いざ磐海凪②

 それでその少女が言うには、である。


「その亀は若者を背に乗せて、海の中に潜ってしまうんだそうだ。それっきり、若者は戻って来ない」


 最初は、夢か幻かと思ったらしい。

 大きな海亀が現れるまでは良い、それを面白がっていじめるわっぱ達の存在も、まぁわかる。正義感のある若者がそれを止めるのも十分に理解出来る。


 けれど、その亀と若者が言葉を交わし、さらには海に引きずり込むなど。ましてや、若者は上がって来ないのである。決して、その亀にぎっちりと固定されているわけでもないのだから、息が続かなくなれば上がって来るはずだ。


「それは確かにそうなんだけどさ。もうそこまで来たら、その亀に跨った時点で妙な術にでもかかって動けなくなったとか、そういう感じなんじゃ――」


 とまで言って、飛助は慌てて己の口を塞いだ。だとしたら、やはり白狼丸は死んだことになってしまうではないか。


「まァわっちも最初はそう思ったさ。だけど、どうしても信じられなくてね、今度はその童共を取っ捕まえたってェわけよ」


 口角を目一杯上げて悪い笑みを浮かべる元忍びに、「姐御、まさかと思うけど、吐かせるために酷いこととかしてないよね? まだ童なんだろ?」と飛助が震える。


「滅多なこと言うもんじゃァないよ、この馬鹿猿が。それくらいのガキの口を割らせるなんて、この青衣姐さんにゃァ赤子の手を捻るより簡単なんだよゥ」


 ククク、と愉快そうに喉を鳴らし、濃紺の装束の襟をわずかに緩める。ははぁ成る程、色を使ったか、と飛助はすぐに理解したが、太郎はきょとんとした顔で首を傾げている。


 その少年達が言うには、彼らは亀に雇われているのだそうだ。

 棒切れで自分を打たせて、それを止めに来た若者を釣る、というわけである。報酬は、深い海にある珊瑚の欠片で、手練れの漁師でもそう簡単に採ることは出来ないものだ。それを売ればかなりの金になる。


 それに目がくらんだ少年達だったが、それでも気になることはある。


 若者の生死だ。

 海に引きずり込むとなれば、まず無事では済まない。人間は亀や魚とは違うのだから、海中では生きられないのだ。人殺しの手伝いなんて嫌だ、と言ったのだそうだ。


 けれど亀は言った。


「人殺しだなんて滅相もない。私の背にお乗りなさい。ほんの少しだけ潜って差し上げましょう」


 恐る恐る一人がその背に乗って、海に入った。

 どうやら彼らの中でも一番下っ端のやつだったらしいが、その彼は四半刻ほど潜った後、やはり亀の背に乗って戻ってきた。童が息を止めていられるのなんてせいぜい数十秒なのだから、四半刻も潜り続けるなど、まず不可能だ。


 彼は瞳を輝かせて言うのである。


「海の中、すっげぇきれいだったぜ! お前達も見てみろよ!」と。


 半信半疑ではあるものの、現に彼は無事に生還しているのである。亀の方でも、皆さんどうぞと勧めてくるものだから、狭い狭いと言いつつも、五人全員がその背に乗った。さすがに一度潜った少年は多少遠慮する気持ちがあったのか、首に跨るような姿勢になっていたが。だったら辞退すれば良いような気もするが、そこは譲れなかったらしい。


 そしてもちろん、彼らは全員無事に陸へと戻った。


 そういうことなら、と亀と少年達の契約は成立したのだという。


「成る程、その亀の背に乗っていれば大丈夫なわけだ」

「でもさ、降りたらどうなるんだよ? だってその亀は何度も陸に上がって来ているんだろ? 引きずり込んだ若者を海の中に置いてさ」

「まァまァ、話はまだ続きがあるんだ」


 一人目の若者を海の中に連れて行った後、亀は再び浜に現れた。次は何日後に、と予め打ち合わせをしていたので、約束通りに少年達も集まってくる。


 そこで一人が「そういえば」と言い出した。


「こないだのあんちゃんはどうしたんだ」と。


 その言葉で、棒を構えていた少年達は、ぴたりと動きを止めた。そういえばそうだ。こいつはたった一匹で上がって来た。あの若者はどうしたのか、と。


 すると亀はやはり温和な口調で言うのである。


「心配ありません。海の中にあるお城にご招待したのです。あそこは海の中ですけど、人間も生きられます」

「城? 招待?」

「実は、私の国のお姫様が、婿を探しておりまして。そのために心優しい若者をここで探しているというわけです」

「そうなのか。それじゃあその兄ちゃんだけで良いんじゃないのか? まだいるのか?」

「運命の相手でもあるまいし、たった一人だけを見て決めるなんて、出来ませんよ」

「そういうものなのか」

「俺の母ちゃんも父ちゃんの他にたくさん良い人がいるって言ってるもんなぁ」

「そうそう、そういうことです」


「……待って。その子の家がちょっと心配なんだけど。良い人がって話じゃなかったよね? 進行形だったよね?」


 ちょっとお母さぁん!? と興奮気味の飛助を無視して、「その亀の言葉を信じるなら、犬っころもそこにいるってわけさ」と青衣は締めた。


「とりあえず、生きてる可能性があって良かった」


 胸を撫で下ろし、太郎が深く息を吐く。けれど、そうだね、と返す青衣の声がどことなく暗い。そこに気付いたのは飛助である。


「姐御、まだ何かあるんだろ。時間がかかりすぎると、なんて話もあったし」


 そう促せば、何やら神妙な顔つきでこくりと頷く。


「これはわっちの推測なんだが――」


 そう前置きして、青衣は言った。


「恐らく、海の中はここと時の流れ方が違う」と。

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