五尺七寸の追手②

 下葛しもかずら上浅葱かみあさぎは、大人の足ならば二刻もかからぬ距離にあり、石蕗つわぶき屋のある地蔵大通りのちょうど真ん中を流れる日蛇川ひだかわをずっと上ったところにある。川を挟んで山側が上浅葱だ。


 日蛇川は、その名の通り、ぐねぐねと大きく蛇行する川で川幅は広く、深さも大人の膝ほど。水も澄み、流れの穏やかな川である。


 陽の光を受けて、きらきらと輝く水面に目を奪われながら川沿いを歩く。誰ともなしに「いい天気だ」と呟いた時、背後で、ぽちゃん、と音がした。川に小石が落ちた音である。意図的に投げたというよりは、たまたま蹴り飛ばした小石が転がって落ちたような、そんなささやかな音ではあったが――、


「ひい!」


 太郎の懐の中の那彦が、そんな声を上げて身を固くした。


「那彦殿、どうした」


 太郎が、自身の襟元をわずかに緩めてその顔を覗き込む。小さな那彦はふるふると震えながら太郎の着物をよじよじと上り、恐る恐る彼の肩越しに後ろを見た。


「誰かいるのか?」


 華やかな大通りを外れたとはいえ、人通りは多い。先程から、子どもを連れた母親だの、諸肌脱ぎで談笑する職人達だの、何人すれ違ったかわからない。それに、あんな細やかな音が何だというのか。もっとがやがやと騒々しい連中もいたではないか。


「いる」


 けれど那彦はそう言って、ぶるぶると震えながら、するすると着物を滑り、再び懐に潜り込むのである。


「誰が?」


 この状況で「誰が」というのもおかしな話である。何せ懐の中の小さな侍は『質の悪い輩』とやらから逃げているのだから。それをすっかり失念しているのか、それとも本人の口から聞かねばわからないのか、太郎はきょとんと首を傾げてそう尋ねた。那彦が蚊の囁きのような声で何かを答える前に、太郎の肩を青衣が軽く叩く。太郎が青衣の方に注目すると、くね、と身を捩らせて大きなため息をついてみせた。


「ねェ、坊? ちょいと休憩しないかえ? もう足がくたくただよゥ」


 しなり、と太郎の肩に凭れ、甘えた声を出す。やっぱりさっきの茶屋に行かないかい? と言いながら振り返って通り過ぎたばかりの甘味処を指さした。


 飛助とは違って、太郎に演技を求めるのは無理だ。こうでもしなければ追手の存在に気付いた太郎は堂々と後ろを振り返り、目についた者に突撃するに決まっている。出来れば恋人か夫の役をしてもらいたいところではあるが、余計に怪しすぎるだろう。ならば、いつもどおりでいた方が良い。遣いの途中だろうが何だろうが、仲間が疲れていると思えば、そちらを優先するのが太郎という男である。最も、この程度の距離を歩いたところで青衣が疲れるわけはないのだが。


「すまない、青衣。つい遣いの方にばかり気持ちが向いてしまっていて、配慮が足りなかったな。少し休んでいこうか」


 案の定、その提案をすんなりと受け入れ、行こうか、と向きを変える。後ろにいたのは、幼子の手を引く若い母親と、散歩を楽しんでいるらしい老夫婦。


 それから――、


 五尺七寸ほどの、である。


 この那彦の反応からして、この中にその追手がいることは間違いないのだ。この一瞬の隙に姿を消したのでなければ、この中のどれかであることは確実だし、元忍びである青衣に悟られずに身を隠すなど、同業者でもなければ無理である。


 ただ――、女なのだ。どう見ても。五尺七寸に該当するのは。

 着ている物を見ても、身体つきを見ても。ただただ上背があるというだけの女である。那彦の話を鵜呑みにしたわけではないが、質の悪い輩、というからには少なくとも男なのだろうと思っていたし、殺気らしいものも感じられなかったため、警戒の対象から外していたのである。正直なところ、こいつのはずがないだろう、と青衣は思っていた。五尺七寸なんて、そう珍しいものでもない。ただ、女にしては少々デカいとは思ったが。


 しかし、随分と芋臭い田舎娘である。

 着物こそ、それなりのものを着てはいるものの、はっきり言って『着せられている』状態だ。都会を歩くことにも慣れていないのか、肩を竦め、手入れもしていない太眉を不安気に寄せている。もしこの女が那彦の追手だとしたら、標的がこちらを向いたことに多少なりとも動揺するはずなのだが、それもない。


 けれど、を探しているように視線を這わせている。その様子を見れば、やはりこいつなのだろうとも思う。この芋臭さも、心許なそうにしている様も、すべてが演技だとしたら大した役者だが、が告げている。これは演技ではない。


 青衣は『まがい物の女』だけれども、そんじょそこらの女より女らしい自信がある。けれども、そこが逆に弱い部分であるとも言える。本物の女は、案外そこまで女らしくはない。わざわざ取り繕わなくとも、女であることは揺らがないからである。股を開いて座ろうが、大口を開けて笑おうが、彼女らは、存在そのものが女だ。何をしていても、何もしなくても。


 何をどうしたってたどり着けない境地に歯噛みすることはあれど、かといって、本物の女になりたいわけではない。青衣にとって女装はあくまでも手段だ。自分が生きやすいように生きるための。


 青衣の場合は、男のままでいる方が断然生きにくい。背も伸びず、筋肉もつかず、顔だって化粧を落としても女の顔だ。声に関しては元忍びとして高低様々出せるには出せるが、地声は男にしてはかなり高い。こんな男がどこにいる。性別を隠す鎧とも言うべき着物をひん剥かれてしまえば、そこにあるのは扁平な胸と、男を決定づけるモノがあるだけで、首から上は女なのにその下は偽りようもないくらいに男である。


 ただそれがちぐはぐで気持ち悪いだけだ。


 それだけに、多少腹が立つ。

 こいつは、顔も身体も女なのに、と。

 着物ガワだけそれなりにして、化粧もしねェってかい、と。


 だから、青衣は小さく舌打ちをして、太郎の腕を取った。

 

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