紗雨と那彦①
――太郎という男は。
ただただ真面目で、謙虚で、底抜けに優しい男である。
けれど、一度「こう」と決めたことに関しては、てこでも動かない頑固さがある。
だから――、
「たっ、太郎殿。殺されるぞ、紗雨に」
「俺は大丈夫だ」
「何を根拠に! なぁ、頼む。脅しなどではないのだ。あいつなら本当にやりかねないのだ」
先刻から、彼の着物の衿をぐいぐいと引っ張って懇願する那彦に対し、きちんと受け答えはしつつも歩みを止めずにいる。
とりあえず、拙者の話を聞いてくれぇ、止まれぇぇ、と小さな身体を振り絞ってあらん限りの声を出すと、太郎はようやく立ち止まった。
「どうしたんだ、那彦殿」
「ふへぇ、太郎殿、やっと話を聞いてくれる気になったか」
一歩も歩いてなどいないというのに、額からだらだらと汗を流している那彦が、安堵の息を吐きながらそれを拭う。そして、はあぁ、とことさら大きなため息と共に吐き出したのは、「
神妙な顔つきでそう言ったのを、青衣が「ああそうかい」の一言で流す。
「青衣殿、もう少し優しく」
「してるじゃァないか。この青衣姐さんが耳を傾けてやってるんだ。感謝おしよ」
「うう……。それが、その、少々異常というか、度を越えているというか、でな。さっきも見ただろう? あの岩、脅しでも何でもなく、本当に投げて寄越すつもりだったのでござる」
「まさか。だって万が一お侍さんにも当たれば大変じゃァないか」
「そうなんでござるが――、その、怒りで我を忘れるというかな。実は、家を出たあの晩、拙者は紗雨に殺されかけたのだ」
そう言って、ぶるり、と大きく身震いをする。寒いはずはない。何せ太郎の懐の中に収まっているのだ。それでも那彦はカタカタと震えている。
「殺されかけた、って、どういうことだ?」
それはとっぷりと夜も更けた頃だったという。
そろそろ寝るか、と特別に作らせた小さな布団に潜り込むと、音もなく襖が開いた。母か父だろうか、と那彦は思った。思ったけれども、その二人もこんな時間に彼の許可なく部屋に入るとは思えなかった。もしや、盗人でも入ったか、と思い、むくりと身体を起こす。自分がこの大きさであることは、この辺りではそこそこ知られた話ではあるが、それを知らぬ盗人が入ったとしたら、まずは何はなくとも踏みつぶされぬよう、部屋の隅に移動しなくてはならないのだ。
が、その予想に反して、そこにいたのは見慣れた幼馴染み――隣の染物屋の娘、紗雨である。
夜這いか? と那彦は思った。
確かにこいつは自分の許嫁であるわけだから、勝手に部屋に入ったとて何ら問題はない。ただ、体格差が凄まじいためにどう考えても色っぽい展開にはならないだけで。
いくら紗雨でもそれくらいのことはわかっているはずだろうに、と思いつつ、暗さに慣れた目で彼女を観察していると。彼女が小槌を持っていることに気が付いた。何だ、あんなもの、一体何に使うのだろう。
それからも壁の端で暗闇に紛れ、様子をうかがっていると、何やらぐすぐすと鼻を鳴らしており、どうやら泣いているのだとわかった。涙で視界が不明瞭なのだろう、畳みの上をざりざりと足を滑らせて移動している。恐らく、うっかり那彦を踏みつけてしまわぬようにしているのだ。やがて彼女の爪先がその小さな布団に触れると、「ここにいた」と嬉しそうに呟いてしゃがみ込み、そして――、
小槌をその布団に振り下ろしたのである。
とす、という音が畳に響き、離れた位置にいる那彦の足元にも到達する。
「那彦様、那彦様。ごめんなさい、ごめんなさい」
震える声で名を呼び、さらには詫びながら、とすとす、と何度も何度も小槌を振り下ろす様を見て、彼は思わず叫びそうになる口を押えた。見つかったら殺される。そう思い、そろりそろりと音を立てぬようにしてわずかに開いていた襖の隙間から部屋を出た。この時ほど自分の身体がこの大きさだったことに感謝したことはない。
それで、無我夢中で走って逃げて――、
「そうしてあの姫君の寝所に潜り込ませてもらったという次第で」
「成る程」
「殺したいほど好き、ってェことかい。確かに
「そんな!」
「だってそうじゃないのさ。いまの話だけなら、許嫁が単に寝込みを襲いに来たってェだけだろ? さっきのだって本当に殺すつもりだったとしたら、それは単にお侍さんのことが殺したいほど憎いってェだけなんじゃないのかえ?」
ふぅん、と鼻に抜けた声を出し、こてん、と首を傾げる。すぅ、と目を細めれば、那彦は、ふほ、と鼻息を吹いて真っ赤に茹で上がった。その真っ赤な顔で、「ち、違う!」と叫ぶ。
「拙者が他の女のところへ行くと、いつも悋気を起こすのでござる! これほどではないものの、何度殺されかけたかわからぬ!」
「だったら、他の女のところに行かなきゃ良いだけの話だろ」
「確かに。那彦殿、そこまで想ってくれている相手がいるというのに、なぜ他の女人のところへ行くのだ。紗雨殿のことが嫌いなのか?」
太郎が、きゅ、と眉を寄せるその表情に、青衣は弱い。せつなげに目を伏せれば、それを向けられているのは自分ではないというのに、胸が詰まる。
「嫌い……とまでは。ただ、その、拙者はか弱い
そう言って、しゅん、と背中を丸める。小さな身体が、より一層小さくなる。
「那彦殿は生まれた時からその大きさなのか?」
太郎が、その小さな背中を指の先でそぅっと撫でつつ、尋ねる。
「いいや、生まれた時はこうではござらん――といっても、もちろん拙者は覚えておらんがな。母上の話では、丸々とした大きな赤子だったそうだ」
「そんならなぜその大きさになったんだい?」
それは――、と那彦がその続きを口にしようとした時、
「見つけた! 那彦様!」
薮を掻き分けて、紗雨が現れた。
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