事態は動き出す
翌朝。
俺は目を覚ますと。
「おはよう。おじさん」
「おはよう」
今日はいち早く起きていたエレナが、カーテンを開けている。
イリナはまだ寝ていた。涎で枕を濡らしながら、ぐっすりだ。
起こさない様に布団を出て、エレナと朝食を作り始めた。
俺がウインナーを焼いている間に、味噌汁用の湯を沸かしているヤカンを見張る役だ。
鼻歌まじりで菜箸でウインナーを転がす。
選曲は小柳ルミ子の『お久しぶりね』だ。
「……おじさん」
「ん?」
「もう、怒ってない?」
キンキンに冷えた水を、脳天からぶっ掛けられた気がした。
火を消し、菜箸を置くとしゃがみ込み、エレナと目線を合わせる。
「……どうして、そう思ったんだい?」
「昨日、私の鉛筆買った時から、ずっと怖い顔してたから」
自分では意識していなかった事だ。
勿論、二人を心配させまいと笑顔で接していたのだが、無意識の内は分からない。
部屋の中が鏡張りにでもなってない限り、自分の表情なんて分からないものだ。
どうやら、俺は内に溜めていた怒りを出してしまったらしい。
「……大丈夫。おじさん、もう怒ってないよ」
「本当?」
「ああ」
歯を見せながら笑い、表情筋全てを使って怒ってない事をアピールする。
エレナは安心したようで、肩の力が抜けていった。
「……私の、本当のお母さんはね、いつも怒ってた」
「………………」
調理を再開しようかと、立ち上がった時だった。エレナが語り出したのは。
「私を見て、ため息ついて、『要らない子』っていつも言ってた」
それを聞いて彼女の母親に対する憎しみで、唇が震えてきた。
まだ九歳の女の子に、なんて仕打ちをするのか。
子は親を選べないとは、よく言ったものだ。
望んだ子供じゃなかろうと、産んだ以上は責任を持つのが大人というものだろう。
綺麗事かもしれないが、赤子を亡くして慟哭していた親と、アレコレと言い訳をして子供を捨てた親の両極端を、俺はこの目で見てきたから、そう断言できる。
「……だから、おじさんが怒ってるのを見て、怖くて何も言えなかった」
いつの間にか流していた涙が、頬を伝う。
年甲斐もなく泣きながら、俺は娘を抱きしめた。エレナも俺の背中に手を伸ばした。
「大丈夫だ。もう、怒ってない。ごめんな、怖い思いさせちゃって」
騒ぎで目を覚ましたイリナが困惑しながら、俺達を落ち着かせるまで、俺とエレナは抱き締めながら泣いていた。
この一件でまだまだ、俺は経験値不足なんだと痛感させられた。
エレナに無用な心配を掛けさせてしまったのも、自分の事の様に辛い。
だから妻に諭され、子供と一緒に泣きながら、失敗を積み上げながら、三人で手を繋いで経験値を積み上げて行こう。
出勤する時、二人に見送られながら俺はそう思った。
人生とは戦いである。
昔、誰かがそんな事を言った。
俺もそう思う。
何故戦う? そう問われたら俺は。
「娘を幸せにする為」と答える。
俺のワガママを聞いてくれた妻や赤沼さんや、色んな人の為にも。
こんな男を父として受け入れてくれた、エレナの為にも俺は戦おう。
それが、俺の新たな戦闘理由だ。
アメリカ合衆国。ロサンゼルス。
学校帰りの少女達が、スクールバスから降りた。彼女達は停留所でしばらく話し込んでいたが、個々に別れの挨拶を言ってそれぞれの自宅方面へ歩き出した。
その様子を、少し離れた所である男女が見ていた。グアムで子供達を監視していた二人組だ。
「行くか?」
「ええ」
窓にスモークを貼った、真っ黒なバンに乗り込む。
男は後部座席へ、女は運転席だ。
後部座席は全て倒され、トランクと隔てる物も取り払われており、子供一人を余裕で寝かせられるスペースが確保されていた。
エンジンが掛けるとほぼ同時に、二人は
そしてあの集団にいた一人の少女を追い、車を走らせた。
数分の差は車と徒歩にはあって無いようなもので、すぐに追いついた。
男はスライドドアを開く。
それは、肉食動物が獲物に齧りつく様に似ていた。
男の鍛え上げられた腕が少女の細い身体を捕らえ、車内へ引きずり込む。
この間僅か三秒。
女が乱暴にギアを繋ぎ、その場から素早く離脱する。
だが、街を等間隔で区切る交差点に差し掛かった瞬間。目の前に飛び出してきたセダンによって、進路を断たれた。
女は慌ててブレーキを掛けたが、制動力は停止まで及ばずセダンの側面に突っ込んだ。
「何なの!?」
女が叫び、ギアをRへ入れるがエンジンが沈黙してしまう。
男は少女を放り出し、MP5Kを掴む。
「逃げるぞ!」
スライドドアを開けたが、男の顔面を彼の何倍も大きい拳がめり込んだ。
骨が砕ける嫌な音が車内に響く。
女がそんな光景に唖然としていると、ドアが開きUSP拳銃の銃口を突き付けられる。
「ISSロス支部だ。車から降りろ」
切れ目の鋭い男が、彼女を睨んでいる。
男の方はスキンヘッドのレスラー風の局員に、車から無理矢理降ろされていた。彼は鼻を中心にして、顔面が歪んでいる。
女は一瞬、ステアリングの下に隠してあるベレッタM84に思案を巡らせたが、切れ目の局員が引き金に掛けた指に力を込めたのを見て、動くのを諦めた。
「……なんへ、ほほに……ISSが?」
男がレスラー風の局員に問う。
「普通、一度攫われた子には一定期間護衛を付ける。誘拐グループの全容が掴めない時は、尚更な」
それに答えると、続きを切れ目の局員が引き継いだ。
「毎日護衛してて、お前等の存在に気付かない訳が無い。……タイミングを見計らってたんだろ?」
女は、彼等から目を逸らした。図星だったのだろう。
「一度逃した獲物をまた付け狙うとは、良いハンターとは言えないな」
局員は女を結束バンドで拘束すると、こう言い残した。
「話は、支部の方でたっぷり聞かせてもらうよ」
その言葉は、男と女にとって死刑判決に等しかった。
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