箱は、一つ①
聞きたいことは山ほどある――と言ったものの、冷静によくよく考えてみれば、そういくつもあるわけではない。海の中と陸とでは時間の流れが違うのだということは既にわかったし、どうやら海の中は――その時の潮の流れにもよるが――陸よりもゆっくりと進むらしいということもとりあえずは納得出来た。
その『島太郎』なる人物の話については全くの初耳であったが、どうやらこいつこそが元凶――という言い方が好ましくないのは百も承知だが――ということも青衣と
こうなると謎なのは、青衣が持ってきた文である。
それを問い質そうと思ったところで、緑六を連れた巌が戻って来た。
「それでは二手に分かれましょう。私の方が巌よりも幾分か速く泳げますから、先に来た白狼丸殿と、その奥方様は私の背に」
「それでは、飛助様と青衣様は私がお運びいたします」
そして、乙姫からやはりきれいな細工の施された箱をそれぞれ受け取ると、四人は緑六と巌の背に乗って城を出た。やはり彼女は、「決して開けてはなりませぬよ」と念こそ押したものの、中に何が入っているのか、そして、開けるとどうなるかなどについては触れなかった。ただ何度も開けてはならぬ、と繰り返した。
「……なぁ、緑六よ」
「何でございましょう」
「どうして乙姫さんは『開けるな』としか言わねぇんだ」
茜を自分の前に座らせ、それをしっかりと包むような体勢で跨っている白狼丸が、緑六の頭に向かってそう尋ねる。
「その島太郎さんもよ? 開けたらどうなるかっつーのがわかってたら開けなかったんじゃねぇのかな」
「……島太郎殿のお話を聞かれましたか」
ぽつ、と緑六が言う。ふるふる、と長い首を振り、少しの間黙っていたが、しばらくして、「乙姫様は、ご存知ないのですよ」と観念したような声を出した。
「ご存知ない? それはどういう――」
そう尋ねたのは、白狼丸ではなかった。けれど、しっかりとした、低い男の声である。
「うお、太郎。いつの間に……」
「あぁ、もう太陽の光が届くところまで来ましたからね。それででしょう」
「すまない、白狼丸。お前は茜とずっといたかっただろうに」
華奢は華奢だが、茜と比べればさすがに男の身体である。しゅんと丸めた、その、彼女のものより広い背中にごつんと拳を打ちつけて、「そんなこと、言うもんじゃねぇよ」と悪い顔をすれば、眉を切なそうに寄せた美男が「痛いじゃないか」と振り向く。
「茜は茜でおれの可愛い妻だけど、お前だっておれの大事な友達だろうが」
「そうだけど。でも、ちょっと考えたんだ。あそこで暮らせば、白狼丸は茜とずっといられるんだろうな、って」
「まーたお前はそんなろくでもねぇこと考えやがって」
「ろくでもなくなんか」
「あるだろ。そんなことになったらおれはいつお前と飯食ったり、ふざけたりすりゃ良いんだ」
「そんなの……別になくたって。お前には茜がいれば」
「茜だけじゃ駄目なんだ。おれは、おれにはお前がいないと」
つまんねぇんだよ、毎日がさ、と言うと、眉を下げたままの太郎が、ぐ、と下唇を噛む。
「お前はどうなんだ。ずっと茜の中にいて、おれと一言もしゃべれなくなっちまったら、肩を組んで飯に行けなくなったら、どう思うんだよ」
「それは――……つまらない、な」
「どうせお前のことだから、おれの幸せがどうだとか、そんなことイチイチ気にしてんだろうがよ。おれはいまの生活にだって十分満足してるんだ。それに、何度も言ったよな、我が儘くらい言えよって」
「そうだったな。うん、そうだった。俺が悪かった。俺も白狼丸と一緒にいたい」
そう言って、すん、と鼻を鳴らす。慌てて前を向いて、ごしごしと目の辺りを袖で拭う様から察するに、涙が出て来たのだろう。
「ああ、ええと、すまない、緑六殿。話の途中だった」
視線を前に戻したことで緑六の存在を思い出したらしく、ぺこりと頭を下げて詫びると、いえいえ、とその大きな海亀は笑った。
「乙姫様のお話でしたね。ええ、その、乙姫様は――というか、私達海亀のように陸に上がれる者以外は、知らないのです。
「そうなのか?」
「はい。特に乙姫様は、あの城から外へ出られないものですから」
「出られない? お前みたいに、城から出たら亀に戻ったりとかしねぇのか?」
「しません。だって彼女は――」
もともと陸の者ですから。
そう緑六が言った瞬間に、二人の頭が水面から出る。顔が空気に触れた瞬間、肺が酸素を欲し、すぅ、と大きく息を吸った。
陸に辿り着くや否や、ではこれにて、と去ろうとする大きな海亀を「ちょちょちょ、ちょい待ち」と引き止める。どうしました? と振り返る緑六の動きは、海の中とは打って変わって緩慢だ。
「乙姫さんって、陸の人間なのか?」
「そうです」
「それがどうして海にいるんだ」
「捨てられたのですよ、恋人に」
「恋人に?」
遠い遠い昔のこと。
ここが『浜ノ浦』という名前すらなかった時のこと。
その娘は、十三の時、恋人と共に心中を図ったらしい。互いを紐で繋いで海に落ちたのだという。娘の名は『乙女』。好きでもない男の元へ嫁がされそうになった、その晩のことだった。
けれど、恋人の方は端からそのつもりはなく、わざと自分の方だけ簡単に解けるように細工をしていたらしく、するりと抜けて、乙女を見殺しにした。
そこへ。
たまたまだったのだ。
たまたま、沈んだ彼女の身体が、泳いでいた緑六の背に乗った。それで、彼女は生きながらえた。
竜宮城というのは、緑六がその海に生を受けるずっと前からそこにあった。誰が作ったのか、何のために作られたのかはわからない。不思議な気泡に包まれていて、その城の門をくぐると、緑六だけではなく、魚達もなぜか人の姿になった。乙女は喜んだ。自分と同じ姿形になったから。そしてどうやら、その中に入れば、緑六から降りても死なないということがわかった。
竜宮城に辿り着き、夢か幻かと惚ける乙女に、緑六は尋ねた。
「陸に戻りたいですか? それとも、ここで、陸を忘れて暮らしますか?」
乙女は言った。もう陸には戻らない。あそこには悲しい思い出しかない、と。
ならば、と緑六は、彼女の思い出を箱に入れた。陸で生を受けたこと、愛する男に捨てられたこと、何もかも、全て。『思い出』というのはつまり、陸で過ごした時間だ。玉手箱とは、時間を封じる箱なのだ。その箱は、気付いたらそこにあった。緑六自身、なぜそんなことが出来るのかはわからなかった。箱がそうするように語りかけてきたように思えたという。
そうして乙女の思い出をすっかり閉じ込めると、緑六は彼女にこう言った。
「この箱は決して開けてはなりません。決して。箱には災いが詰まっています。決して開けぬよう、開けられぬよう、あなた自身でしっかり守るのです」
そうして彼女――乙姫は、まるで初めからそこで生を受けたかのように、海の姫として、もう長いことそこにいる。
玉手箱は開けてはならぬ災いの箱。
箱は恐ろしいもの。誰にも開けられぬよう、近くに置いて、目を光らせておかねばならぬもの。彼女はそう思っている。
玉手箱と呼ばれるその不思議な箱は、陸の者がこの竜宮城に足を踏み入れると、城の奥の蔵にぽつんと現れる。それらを管理するのは緑六の仕事と決まっていて、陸から来たものが帰りたいと申し出る度に姫へと渡すことになっている。
そして、何も知らぬ姫は、自分がかつて言われたように、「決して開けてはなりませんよ」とそれを渡すのである。海の中で暮らす分には問題ない。ここでは、蔵の中で厳重に管理されているのだし、そもそも、その恐ろしい箱を開けようとする者などいない。けれど、陸は違う。陸での思い出は封じたはずなのに、なぜかうすぼんやりと、陸の人間は裏切る、信用ならない、という気持ちがある。だから、再三念を押すのだ。肌身離さず持つように、目を光らせ、誰かに蓋を取られてしまわぬように、と。
「それなのに、島太郎様は開けてしまった」
と、緑六は残念そうにそう言った。
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