消えた白狼丸④

「俺は白狼丸が戻って来るまで毎夜桃を食べることにする」


 太郎がそう宣言した時、当然飛助は反対した。


「タロちゃん、何言ってんの!? 願掛け!? そんなことしたって――」

「違うよ飛助。願掛けとかじゃなくて」


 まだ初日の夜だったから、多少食欲がない程度で、太郎の顔色は良かった。けれど皿の上にぽつんと置かれた桃に視線を落とせば、凛々しい眉も、きゅ、と下がる。


「あともう数刻もすれば、俺は茜になってしまうから」

「いやいや、ならないでしょ! ここに桃があるんだから! ここに! 目の前に!」

「そうなんだけど、もしかしたらってことがあるかもしれないし」

「ないよ! ないない! いままでそんなことなかったじゃん! 心配ならおいらが食べるから! それで良いでしょ!?」


 そう言って、さっと手を伸ばすが、それよりも先に太郎の方が桃を捕らえた。そして、皮も剥かずにがぶりと噛む。ああぁ、せめて皮は剥きなよぉ、と飛助は言ったが、太郎にしてみれば皮があろうがなかろうが桃は桃だ。


 当然のように、強烈な吐き気と、目眩やら酷い倦怠感やらに襲われてぐたりと壁に凭れる太郎の汗を拭ってやる。固く絞った手拭いを目の上に乗せてやると、少し落ち着いたようだった。


「なんとしても、白狼丸がいない時に、茜になるわけにはいかないんだ」

「タロちゃん、その心がけは立派だと思うけどね、でも、おいらのこと見くびらないでよ。おいらが、白ちゃんがいないからってこの隙に――だなんて卑怯なやつだと思うのかい?」


 だとしたら悲しい。確かに普段はちゃらけているし、そういうことを口に出したりはする。けれどもそれはあくまでも白狼丸がそこにいて、それを絶対に許さないと、そして太郎の方でも応じることはないとわかっていての言動だ。


「そんなことはない。俺は飛助がそんなことをするやつだとは微塵も思ってないよ。ただ」


 目の上の手拭いを少しずらして飛助を見る。ただ、となおも繰り返して太郎は目を閉じた。


「自分でもよくわからないんだけど、そうしないといけない気がするんだ。茜が強く望んでいるんだと思う。飛助のことは信用してるし、俺はそばにいてくれると安心する。だけど、茜の姿の時は駄目なんだ。絶対に」


 いままでなら桃が近くにあるだけで、近くにいる者が口にするだけで十分だった。けれども安心出来ない。それは白狼丸がいる時の話だ。彼の不在というこの非常時において、万が一のことがあったら。どうしてもその考えが拭いきれない。


 苦しそうにそう告げられれば、無下に反対も出来ない。かくして、それから毎夜のように、仕事を終えて風呂を済ませると、長屋の門の前で桃を食わせるようになったのである。もちろん最初のうちは自分で口に運んでいたものの、日に日に太郎はやつれていき、とうとうそれすらも難しくなったのだった。


「だけどタロちゃん。こんなんで明日大丈夫? 行ける?」


 明日はいよいよ平八と約束した休日、今日で白狼丸が消えて七日だ。朝一でここを発ち、磐海凪へ向かうことになっている。


「結構歩くよ? それともおいら一人で行こうか?」

「いいや、大丈夫。這ってでも行くさ」

「這ってでも、って……。もしもの時はおいらが背負うよ。いまのタロちゃんなら軽そうだ」


 元々細身ではあったが、いまの太郎は風が吹けば飛ばされてしまいそうである。姉さん連中から手首を掴まれては「やだ! あたしより細いんじゃないかしら!?」と何度悲鳴を上げられたか。


「冗談だよ。大丈夫、ちゃんと歩ける」

「ほんとかなぁ。明日はさ、どんなに嫌がっても飯は食ってもらうよ。お峰母さんにでっかい握り飯たくさんこさえてもらうから!」


 絶対食べるんだよ。食べないと柱に縛りつけででも置いてくからね、と強く念を押す。


「ははは、わかったよ」


 ほんの少しだが、目に力が戻ったように見える。探しに行けるのが嬉しいのだろう。もちろん飛助とて心配していないわけではない。何せ神隠しなど、与太話程度に聞いたことがあるだけである。大抵の場合、本人の意思による家出やら失踪、あるいは事件や事故に巻き込まれたか――、というやつで、生きているか死んでいるかの違いこそあれども、多くの場合は発見されるのだ。


 それでもやはり、こうした未解決の消失事件の類は稀に発生する。それこそ、神隠しとしか言いようがないほどに、しっかりとした質量のある『人間』が煙のようにその場から消えてしまうのだ。


 白狼丸という男は、相手が人ならば、そう簡単にやられるタマじゃない。捕まったとしても、何が何でも抜け出して戻ってくるだろう。


 なのに。

 帰って来ない。


 青衣もまた、あれからずっと磐海凪に張り込んで、情報収集をしている。見た目や年齢を鑑みれば、まずその『対象』にはならないだろうけれども、念には念を入れ、可憐な町娘の姿で潜入中だ。いつも思うが、よくもまぁたった一人でたくさんの情報を得られるものだと感心する。実は手下が何人かいるのではないかと飛助あたりは密かに勘ぐっているところだ。


 そんなこと考えて、むぅ、と眉を寄せていると。


 ――すと、という音が頭上から聞こえてきた。


 何だ、と見上げると、門の上に黒い影がある。月を背にしており、逆光で顔はよく見えないが、それが青衣だとわかるのは、背恰好云々だけではない。そこに着地するまで、何の気配も感じられなかったからだ。


 やはり音もなく二人の目の前に降り立つと、口布を少しずらして、妖艶に笑って見せる。


「待たせたね。やっと色々わかったよゥ」


 この青衣姐さんを手こずらせるたァ、奴さんもなかなかよ、と嘲るように笑い、太郎の頬をするりと撫でる。


「可哀想に、こんなんになっちまって。だけどそれも今日で終いだ。明日必ずあの馬鹿を連れて帰るよ」


 

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