玉手箱③
陸に上がった島太郎は、
「帰りたくなったら、この箱を開けてください。その煙を目印に、迎えに参ります。ちゃんと煙が見えるくらいの浅瀬に、私はいますから」
緑六は島太郎にそう言って海へ潜った。陸にいればまたいたずら好きの
――そして、あとは青衣が
だからもしかすれば島太郎は、迎えを呼ぶための箱と間違えて、玉手箱を開けてしまったのかもしれない。そう結んで、
「私はこの話を伯父から聞きました。こんなことになるのなら、人間の童を恐れて海に潜らず、ずっと待っていれば良かった。狼煙箱など渡さねば良かった、と長い間、ずっと悔いておられました」
「まァでも、起こっちまったもんはねェ」
「そうだよ。仕方ないよ」
少なくともアンタが気を落とすこたァないんだよ、と青衣が言うと、巌はそれでも甥として、身内の失態にどこか責任を感じているのか「痛み入ります」と再び頭を下げた。
「もうじき伯父が戻って来るはずです。そしたら、私と伯父とで皆様を陸へとお運びいたしますから」
そう言って、巌はちょっと様子を見て来ると退室した。
彼が部屋を出ると、それを待ち構えていたかのように白狼丸と飛助が青衣に詰め寄る。茜もまた、二人につられてその後に続いた。
「何だい、三人共」
「何だじゃねぇよ。聞きてぇことが山ほどあんだ、こっちにゃあ」
「そうそう、そうだよぅ」
「いや、ちょっと待て馬鹿猿。その聞きてぇことのうち一つはお前にも関わるやつだからな」
「えー、なんだよぅ」
「ほっほ。わっちに答えられることならねェ」
懐から扇子を取り出してはたはたと扇ぎ、きれいな糸切り歯をちらりと見せた。ただし、高くつくよゥ? と目を眇めれば、その言葉に怖気づいたか、白狼丸は肩をわずかに引いた。
「青衣は――」
けれど、それで引かなかったのは茜である。きっちりと正座をし、きりりと真剣な表情で問い掛ける様は、ただ性別が異なるだけで、太郎そのものだ。
「いつから飛助と恋仲同士だったんだ?」
その言葉を吐くと同時に、気持ち身を乗り出し、膝の上の拳をきゅっと握る。やはり太郎のようで太郎ではない。それが証拠に、ぱちりとした大きな目が、何やらきらきらと輝いて見える。青衣と飛助を交互に見て、にこりと笑った。
「あぁ――……えっと、それはね、うん、あの……」
視線が合った飛助が、さっと顔を背ける。
「飛助、どうしてこっちを見ないんだ?」
「えっ、いや、あの、えーっと」
「確かにさっき、俺のことをあまり見ないって約束したけど、それは白狼丸がいない時は、って話だっただろう? もう大丈夫だ。白狼丸だってまさか飛助に悋気を起こしたり――」
しないよな? と幸せそうな笑みを向けられれば、口をぎゅっと一文字に結んで強く頷くしかない白狼丸である。ちなみに、口を固く結んだのは、うっかり気を抜くと可愛いだの何だのと絶叫してしまいそうだったからだ。
「ほら、大丈夫だって。そんなあからさまに避けられれば、寂しいじゃないか」
そう言って、しゅんと背中を丸められれば、「避けてなんかないよぅ! ごめんねぇ、茜ちゃん!」と慌てて飛助が彼女の顔を覗き込んで手を伸ばす。その手をぱちんと払ったのは白狼丸だ。
「顔くらい見ても良いが、触るのは許さん」
「ちぇー、すっかり亭主気取りなんだもんなぁ」
「おれは茜の亭主だ」
「それはそうかもだけどさぁ。あぁ、おいらはタロちゃんが恋しいよ。タロちゃんだったらぎゅってしても怒られないもんなぁ」
そう言いながら自分自身をぎゅうと抱き締め、目を細める。すると、やはりしょんぼりと肩を落とす茜の姿が見えて、飛助は己の失言に気付いた。
「ごっ、ごめん! そういうんじゃなくて! 別に茜ちゃんが駄目とかそういうんじゃないんだけど!」
「良いんだ、飛助。陸に戻ればまた太郎に会えるから、だから、もう少し辛抱してくれ。だけど、飛助。お前には青衣というれっきとした恋人がいるんだろう? いつまでも太郎太郎では駄目なんじゃないのか?」
良いんだと言いつつも、やはり寂しそうな顔でそう言う茜に、飛助はぎくりと肩を震わせ、視線を泳がせた。彼の向かいに座る白狼丸は、「てめぇおれの女を悲しませてんじゃねえぞ」と睨みつけていたが、その明らかに不審な態度に「馬鹿猿、もしかしてよぉ」となお一層眉間のしわを深くした。
「ちっ、違っ! いや、違わないけどっ! いや、その、二人を騙すとか、特に茜ちゃんを騙すつもりはなかったっていうか! だってあの場ではそうするしかなかったっていうか!」
とにかく、ごめんなさぁいっ! と叫んで、ずささ、と二人から距離を取り、がばりと頭を下げる。その隣で静観していた青衣もまた、すまなそうに頭を垂れた。
「……つまり、ただの芝居だった、と」
「……ハイ」
「言っとくけど、わっちは乗っただけだからねェ? だろ、お猿」
「……ソウデス」
「待て待て待て待て。姐御、脅してねぇか、それ」
「人聞きの悪いことをお言いでないよゥ。わっちがいつお猿を脅したってェ」
心外だねェ、と頬を膨らませて顔を背ける青衣の袖に、「青衣、そんな怒らないでくれ」と茜が取り縋る。
「何で姐御は良いのにおいらは駄目なんだよ!」
不公平だ、という飛助の言い分も最もではあるのだが、何となくやはり青衣は『男』のようで『男』ではないのだった。
「いやでも、姐御の言う通りなんだ。あれは咄嗟に姐御が合わせてくれたんだよ」
「そうさ。あんな指までさされて『恋人』なんて叫ばれたら、合わせるしかないだろ? 犬っころには坊――いや、この場合は『嬢』とでも呼んだ方が良いのかねぇ。とにかく、相手がいるし、そうなりゃ相手のいないお猿がここに取られちまうかと思ってさ」
「てことはマジで打ち合わせなしだったのかよ!」
目を剥いて驚く白狼丸に「当ッたり前だろ、青衣姐さんを舐めんじゃないよゥ」とぴしゃりと返す。
「おいらだってその辺は場数が違うからね。あれくらいの芝居、朝飯前さ。だけど――」
今度は飛助がきゅぅと背中を丸める。
「ごめんね、茜ちゃん。嘘ついちゃって」
いや、おれに謝罪はないのかよ、と白狼丸も騒いだが、そこは無視である。どうせ彼もそこは本心ではない。
「謝らないでくれ、飛助。二人が恋仲じゃないのは残念だったけど、飛助がここに残るなんてことになったら、俺だけじゃなく太郎もきっと、寂しくて居ても立ってもいられなかっただろうから」
きっと茜の方では飛助に気を遣って『太郎も』と言ったのだろうが、彼にとっては、彼女もまた寂しく思ってくれるということが嬉しかった。あの太郎のことだから、飛助が幸せなら、と送り出してくれつつも、内心では寂しく思ってくれるだろうと容易に想像出来た。けれども茜の方はほぼほぼ初対面のようなものなのである。なのに、そこまで惜しく思ってくれているのが嬉しい。
「茜ちゃんもそう思ってくれるんだね。あぁん、どうしてこんな良い子が、こんっな粗野な駄犬に惚れちゃったんだろう。茜ちゃん、白ちゃんに泣かされたらおいらにすぐ言うんだよ? おいらは夫にはなってあげられないけど、愚痴を聞くくらいは出来るからね」
すさささ、と茜の前ににじり寄ってさっとその手を取る。さすがに茜の方でも一瞬驚いたような顔をしたものの、それが単なる友情から来るものだとわかって、にこりと笑う。この心優しい友人は、もうわかっているのだ。この先、どんなことがあろうとも、自分と白狼丸の関係が破綻することはないのだと。
「だあぁっ! お前は油断も隙もあったもんじゃねぇな!」
それでもやはり面白くない白狼丸は、ただ一人声を張り上げるのであった。
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