紗雨と那彦②

「げぇっ、紗雨ささめ……!」


 ひええ、お助けぇ、と太郎の懐に潜り込む。どうやら先ほどの大岩はどこかへ置いて来たらしく、彼女が手にしているのは、小槌のみである。この辺りには凶器になりそうな大岩もない。ただ、その辺の大木を根っこから引き抜くというのなら、話はまた違ってくるが。


 着物の中でもぞもぞと動いては「太郎殿、逃げよう!」とせっつく那彦をまぁまぁ、となだめ、太郎は一歩前へ出た。


「那彦殿の許嫁である紗雨殿とお見受けする。少々話をさせてもらえないだろうか」


 丁寧にそう言って深く頭を下げると、紗雨の方でも拍子抜けしたか、「えぇ?」と首を傾げている。


「俺の名は太郎という。大通りにある石蕗つわぶき屋という菓子屋で働かせてもらっている者だ。決して怪しい者ではない。隣にいるのは俺の友人の青衣という薬師だ」

「もう、坊ったら。そういう時は嘘でも良いから恋仲の、とでも言っておくれな」

「いや、俺と青衣は恋仲ではないだろう」

「そうだけどさ。そう言った方が、こちらのお嬢さんがわっちとお侍さんの関係を疑ったりしないだろう?」

「成る程、嘘も方便というわけか。よし。ああ、ええと、紗雨殿。先ほどのは訂正する。隣にいるのは俺の恋仲の青衣だ」

「は、はぁ……」


 訂正するも何も、そのやりとりをすべて聞いているのである。それでも隣に立つ美女は嬉しいのか、いやん、だの、照れるねェ、だのと言って身をくねらせているのだ。何とも不思議な人達だ、と紗雨は思った。ただ、不思議ではあるが、悪い人ではなさそう、とも判断したようで、「わかりました」と頷いた。


 

「こんな薮の中で申し訳ない」


 そう断って、持参していた風呂敷をふわりと広げ、「この上に座るといい」と勧める。


「そ、そんな。せっかくの風呂敷が汚れてしまいます! あたしは地べたに座りますから、その、青衣様を――」

「良いから良いから。遠慮しなさんな。だったら、そォら、二人で座ろうじゃァないか。それなら良いだろゥ?」


 と、紗雨の手を取って、無理やり座らせる。青衣の方は多少尻が出てしまったが、どうということはない。


「あの、それで、お話、というのは」


 隣に青衣がいるので緊張しているのだろう、もじもじと顔を赤らめつつそう尋ねる紗雨の前に太郎が腰を落とす。


「何ゆえ那彦殿を追う? 何ゆえ彼を襲う?」


 すると紗雨は、ぴく、と肩を震わせた。微かな動きではあったが、肩の触れ合う位置にいる青衣にはわかる。このために並んで座ったといっても過言ではない。どんなに口先で誤魔化そうが、身体はわずかにでも反応する。そら、嘘の一つでもついてみろ。そんな気持ちで彼女の返答を待つ。


「那彦様に、その、お詫びをしたくて」


 震えながら吐かれた言葉に、どうやら嘘はないらしかった。座らせる時に握った手首はちゃっかりそのままにしている。脈も乱れていない。


「お侍さんを詫びを入れたくて、追いかけて、それで、石を投げつけて――かい?」

「そ、それはその!」

「あんな石っころだってねェ、打ち所が悪けりゃお陀仏だよゥ? ま、あの大きさじゃァ、どう当たったってェお陀仏だろうけど」

「あれは、那彦様ではなく、あなた達を狙って――。あの、本当に申し訳ありませんでした」


 随分と正直な娘のようである。


「それに、聞けば、寝込みを襲ってその小槌を振るったってェ話じゃァないか」


 依然としてぎゅっと握り締めている小槌を顎でしゃくってみせると、紗雨は、「これは」と言って、口を固く結んだ。きれいな飾り紐のついた、古ぼけた小槌である。


「これこそが、重要なのです。これがないと、那彦様は」


 そう言うと、紗雨は、ぽろぽろと涙を零した。


「あら、あらあらあら。ちょいと意地悪しちゃったかねェ。泣くのはおよしよ。ほらほら、せっかくの別嬪さんが台無しだよゥ」


 多少の世辞を交えてそう言いながら、袖でちょんちょんとその涙を拭ってやる。そばかすまみれの肌ではあったが、顔の作りそのものは悪くない。白粉を叩いて、もう少し眉を整えるなり、紅を差すなりしてやれば――などと、余計なことをつい考えてしまう。


「紗雨殿、これが重要、というのは?」


 太郎がそう問うと、那彦もまたひょこりと着物から顔を出す。


「それで拙者を殺そうとしたではないか。騙されんぞ」

「那彦様! そんなところにおられたのですね! あたしまた見失ったかと!」

「先刻からずっとおったわ! ていうか、お前の目の前で潜ったろうに!」

「……何だい、この娘さん。ちょいとお馬鹿なのかえ?」

「こら青衣」

「いいや太郎殿、青衣殿が正しいのだ。紗雨はな、昔からこうなのだ。目は恐ろしく良いのだが、ただ、目の前にあるものしかわからぬというか、なんというか……」

「目の前にあるものしか?」

「でも、目自体は良いのかえ?」

「ものすごく良いのだ。どんな雑踏に紛れても、着物の裾でも視界に入ればたちまちのうちに見つかってしまうくらいにな。なのだが……まぁ、口で説明するよりも、実際に見てもらった方が早いか」


 そういうや否や、再び、すぽり、と懐の中に身を隠すと――、


「んなっ、那彦様?! 那彦様が消えた?! さ、さっきまでいたのに?!」

「……嘘だろ」

「紗雨殿、落ち着くんだ。那彦殿なら、ちゃんといる」


 ほら、と衿元を軽く緩めると、呆れた顔の那彦が、ぴょこ、と飛び出した。


「那彦様ぁ! いらっしゃったぁぁぁ! ぐすっ」

「ええい、お前はすぐに泣く。……太郎殿、青衣殿、わかっただろう? 紗雨はな、まぁ、純粋ではあるんだろうが、この通りの馬鹿なのだ。馬鹿ゆえに、あまり話も通じんというか。二言目には那彦様那彦様だし、ちょっとしたことですぐに泣くしで拙者はほとほと困っておってな……」

「だっ、だっでぇ、那彦様がいないと、あだ、あだじぃぃぃぃぃ」

「泣くなというに!」


 仕方ない、と口を尖らせて、太郎の懐から抜け出し、ぴょい、と紗雨の着物に飛び移ると、器用にそれをよじ登り、あっという間に彼女の頭の上に立った。そして、その場でぴょんぴょんと飛び跳ねる。


「ほら、泣くな泣くな。とんとん、とんとん」


 まるで赤子をあやすかの如く、とんとん、と言いながら、何度もその場で飛んでみせると。


「那彦様、お優しい。もう泣きません」

 

 ぐしぐしと涙を乱暴に拭って、えへへ、と紗雨が笑った。


「ふん、そんなこと言って、どうせまたすぐに泣くんだお前は。拙者はな、お前のことなんか全然好いてなぞおらんからな」

「そんな! 那彦様ぁ」

「そら見ろ! また泣く!」

「な、泣きませんんんんん」


 そんなやりとりを見て、青衣は――、


 いや、これはこれでお似合いなんじゃないのかねェ、


 そう思ったという。

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