の男と二十代後半の女だった。

 女の方の格好はカジュアルだったが、男同様のお堅い空気を纏っている。

 双方が懐から身分証を出す。

 女の方は警官。けれど、男の方は変わった身分だった。


「日本ISS本部強襲係主任。矢上薫です」


 無機質な空気に、湿り気を帯びた暑いものが混じった。

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