戦闘前

 エレナが目覚めたのは、いつもと違う寝室だった。

 ほんのりと香ってくるヤニの臭いや、騒がしく鳴いている虫の声もしない。

 彼女は身を沈めているのが、いつもの布団ではなく見た事無い程豪華なベッドであると気が付くと同時に、頭を抱えた。


『俺の事はいい! 逃げろ!』


 耳の中だけでなく、脳にまで焼き付いた――大切な人の声。

 銃声と悲鳴。脚や腕から流れる鮮血。


「おじさん……。お姉ちゃん……」


 助けを求め、大通りの方へ駆けていったが突然横から腕を掴まれ、甘い匂いがする何かを嗅がされ、気を失って以来記憶が無い。

 石田とイリナの生死すら分からない。その事が、彼女を底無しの不安に陥れる。

 逃げ出そうにも、勇気を振り絞る余裕は胆力は彼女は持ち合わせていない。


「……私の、せいだ」


 攫われる原因は自分で、自分が二人と居たせいで二人は撃たれた。

 間違った事ではないが、正解でもない。

 石田とイリナは排除対象として見られていた。遅かれ早かれ、凶弾の餌食になっていただろうし、その場にエレナがいようがいまいが関係は無いのだ。

 今回はたまたま、エレナの目の前で撃たれただけである。

 しかし、それを理解するにはあまりにも幼く、無知である彼女は自分を責めてしまう。

 撃たれる直前、襲撃の理由はエレナの責任ではないと二人は言ったが、それを心から信じられる程、彼女が置かれていた状況は優しくはなかった。

 何かにつけて自分を攻め立てる実母の下で九年も過ごしていれば、自己肯定感は限りなく低くなってしまう。

 それに、出会って一か月しか経ってない石田達に、完全に心を開いた訳じゃないのだ。

 勿論、一定の信頼を寄せているが、これまで目にしてきた大人が、全員自分の利益を求めるだけのクズだったせいで、大人を完全に信用出来ないのだ。

 心の片隅には、「いつかこの二人も、自分を疎ましく思い、見捨てる」といった感情を持っている。

 石田を「おじさん」と呼び、イリナを「お姉ちゃん」と呼んでいるのも、それが根本にある。

 別に、石田達は「お父さん」や「お母さん」と呼ぶ事を強制はしてないし、気にしてもいない。

 彼女の意思を最大限尊重する。

 それが、彼等のスタンスだが、エレナの心を完全に溶かすには時間が少なかった。

 エレナが滲み出る涙を拭っていると、不意に扉が開いた。

 入って来たのは、見知らぬ男だった。

 醜く太っていて、薄ピンクのポロシャツと短パンを履いている。


「よく眠れたかい?」


 猫なで声を出しながら、男はエレナへ近づいていく。

 エレナは喉から引きつった悲鳴が漏れ、脳内では逃げようと命令を出しているが、パニック状態に陥り体が動かないままだ。


「いやいや。会いたかったよ」

「……お、おじさんは……誰、ですか?」


 何度も口を開閉し、やっと発した言葉は男への質問だった。


「おじさん? おじさんはね、君のファンみたいなものさ」


 男は恥ずかしげもなくそんな事を口にしてから、口角を上げて笑う。

 それは、石田の粗野で豪快な笑みとも、イリナの凛とした中に慈愛が光る笑みとも違う、粘ついた生理的不快感が前面に押し出た顔だった。



 東京都中野区。東京警察病院。

 俺は松葉杖を突きながら、イリナはびっこ引きながら、食堂へと向かった。

 杖無しで歩けない訳じゃないが、激痛が走る。負担を掛けて、治るスピードを遅くしてはいけない。

 本来なら、こうして院内を出歩く事すら医者にはいい顔をされないのだが、そこを無理言って許してもらっているので、贅沢は言えない。


「……遅いわよ」


 足を引きずっているとはいえ、向こうの方が少し速い。


「オメェと違って、俺は腕撃たれてんだ。杖を握るのだって痛いんだぜ」

「関係ない」

「鬼め」


 言い合いをしながら食堂に入る。入口近くの壁沿いの席に、矢上が座っていた。


「どうもです」


 俺達の姿を確認すると、彼は手を上げて応じた。

 彼の向かいに座り、話を切り出す。


「早速で悪いけど、色々聞かせてもらうよ」

「ええ――」


 彼は頷き、書類を机の上に広げた。

 エレナを攫った車は、Nシステムなどを避けて逃走したようで詳しい行き先は不明。

 しかし、この国へ入国した黒幕は、長野は軽井沢の別荘地域へ向かったようだ。

 あそこらへんは昔、外国人の避暑地として栄えた土地であり、今も金を持ってる外人がよく出入りしている。

 きょうび外国人なんて日本でも珍しくなくなってきたが、目立たないに越したことはない。


「――これが、突入予定の別荘の外観です」


 書類にクリップで留められた写真を、矢上が指で叩く。

 三階建ての洋館。なんとなく、教科書で見た鹿鳴館を小さくしたような感じがする。


「いい屋敷じゃない」


 敵に関する事は基本褒めないイリナも、そんな言葉を漏らす。

 

「エレナちゃんは、ここにいるはずです」

「……突入は? 何処の誰とやる?」

「本部強襲係第一班。バックアップとして、神奈川県警SATが来ます」

「航空写真か何かある?」


 イリナがそう言い、矢上にグーグルアースを見せてもらう。

 俺もそれを覗き込み、脳内で作戦を組み上げていった。

 

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