箱は、一つ②

「……そんな話を聞いちまうと、なんかおっかねぇなぁ」


 手にした箱をまじまじと見つめ、白狼丸が、参った、と頭をかく。


緑六りょくろく殿、確認したいんだが」


 いつもと変わらぬ調子で、太郎が尋ねた。その声には、白狼丸のような箱に対する畏怖のようなものはない。


「この中には、陸での時間が入っている、ということで間違いないのだろうか」

「はい」

「ならば、俺は開けようと思う」

「――うぇっ!? 何言ってんだ、太郎!」

「そうですよ。海の中での滞在時間は、ほんの数刻でしたけれど、こちらではもう二月ふたつきは経っているはずですよ?」


 そう慌てる緑六だったが、白狼丸は内心「何だたったの二月かよ」と思った。そしてそれは太郎の方でも同様だったらしい。


「何だ、たったの二月なのか。だったらなおさらだ。俺は、陸で生まれた陸の者だ。この陸の時間で生きてる。俺が海の中にいる間に二月経っているのなら、その時間を取り戻したい」


 だけど、とそこで言葉を区切り、軽く俯く。


「乙姫様との約束を守れないと思うと胸が痛む」


 自身の胸に手を当てて、ぐぅ、と声を詰まらせると、緑六はのそりのそりと太郎に近付いて、その脛の辺りに首を伸ばした。


「……ならば、私は、何も聞いておりません。私が海に帰った後で、お二人がその箱をどうしようと、私の知ったことではありません。私が知らないのですから、乙姫様にだって知りようがありません」


 それで良いですね、と太郎の返事も聞かずにそう言って、これ以上は、と向きを変え、やはりのそのそと海へと入っていく。


 その頭が、とぷりと沈んだと同時に、今度は、飛助と青衣がひょこりと顔を出した。


「ぷはぁ、もう着いてたんだ、二人共」

「やっぱり伯父殿の方が速いってェのは本当だったんだねェ」

「それはもちろん。伯父は、我々海亀の中でも最も優秀なのです」


 誇らしげにそう言ういわおに礼を言うと、こちらはそれ以上の会話もなく、「では」と再び潜ってしまった。


 一体いまは何刻なのか、太陽の位置から考えるに、正午を少し過ぎたあたりではなかろうか。それに酷く暑い。磐海凪ばんかいなぎのこの浜に来たのは、確か卯月の半ばだったはずだが、この暑さと来たら、まるで水無月の終わりか文月半ばか――。


 そんなことを考えつつ、飛助が、海水か、あるいは汗なのか、とにかく頬を伝う塩辛い水を拭っていると、白狼丸が「二月だとよ」と同じ仕草で眉を顰める。


「はぁ、何?」

「二月、経ってんだとよ」

「二月か。なぁんだ、それくらい……って、やっば! おいら達、二月も仕事してないってこと!? うへぇ、旦那様にどやされるぅ!」

「その辺はまぁ、先に帰った葉蔵さんがうまいこと言ってくれんだろ」

「んもう、元はと言えば白ちゃんのせいなんだからな! おいら達、この先二月は無休だぞ、絶対」


 どうしてくれんだよぉ、と口を尖らせつつも、その目は笑っている。たかだか二月で済んだこと、四人揃って陸に戻って来れたことが嬉しいのだろう。


「なぁに。あの旦那のことだ。そうは言っても、休みくれぇくれるって。太郎が頼みゃいちころよ」

「俺が? 俺が何をすれば良いんだ?」

「まァまァ、落ち着きな三人共。休みをもぎ取るなんざァ、簡単よ。わっちを誰だと思ってんだい」


 その言葉で、白狼丸と飛助が同時に目を合わせ、「敵に回すと一番厄介な元忍びでー、女装が趣味でー」「それと、あの狸親父の弱味を握ってる腹黒薬師、か。それからえーっと」と視線を宙に浮かべたところで、ぱこりぱこり、と扇子で叩かれる。


ってぇ!」

「あたぁ!」

「全くどいつもこいつも! 優秀な元忍び兼、石蕗つわぶき屋の専属薬師様だ! わっちがちゃちゃっと診て、療養が必要とでも一筆書きゃあ、それで終いなんだよ」

「そうか、その手があったな!」

「姐御、頼りになるぅ!」

「だけど、サボりなんざ坊が許さないだろうからね、本当に疲れた時だけにおしよ」


 砂浜に座り込んでそんなことを話しているうちに、濡れた着物はすっかりと乾いた。さてそろそろ東地蔵へ戻ろうか、と立ち上がり、歩き始めたところで――、


「なぁ、姐御が持ってきた文なんだけどよぉ」


 白狼丸がそれをぽつりと口にした。


「あれは、本当にその島太郎さんが書いたものなのか」


 ずんずんと先頭を歩く青衣が、肩越しに振り向き、流し目を寄越す。


「いいや」


 そう言って、にやりと笑った。


「てことは、あれは姐御が書いたのか」

「まァ、書いたのはわっちだけどね」

「書いたのは、ってどういうことなんだ」

「誰が書かせたんだよぅ!」


 わらわらと集まって来る仲間達のうち、太郎の腕だけを取って、にこりと笑う。ちなみに、ちゃっかりと砂浜に化粧道具を埋めておいたらしく、崩れた――どころかほとんど落ちていたが――化粧はいつの間にやらきちんと直されている。


「書かせた、ってェのは語弊があるかもねェ。何せ、唆したのはわっちの方なんだから」

「姐御が?」

「そうとも。わっちがあの亀を唆して文面を考えさせたんだよゥ。だから、書いたのはわっちだけど、中身を考えたのはあの亀だ」

「でも何でそんなことを?」


 太郎のその問いに対し、青衣は、「神隠しを止めるためと、後は――あの亀のため、かねェ」とぽつりと言ってから、一つ大きく息を吐いた。


「あのいわおとかいう亀の話はね、真実じゃァないんだ。

「はぁ?」

「あの島太郎とかいう男が持ってた箱は一つだけだったんだよ」

「いや、二つだろ? 乙姫さんからもらったやつと、それと――」

「迎えを呼ぶための狼煙の箱と」

「いや、一つなんだ。その狼煙の箱なんてェのはあいつ――緑六の嘘だ」




 陸に戻った島太郎は、気付いた。

 どうやら自分が海の中にいた間に、父も兄も皆死んだらしい。

 父と兄だけならば、不幸な事故か病か、という話になるわけだが、そういうことでもないらしい。知っている顔が一人もいないのである。着ている服も違う。話す言葉もどことなく違う。百年、なんて途方もない年月が経っているとまではわからなかったが、とにかく、誰も島太郎のことを知らないし、島太郎の方でも知らない者ばかりだ。


 それがわかった途端、急に世界が開けた気がした。


 いまなら、何もかもやり直せる。

 海の世界も魅力的だが、やはり自分は陸の者だ。

 海は漁をするところだ。魚を捕り、それを売って生計を立てる。可愛い嫁を貰って、子を持って――。


 だから、緑六に言った。


「もう海には帰らない。やはりここで生きたい」と。


 そこで口論になった。それが、例の崖の上だった。亀がしゃべるところなど、人に見られたらまずい。そう思って選んだ場所だった。

 といっても、大声で喚き散らすなんてことはなく、島太郎も緑六も、それぞれ口調は穏やかなものだった。けれども。


「乙姫様が悲しみます。どうか、考え直していただけませんか。陸へは、またこうしてお連れ致しますから」

「姫には申し訳ないことをしたと思っている。だけれども、やはり俺は陸の人間なんだ。ここで生き、ここで死にたい」

「そんな……」


 その後も緑六は必死に島太郎を説得した。

 海の中でたった一人生きる、陸から来た人間の姫を悲しませたくなかったからだ。彼女をいまさら陸へは帰せないし、彼女にしても帰る気などないだろう。だからせめて、生涯添い遂げる相手を、と。


 けれど島太郎は首を縦に振ろうとはしなかった。


 ならば、と緑六は言った。


 その箱の蓋を開けていただかなくてはなりません、と。


「蓋を? しかし、姫は決して開けるな、と」

「そうです。その中には、あなたが海で暮らしていた間に流れていた『陸の時間』が入っております」

「『陸の時間』? 何だそれは」

「そのままの意味です。海には海の時間、陸には陸の時間があります。いままで海の中にいた島太郎様は、その分、陸の時間が欠けているのです。それが、その中に入っています。陸で生きるというならば、海での時間を捨て、陸での時間を取り戻してください」


 思い詰めたような表情の緑六に向かって、島太郎は「何だそれくらい」と軽い調子で返した。そして、なんてこともないように、玉手箱の紐にてをかける。お待ちください、とそれを止め、緑六は言った。


「開けてしまったら、海での思い出も消えてしまいます。本当に良いのですか。乙姫様のことも、忘れてしまうのですよ」


 本当は、無理に開けさせる必要などなかった。別に時間など、多少欠けていたとて、生きる上では何の支障もない。思い出が消えるなんていうのも嘘だ。だけど、こう言えば、もしかしたら思いとどまってくれるのではないかという淡い期待があったのである。


 けれど島太郎は「仕方がないな」と言って、緑六の制止も振り切り、あっさりとその蓋を開けた。

  

 箱から飛び出た百年分の時間が煙となって島太郎を包んだ。

 肌は乾き、ひび割れ、筋肉が衰え、骨がもろくなる。髪から色が抜け、何もせずとも歯が落ちた。やがて、内臓が正常に機能しなくなり――、


 ぱたりと、島太郎はその場に崩れた。


 その島太郎を海へ落としたのは緑六だった。

 予想以上の急激な老いに彼自身も驚き、いまならまだ間に合うのではと思ったのだ。まだ息があるなら、このまま海に引きずり込めば、まだ間に合うかもしれないと。若返ることはないが、陸での時間は止まるはずだ。


 けれど、亀の身体では遅すぎた。

 えっちらおっちらと引きずっているうちに島太郎は絶命した。それに気付かない緑六がどうにか海に落としたものの、死んでしまってはもうどうにもならない。


 島太郎の骸を砂浜に運んだ緑六は、乙姫様に何と報告したものか、と頭を抱えた。

 まさか姫を裏切って陸を選んだなどとは言えなかった。

 それに、自分が悪いのだ。箱を開けろなどと言ったから。


 だから、箱をもう一つ渡したことにした。

 

 島太郎様は決して乙姫様を裏切ったりなんてしておりません。

 約束を破ろうとしたわけでもございません。

 ただ、私があのような紛らわしい箱を持たせてしまったばっかりに。

 あの方は箱を間違えて開けてしまったのです。

 全部全部私のせいでございます、と。

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