蓋取れば――

安堵の帰宅①

「タロちゃん、元気出しなよ? ね?」


 磐海凪ばんかいなぎのそこそこ良い宿に泊まり、東地蔵あずまじぞうに向けて出発したのは、早朝のことである。


 気持ちの良い朝だというのにしょんぼりと肩を落とす太郎の周りをうろちょろしながら、飛助は殊更明るい声を出した。


「いや、もう、全然、俺は――」


 大丈夫、とそう強がるものの、どこからどう見ても大丈夫ではない。


 なぜこんなにも太郎が気を落としているのかというと――、



「やっぱいまじゃなくてさ、朝起きたら、皆でいっせーの、で蓋を取らない?」


 宿につき、そう提案したのは飛助であった。何の蓋かといえば、無論、玉手箱である。二月ふたつき分の時間が閉じ込められている箱である。それを朝、一斉に開けよう、というわけだった。たかだか二月程度、まだまだ十代の――青衣は二十歳だが――若者にしてみれば、痛くも痒くもない時間である。髪に白いものが混じることも、顔にシワが増えることもない。

 

 たださすがに髭は伸びるだろうから、それを皆で見て笑ってやろうじゃないか、とそういうわけだった。野郎の髭面など、大して見たいものでもないが、二月も伸ばすことなどまずない。だからそれはそれで貴重な姿ではある。伸びた髭は洗顔の際に一気に剃ってしまえば良い。


 翌朝に蓋を取ることこそ了承したものの、見せ合いに乗らなかったのはもちろん青衣だ。


「坊だけならまだしも、野郎の小汚ねェ髭面なんざ見たかねェんだよ」


 そう言って、さっさと厠へ行ってしまったのである。太郎を除く二人にはわかる。見たくないというよりは、自分の顔を見せたくないのだと。


 何せ人一倍見てくれに気を遣っている青衣である。伸びるなら伸びるでそんな姿を見せたくはないだろうし、伸びなかったとしても、恐らくはにだって男としての矜持はあるだろう。常に女として振舞っている青衣にしてみれば、髭なんてものは伸びない方が好都合ではある。けれど、さすがに二月も放置すればそれなりに伸びるのではないかと思うのだが、もしそれでも何も生えて来なかったら、さすがに二十歳も過ぎた男としてどうなのか、と。


 さすが元忍びは鍛え方が違うよね、と飛助辺りは笑ってくれるだろう。純粋な太郎は、さすが青衣だ、と何の疑問も抱かずに関心するだろう。案外優しいところのある白狼丸だって、まぁそういうやつもいるだろうな、と言うだろう。


 それでも、ほんの一瞬でも、そこに同情のようなものが見えてしまったら、自分はきっと、いま思っている以上に傷つくのだろうな、と、青衣はそれが怖かった。そして、飛助と白狼丸の方でも大方そういうことだろうな、と思ったから、特に引き止めもしなかった。おうおうさすが姐御だな、なんて軽口を叩いて、「おれ達もさっさとやっちまおうぜ」と太郎の肩を抱いた。



 で、青衣があれやこれやを済ませて戻ってみれば、土下座のような姿勢で突っ伏して項垂れている太郎がいたと、そういうわけである。


 あはは何だよ白ちゃんのその面、うるせぇお前こそ何だそれ、という犬猿のじゃれ合いは厠にまで届いていたというのに、そこに太郎の声がなかったのも妙といえば妙だったのである。二人の髭面に言葉を失っていたとばかり思っていたが、どうやらそうではなかったらしい。


「青衣、俺は男ではないのかもしれない」


 どうしたんだい、と背中を擦ってやれば、弱弱しい声でそう返って来る。その言葉でもう何があったのかは想像がついた。


 つまり、まったく生えなかったのだろう。


 そのまま飛助と白狼丸に視線をやれば、気まずそうな顔で顎の辺りを指で示し、ふるふる、と首を振る。やはりそうだ。


「坊、気にするんじゃァないよ。髭くらいどうってこたァないさ。そんなものはね、個人差ってェもんがあんだよゥ。ほゥら、わっちの顔をご覧な。わっちだって生えてないだろう?」

「だけど、青衣は、剃って来たんだろう?」


 顔を上げた太郎は、真っ赤な目を潤ませて、ぐす、と鼻を鳴らしている。泣くほど悔しかったのかと思うと、それはそれで可愛いと思ってしまうのだが、いまの彼にそれを告げるのはさすがに酷だ。鼻の下も顎も、相変わらずつるりとしていて、まるでわっぱのようだと青衣は思った。


 最も、『太郎』は生まれてまだ八年ほどしか経っていないので、まだ髭が生えるような年でもない。けれど太郎の本当の年齢を知っているのは、いまのところ白狼丸だけだ。


「わっちだって剃っちゃァいないよ。もともと全く生えない質なんだ」

「そうなのか?」

「そうさ。言ったろ、個人差だって。男だって生えないやつもいる。まさか坊はわっちが男だってことも忘れちまったってェのかい?」

「忘れてないよ、大丈夫」


 励ますつもりでつい口を滑らせてしまったが、後悔はない。厠で蓋を取ってみたものの、結局、青衣にも髭は生えなかったのであった。生えにくい方だろうとは思っていたが、まさか『生えない』とは思わず、そこには些かがっかりもしたけれども。


「それなら良かった。さ、いつまでもしょげてんじゃァないよ。身仕度して、東地蔵に戻らなくっちゃァねェ」

「そうだな」


 と、元気を取り戻して立ち上がり、厠へ行こうと戸を開けたところで、朝餉の膳を運ぶ女中と出くわした。軽く会釈をして歩き出すと、後ろから「お客様」と呼び止められる。何だ、と振り返ると、彼女はにっこりと笑ってこう言うのだ。


「お客様、いまのお時間でしたら、浴場がですので、もしよろしければ、どうぞ」

「えっ」

「最近、御婦人の間で朝風呂が流行っているんですよ。殿方がいたらゆっくり入れませんものね」

「いや、その」


 では、と言って女中は膳を部屋の中に運び、廊下には、自分は男であると伝えそびれた太郎が残された。そういえばまだ髪を結い上げておらず、下ろしたままだったのである。恐らくは、それで勘違いされたのだろう。そう頭では理解出来るものの――。


 二月放置しても髭は生えず、髪を下ろせば女人と間違われ。


 犬猿雉が寄ってたかって彼を励ましたが、どうやらかなり深く傷ついたらしく、しょぼしょぼと肩を落として歩く太郎なのだった。


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