五尺七寸の追手③

 茶屋の長椅子に腰かけて、茶を飲む。添えられた胡麻団子に手を伸ばして、青衣は首を傾げた。


 先ほどの女が、こちらを気にする様子もなく、そのまま行ってしまったのである。


 やはりあれはたまたま五尺七寸あるというというだけの無関係な娘だったのだろうか。しかし、太郎の懐の中の那彦はこそこそと首を出しては彼女が去るのをじっと見つめていたのである。その様子を見れば、間違いなくあれが追手だと思うのだが。


「お侍さん、そろそろ話しちゃァくれないかねェ」


 とんとん、と太郎の胸を優しく叩いてそう言うと、小さくちぎった団子の欠片にかぶりつき、顔中を練り胡麻まみれにしている小さな侍は、視線を左右にたっぷりと泳がせてから、「何の話でござる」と返した。


「さっきの女、なんだろう?」

「い、いや、それは、その」

「アンタ自分で『いる』って言ったじゃァないのさ」

「い、言ったが……」

「あの場にはあの女しかいなかったんだよ、五尺七寸に該当するやつは」


 そこまで言うと、さすがの太郎もわかったのだろう。ああ、と小さく呟いて「那彦殿、そうなのか?」と優しく問い掛ける。手巾でぐいぐいと顔の胡麻を拭ってやると、擦られ過ぎてか、それとも羞恥でか、真っ赤になった顔を、ぷい、と背けて「あいつは」と渋々語り出した。


「あいつは紗雨ささめといって、拙者の幼馴染みというか……。その、許嫁、というか……」

「ほう。何だい、決まったお相手がいるってェのに、わっちのこと口説いてたんかえ?」


 全く、どうしようもない浮気亭主じゃァないか、と青衣が呆れ声を出すと、「違う違う!」と那彦は必死に首を振った。


「許嫁など親同士が勝手に決めたことで――」

「それで家を出たってェわけかい。大の男がなっさけないったら」

「そ、そんな青衣殿ぉ~……」

「てことはアレだろ、武士になりたいってェのも嘘なんだろ?」

「それは真にござる!」

「どうだかね」


 はっ、と鼻で笑われたのが癪に触ったのだろう、那彦はするりと太郎の懐から飛び出すと、縫い針の刀を抜いて、「太郎殿、その懐紙を上から落として下され」と言った。「これか?」と盆の上に添えられていた懐紙を摘まみ上げると、「そうでござる!」と鼻息荒い。


「そこからはらりと落として下され!」

「良いのか? 本当に」

「かまわぬ! 早く!」

「わかった」


 太郎や青衣にしてみれば、懐紙などただの薄紙である。それが身体に触れたとて、何の重さもないし、皮膚を裂くこともない。けれど身の丈一寸の那彦にしてみれば、どうだろうか。そのことに躊躇いはあるものの、本人がやれと言っているのである。太郎は、それでも出来るだけゆっくりと指を離した。


 二つに折り畳まれていた懐紙は、空気を裂くようにして、すとん、と落下する。せめて屋根のように広げて落としてやれば良かったと太郎が後悔していると――、


「やあ!」


 そう叫んで、那彦が飛んだ。

 ぱん、という音がしたような気もするし、鳥の鳴き声か何かだったかもしれない。とにかく、そんなような鋭い音が聞こえたかと思うと、確かに一枚だったはずの懐紙は、二枚に分かれていた。かさりと音を立てて盆の外に落ちた懐紙を足で蹴り、「ふん」と那彦が鼻を鳴らす。


「いかがか」


 縫い針の刀を麦藁むぎわらの鞘に収め、腕を組む小さな侍に、太郎は思わず手を叩き、青衣もまた「おや、思ったよりやるじゃァないか」と笑った。


「ふはは。そうであろう、そうであろう。どうだ、青衣殿。拙者の妻になる気になったか?」


 ちゃっかり青衣の膝の上に移動し、着物にすりすりと頬をつける。が、あっという間に首根っこを掴まれ、「なるわけないだろゥ? 馬鹿なことをお言いでないよ」と冷めた目で告げられて、しゅんと肩を落とした。


 と、その時である。


 青衣が、茶碗の乗った盆を引っ掴んで、ぐい、と太郎を抱き寄せた。がちゃんと音を立てて茶碗が割れたのと同時に、盾のように翳した盆に、ごつ、と拳ほどの大きさの石がぶつかる。石を受け止めた木製の盆は、真ん中からぱきりと割れてしまった。


「びっくりした。まさかいきなり石が飛んで来るとは。すまない、青衣。助かった」


 いつもよりかなり近い距離でふわりと笑うその顔にときめいている場合ではないものの、これはこれで美味しいと思ってしまう青衣である。この程度の石ならば、投げたやつに感謝しても良いくらいではあった。


 のだが。


 そんなことも言ってられる状況ではないとわかったのは、顔を上げた先に、大岩を持ち上げてこちらを睨んでいる先程の娘――紗雨がいたからである。


「まさか――あれを投げて寄越す気じゃァないだろうねェ」


 頬を引き攣らせ、ぽつりとそう言うと、膝の上にいたはずの那彦はちゃっかりと太郎の懐に収まって「御名答でござる」と震えた。


 よく考えてみれば、だ。

 いくら上背はあるといっても女なのである。拳ほどもある石を、あれだけの勢いを持って投げるのは難しいはずだ。一体どれだけ肩が強いのだろうか。


「青衣殿、太郎殿、ここにいては危険でござる。逃げよう!」

「確かに。ここにいちゃァ、次にぶっ壊れるのは良くてこの長椅子、悪くて茶屋丸ごとだ。ここに恨みはない。逃げるよ、坊」

「わ、わかった」


 いまの音は何だ、と店の奥から出てきた店主に、詫び料だと言ってほんの少しばかり握らせてから、青衣と太郎は駆け出した。さすがにあの岩を持ったままでは走れないだろう。


 一応遣いも果たさねばならぬということで、回り道をしながら下葛しもかずら方面に向かう。背後を確認すれば、さすがにあの娘は追ってきていないようだった。気は抜けないが、と思いつつも、ここで体力を使い切ってしまうわけにもいかない。


「お侍さんや、あの娘は何だい」

「何だい、と言われても」

「ただの娘じゃァないね、あの馬鹿力」


 ふぅ、と呼吸を整え、手巾で汗を拭う。


「紗雨は、その……生まれつきあの通りの怪力娘でな。何でも、先祖を辿ればどこかに鬼がいるとか何だとか」

「鬼だと」


 反応したのは太郎である。


「まぁ、それも真実なのかは知れぬがな。ただ、それも頷けるほどの怪力ではあるから」

「確かにねェ」

「赤子の時分から、やれ米俵を担いだだの、牛と相撲を取って勝っただのと言われておってな。こんな怪力では嫁の貰い手もなかろうと」

「それで――お侍さんと、ってェわけか」

「拙者の祖父が、紗雨の曾祖父に何やら並々ならぬ恩があるとかで、二つ返事で決まってしまったらしい」


 確かに同情出来る部分はある。

 あの嫁では命がいくつあっても足りないだろう。ましてや那彦はこの身体なのだ。


「なぁ、那彦殿」


 ただ、極度の女好きは身を滅ぼすというから程々が一番、と青衣が呟いていると、太郎が懐の中の那彦に向かって言った。


「それならそれで、やはり紗雨殿と話し合うべきではないのか」

「え」

「逃げてばかりでは良くない」

「た、太郎殿」

「探そう、紗雨殿を」

「太郎殿、いや」

「坊?」

「話せばきっとわかってくれる」

「そ、そんな相手では」

「行こう」

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