仮の安寧
男やもめの部屋に、来客用のカップやお茶なんてある訳も無く。
唯一二つ揃っていたのが、ワンカップの瓶だったのでそれに烏龍茶を注いで、客の前に出す。
二人共喉が渇いていたようで、頂きますと言うなり半分程一気に飲んでしまった。
「……それで、ISSの主任さんとお巡りさんが何の用で」
汗ばんだこめかみを掻きながら、目の前に座る男女を見る。
「実は、石田さんにお願いと言いますか。やっていただきたい事がありまして」
口火を切ったのは、矢上と名乗った男だった。
「……何を?」
「戦闘のインストラクターです」
「……ほう」
矢上の話はこうだった。
この国において、銃器の戦闘が想定されているのは陸海空の自衛隊と警察、海上保安庁の三つ。
他にも銃の携帯が許可されている職業はあるが、対人を想定しての訓練を積んでいるのはそれらとなる。
しかし、他国に比べれば圧倒的に実戦経験が乏しい。
例えば、アメリカなんかは何度も海外に出兵してるし、銃器を一般市民が所持できる事情が故に警察官も数多くの修羅場を潜っている。
でも、自衛隊は戦争を経験していないし、警察もこの令和の世に大規模な戦闘になった事は無い。
これまでは大した不自由は無かったかもしれないが、状況はこの一年で大きく変わってしまった。
去年の新宿駅での事件を皮切りに、治安は悪化。
その挙句に新宿事変。
殉職した警察官や自衛隊員達が、無能とは言わない。
けれど、百回の訓練より一回の実戦と言われる様に、彼等の死は経験値の無さからくる油断や準備不足と言われた。
日本ISSと警察はその事態を鑑みて、限りなく実戦に近い戦闘が出来るインストラクターを探すことにしたのだ。
……そして、白羽の矢が立ったのが俺だ。
「……自分で言うのもアレなんだがな。もっと有能な奴はいるだろ。こんな老いぼれじゃなくて……もっとイキのいい奴がいるはずだぜ」
ラッキーストライクを一本咥え、百円ライターで火を付ける。
ヤニで真っ黄色になった壁紙に煙を吹きかけ、乾いた笑い声を出した。
すると今度は、草薙と名乗った名刺に警視庁公安部公安四課の肩書を持つ女が、一つのファイルを差し出した。
それには、俺の氏名から行きつけの弁当屋に至るまで、個人情報が記されている。
ご丁寧に写真まで添えられている。
「貴方が帰国してから、今日に至るまでの監視記録です」
「監視記録だって……?」
「はい」
草薙によると。
日本において、銃を扱える人間というのは貴重だ。
エアガンを撃ってる奴は掃いて捨てるほどいるが、実銃での戦闘経験を持つ人間はそうそういない。
警察官なんかの身分が定まっている奴ならまだしも、俺みたいな元や現役の傭兵なんて……国籍こそあれ幽霊に近い。
テロや事件を未然に防ぐ為、そんな奴は一定期間監視される。危険思想を持ったうえで破壊活動を行える技術を持っているとすれば、とっとと檻にぶち込んでしまった方がいい。
俺もその一人として、見られていたのだ。
ましてや、春先にあった新宿事変から半年経っていない。
公安がピリ付くのは当たり前と言える。
「……ずっと見張ってたのか」
俺は感心した様な、呆れた様な声を出した。
「それで給料を貰ってるので」
草薙は俺の前にファイルを置く。
「差し上げます。……私達には、もう必要ありません」
半分程燃え尽きた煙草を、灰皿に押しつける。
「これ以上、身辺調査する必要がないってか」
「ここ一年の動向と、経歴は確認済みです。貴方の様な方に指導して頂ければ、こちらとしても心強いです」
断るという選択肢は、最初から潰されてるようだ。
口の中に残っていた煙と共に、諦めの吐息を出した。
――かくして、俺はめでたく日本ISSの戦闘インストラクターとなったのだ。
生活はそれから一変した。
老いと一年のブランクでたるみ切っていた体を鍛え直し、四六時中戦闘訓練に勤しむ。
家に帰る頃には、サボ子の世話も出来ないくらい疲れ果てている。
しかし、気分は悪くない。
煙草も止め、酒も少し。それで、毎日運動しているのだから、調子は出てくる。
肌から染み出るのが、健康的な汗である事がよく分かる。
それに年が離れている奴と話すのも、いい刺激となった。
自分の脳が、失われた三十年分の知識を吸収しようと必死になる。
そのせいか、パソコンも携帯電話も少々覚束ないながらも、使えるようになった。
視力や動体視力、筋力も衰えているが人に教えるのには不自由しない。
更に言えば、その刺激に満ちた日々のお陰で余計な事を考えずに済む。
朝早く起きて、布団に入ればすぐに寝入ってしまう。
たまの休みもサボ子の世話や溜まった家事で消化されるし、ほぼ暇は無い。
明らかに空白の時間が減った。
微妙なバランスの上に成り立っていた精神の安定が、ここに来てようやくしっかりとした地盤の上に立った気がする。
充実した日々と言っても、差支えは無いだろう。
……だが、そんな日々は長くは続かない。
時刻は、刻一刻と過ぎている。
永遠に変わらないものなど、ありはしないのだから。
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