傷口
散歩と言いつつ、俺にチーズバーガーを買わせたイリナは、満足げにそれに齧り付いている。
見ている分には可愛いものだが、自分がビックマックセットとエレナ用のハンバーガーセットの紙袋を抱え、炎天下の中を歩いているとなれば、少しげんなりしてくる。
「お前もちっちぁ、荷物持てや」
「それは私の買い物じゃないもん」
「……しゃあしゃあと」
横目で睨むが、イリナはどこ吹く風だ。
やっとの思いで支部に戻り、クーラーの冷風に当たるとようやく生きた心地がした。
オフィスに戻ると、やっぱりエレナは一人でソファーに座っていた。
俺が紙袋を彼女の目の前に差し出すと、パッと花が咲いたように笑顔になる。
「ありがとう」
紙袋を渡し、俺は自分の分のバーガーを食べ始める。
エレナも両手でバーガーを掴み、豪快に齧り付いた。
飯を食ってもなお、この食欲とは。
よほど腹が減っていたのだろう。
「美味いか?」
「うん」
素直な子だ。
女の子というのもあるかもしれないが、昔の俺より良い子だ。
「母ちゃんの飯とどっちが美味い?」
何気無い質問を投げかけたつもりだったが、エレナの表情が一気に曇るのを見て、『失敗した』と思った。
どうやら、地雷を踏んだらしい。
「石田さん」
見かねた局員が俺を呼び、事の成り行きを見ていたイリナがエレナの相手をする。
半ば引きずられるように、休憩スペースに連れてこられた。
「……その、気を悪くしないでください」
局員が謝罪する。
「いや、どうやら俺が失言したみたいなんで……。そっちは悪くないですよ」
「そう言ってくれると、助かります」
局員はソファーに腰掛け、大きな溜息をつく。
「エレナちゃんの事は、いずれ話すつもりでした……」
「何があったんだ」
俺が『母親』の事を口にした瞬間、彼女の顔色が変わった。
そこに傷があるのは、間違いない。
でも、一見して虐待を受けているようには見えなかった。
船に囚われていた時と、さして様子は変わっていない。
初対面の印象は、あのドンパチの最中だから薄いが、普通の子供に見えた。
しかし、局員の言葉は、俺に紛れもない事実を突きつける。
「……あの子は、売られたんですよ。……親にね」
――エレナが育ったのは、コロンビア。
ベネズエラとの国境付近の町だった。
そこは、ベネズエラからの難民が多く流れ込んでくる町で、治安は最悪に近い。
勿論、そんな町の経済状況もたかが知れている。
経済的に困窮した家から、力もなければ学も芸も無い者を追い出すのは、当然とも言える。
酷く思えるが、それが現実。
今でこそ豊かな国々も、貧しかった時代は口減らしとして殺したり、遊郭なんかに売ったりもしていた。
俺も傭兵時代は似たようなものを、見たことがある。
親が子供を売り払う。
その末路と言えば惨いなんて物ではなく、残酷の境地を超えた狂気と捉えるべきだ。
けれど、理解は出来る。
無駄飯食わすより、売っ払った方が得かもしれない。
……でも、納得は出来ない。
「それで、巡り巡って……あの船に?」
「ええ。なんとかして、親とは連絡を取ったんですけどね……」
局員の表情は暗く、そのコミュニケーションが徒労に終わったことを直喩している。
俺も重たい息を吐き、局員の向かいに座わった。
「……悪意無しで言うけどさ。ある意味運が良かったよ。……あの子は」
飯も食えるか怪しい地元より、最低限度の生活は保証される金持ちに買われる。
少なくとも、飢えることはない……はすだ。
……だが、今がこうならあの子の幸運のベクトルは、いい方に向かっているだろう。
幸運の神が、ようやく慈悲の御心を出したのかもしれない。
『遅ぇぞ馬鹿たれ』と罵倒してやりたいが、あの子の今後の為に自重する事にした。
向こうも自分が持つ幸運を、こんなおっさんのせいで目減りされたくないだろう
「……そうかも、しれませんね」
局員は切ない笑みを浮かべ、ゆっくりと立ち上がった。
「あの子に謝らなきゃ」
俺がそう言うと、局員は笑い頷いた。
去る背中を目で負い、一人残され俺は苦笑した。
「……ありゃあ、シンパシーってヤツだったのかな?」
ソファーに腰掛けるあの姿が、三十年前の俺に重なったのかもしれない。
日本を出る前。
あるターミナル駅の休憩室。
漫画喫茶とかネットカフェなんてものが、まだ普及してなかった時代だ。
硬くて青いプラスチックのベンチで、時間を潰していた……あの姿に。
「年喰うと、感傷的になっていけねぇや」
滑り出た言葉は、床に落ち何処かに転がって行く。
灰色の髪を掻きむしり、立ち上がると俺はオフィスに戻る事にした。
ほんの僅かな時間だったけれど、少女の顔色はちょっとだけよくなっていた。
「……よっ!」
「……おじさん」
「さっきは、悪かったな。おっちゃん、なんも知らなくてな」
「………………」
俺はエレナに向かって頭を下げる。
「悪かった。……勝手かもしれないけど、おっちゃんを許してほしい」
「……おじさんが悪い人じゃないのは、分かってるから。……大丈夫」
無理矢理な気がするが、何とか許してもらえた。
……気がする。
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