玉手箱②

「そのための、玉手箱?」


 茜と向かい合って座し、「めごいねぇ、愛いねぇ」と手持ちの櫛でその髪を梳いていた青衣が、『玉手箱』の単語に反応する。形の良い眉をキッと吊り上げ、横目で視線をやれば、せっかく買った貝の髪飾りをいつ贈ろうかとそわそわしていた白狼丸も、何だ何だとそちらに注視した。


「あの箱は、開けてはならぬものなのです」

「どういうことだい?」

「へぇ、あの箱はですね、ここにいる間に陸で流れた時間が入ったものなのです。ですから、それを開けない限り、老いることはございません」

「そうなの?」

「そうです。ですから、乙姫様は、必ず念を押すのです。『決して開けてはなりませぬよ』と」


 けれど、若者――浜ノ浦に住む島太郎という名のその若者は開けてしまったのだ。そして、急激に老い、死んだ。ちなみに浜ノ浦という地名は既にない。浜ノ浦を含むいくつかの小さな集落をまとめて『磐海凪ばんかいなぎ』と呼ぶようになったのである。もう何十年も前のことだ。


 青衣が櫛を置いて巌に向き直り、その若者の話をすると、あぁ、と当時を思い出すように彼は目を細めて語り出した。


「島太郎様は、一年ほど、ここで暮らしておられました」


 彼が来た経緯としては、ここに集められた婿候補達と同じである。つまりは、浜で童共にいじめられていた緑六を助け、その礼に――という。ただ、その時は演技などではもちろんなかった。何せこれが『始まり』なのだから。


 乙姫と島太郎は、互いに一目で恋に落ちた。

 海の姫と陸の男。住む世界も身分も異なる二人であったが、そんなものは問題ではなかった。島太郎はここで永遠に暮らすと誓い、その一年の間、一言も陸のことを話さなかったという。


 彼は寂れた漁村の四男坊であり、本当の名は『太郎たろう』という。父が漁で不在の間に、母が浮気をし、堕胎する金がなかったために渋々生んだ子であった。名付けたのはその時存命だった彼の曾祖母だった。


 何日も帰れぬ日があれば、確かに寂しかったろう。間男は地元の人間ではなく、たまたまそこを通りがかった旅の者であったし、たった一回の過ちなのであれば、と妻を愛していた夫は、それを許した。生まれて来た子にこそ罪はないと言って、兄達と分け隔てなく彼を育てた。そんな父の姿を見ていたからだろう、兄達もまた、島太郎を『不貞の子』などと差別することもなかったという。


 けれど、母だけは違った。

 何せ自分の犯した罪が、そこにあるのだ。自分に似ているならまだ良かった。けれど島太郎は間男によく似ていたのだ。つまり、この家の誰とも似ていないのである。


 お前さえ出来なければバレなかったのに。

 あの男に似ているお前の面を見る度に吐き気がする。

  

 母は島太郎にそう言った。

 甘えたい盛りの島太郎にそう言い続け、抱っこをせがむ手を払った。


 朗らかだった母の顔はやつれて険しくなり、顔に刻まれるシワは年齢にそぐわないほど深く多くなった。みるみるうちに醜い老婆のようになり、四十の春、胸を掻きむしって死んだ。そのあまりの変貌に、葬儀に来た彼女の友人は口を揃えて、「亡くなったのはお姑様ではなかろうか」と言ったという。


 そのような出自の島太郎ではあったけれど、それでも道を踏み外すこともなく、真面目で優しい青年に育った。でなければ、いじめられている海亀を助けになど入るわけがない。


 陸に未練がないのも、そこに起因する。

 自分は、あの家にいてはならない。

 父も兄も、自分に良くしてはくれるが、母が亡くなったのは自分のせいなのだ。もちろん、自業自得ではあるのだが、それでも島太郎は自分を責めた。


 確かに乙姫のことは愛している。だけど、彼女への愛以上に『竜宮城海の中で暮らす』という部分に強く惹かれていることも否めない。何せ、ここにいれば、陸のことも、家族のことも、すべて忘れられるのだ。


 そう思っていたのだが。


「夢を見たのだそうです」


 巌は、悲痛な面持ちで言った。


「夢、ねェ。どんな?」

「ご家族の夢だったそうです。お父上と兄上が、必死に島太郎様を探しておられる夢だったと」


 島太郎、どこにいるんだ。

 島太郎、帰って来てくれ。


 夢から覚め、思い返してみれば、確かに自分は家族に何も言わずに来てしまった。たった一言、嘘でも良いから、町で仕事を見つけたとでも言えば良かったのだ。そうすれば音沙汰がなくとも、便りがないのはむしろ元気な証拠だと思ってくれただろう。


「それで、乙姫様に言って、一度陸に戻ることになったのです」


 渡された玉手箱を持ち、緑六の背中に乗って、島太郎は陸を目指した。

 乙姫は箱は決して開けぬようにと再三忠告した。ならば置いていくと島太郎は言ったが、一度でもこの城に足を踏み入れたなら、箱も陸に持って行かなくてはならないのだと言い、彼に持たせたのである。


「陸にいる間はずっと持っていないといけないのか? 肌身離さず?」


 緑六の背に乗った島太郎は、そう尋ねたという。


「いいえ、そんなことはありません。ただ、陸にありさえすれば良いのです。けれど、目の届かないところに置いて、誰かに開けられてしまったら大変ですから。なので、再び城に戻るまでは持っておられた方がよろしいかと」

「成る程」

「ちゃんと戻ってきてくださいますよね?」

「もちろんだとも。俺はもうあの城で姫と暮らすと決めている。ただ一言、父さんと兄さん達に別れを告げたいだけだから」


 晴れやかな顔をしてそう告げられ、緑六は安堵して彼を送り出した。



「いやいや、別れを告げるも何も――」


 思わず青衣が話に割って入る。


「もうその時点でご家族は皆……」


 そう続いたのは飛助だ。

 巌はこくりと頷いた。


「ここまで長く滞在された方は島太郎様が始めてだったものですから、その時は実際のところ、何年経っているのか誰もわからなかったそうです。百年もの月日が流れているとわかったのは、その後のことだった、と」

「ひゃ、百年?!」

「海の一年が陸の百年とすると……。ああこりゃあ偉いことだァねェ」


 てことは、いまごろ……? と飛助が青い顔で指を折っていると、巌は「いえいえ」と首を振った。


「時の流れはその時の潮の流れによりますので、一定ではないのです。その時はそうでしたが、いまは波も穏やかですし、そこまでではないかと」


 その言葉に、飛助と青衣は、揃って大きく息を吐いた。

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