夜が明けて③

「……くそっ」


 仕事は案外真面目にこなす白狼丸はくろうまるが、今日はやけにつまらぬ失敗をする。


 倉庫勤務の男衆が、彼の耳に入らぬよう、ひそひそとそんな話をしている。耳の良い飛助ならばすべて聞こえてしまうだろうが、白狼丸が鋭いのは嗅覚のみであって、聴覚の方は人並みである。


 入荷した小豆袋の数を書き間違え、分ける数を間違え、帳簿をどこに置いたか忘れ、それを探すのに時間を取られ。今日は万事この調子であった。


「くそっ」


 尚もそう呟いて、白狼丸は気合を入れるべく自身の両頬を叩いた。その音に驚いた葉蔵が、「どうしたんだ、白狼丸」と声をかける。


「昨日の酒が残ってるのか?」

「いんや」

「まぁお前強いもんなぁ。にしても今日は何だからしくないじゃないか」

「別に」

「別にってことはないだろうよ。俺だってな? まぁお前とはまだ短い付き合いだけどさ。それでも一緒に仕事してるんだから、それくらいわかるって」


 へっ、おれの何がわかるってんだ、と鼻で笑ってやろうとしたところで、にや、と笑った葉蔵が「太郎だろ?」と顔を覗き込んでくる。


「――んなっ!」

「ほうら、な?」


 お前、わかりやすいんだよ、と年の近い先輩にけらけらと笑い飛ばされれば白狼丸とて面白くはない。けれども、違うと否定するには遅すぎた。


「今朝の飯、お前一人だったもんな。珍しいなぁって思ってたら、太郎が飛助と仲良く部屋から出て来たところ見たからさ。こりゃあ今日は荒れるなって思ってたんだ」


 葉蔵兄さんを舐めるなよ、と勝ち誇ったような顔を向けられる。それに関しても「くそ」とだけ呟いて、ぷい、とそっぽを向いた。


「まぁ、そんな焼きもち焼くなって。太郎だってそういう日もあるだろうさ。何もお前だけが友達ってわけでもないんだろう?」

「そうだけど」

「だいたいな、あの太郎が一番心を預けてるのがお前だってのは、この石蕗つわぶき屋のやつらは全員知ってるんだ。もちろん飛助だってそこはわかってるはずだ。どうせ最後はお前のところに戻ってくるんだから、たまには譲ってやれよ。案外狭量だよな、お前」


 いや、この場合は独占欲が強いと言った方が正しいのか? と自分の言葉に首を傾げる葉蔵に「知らねぇよ」と返しつつ。


 白狼丸だってわかってはいるのだ。

 太郎はどうせ最終的には自分のところに戻って来る、と。何せ、彼とは幼い頃からの付き合いである。


 幼い頃は、人見知りの激しい彼をどうにか輪の中に入れてやろうと気を揉んだこともあったし、年の近い子ども達に囲まれている姿を見て、安堵したことだってあった。けれど、太郎は一瞬の隙をついて白狼丸の元へ戻って来てしまう。彼の着物にしがみつき、「なぜ白狼丸殿は一緒に来てくれないのです」と涙声で問われれば、「おれも行きゃあ良いんだろ」と返すほかない。結局、太郎を貼り付けたままわっぱ共の中に入っていかざるを得ない白狼丸であった。


 そんな太郎が、今朝は飛助と一緒にいた。飯まで部屋に運ばせて、だ。しかも太郎は寝間着姿だった。昨夜は倉庫係の飲みがあったから、太郎の部屋には行けなかった。茜が浮気をするわけがないから、飛助あの阿呆が部屋を訪れたのは、少なくとも明け方であるとは思う。のだが。


「寝間着姿だぞ」

「……はぁ?」

「太郎は寝間着姿だったんだぞ」

「うお、マジか。俺も見たかったなぁ。ははは」

「……んだとォ?」

「う、嘘だよ。いや、嘘ではないけど」

「その上、飯まで部屋に運ばせてたんだぞ」

「何だ。部屋で食ってたのか。道理で食堂で見かけなかったわけだ」

「あいつら、部屋で何してたんだ」

「何、って俺に聞かれてもなぁ……。太郎が寝間着姿だったってことは、食堂に行くのも億劫なくらい眠かったとかじゃないのか?」


 たまにあるじゃん、そういう日もさ、と葉蔵は笑った。


 確かに太郎は朝に弱い。朝日と共に目覚める白狼丸は、なかなか起きてこない太郎に対し「寝姿はきれいなくせに寝汚いやつだ」と常々思っていたが、いま思えば、真夜中は茜の活動時間なのである。茜が出て来る夜半までの時間と、明け方になって彼女が引っ込んでから起床時間までの数刻が彼の睡眠時間なのだ。よほど疲れている時は茜に代わっても眠り続けることもあるが、白狼丸と夫婦になってからはそうもいかなくなったのである。


 そりゃあ起きられねぇわな。


 そう考えれば少し通う頻度を抑えようかとも思うのだが、茜の方では白狼丸に会いたいのだし、彼の方にしても同様である。太郎の方でも「俺のことは気にするな」と快く承諾してくれている。ただし、俺に抱き着いたまま寝るなよ、とは何度も念を押されたが。まぁ、どうしたってそうなる日もある。


「それかもしくは、体調が悪かったとか」


 その言葉に、白狼丸の眉がぴくりと動く。


「家にいた頃はさ、風邪なんか引くと母ちゃんが寝床にまで飯を運んでくれたもんだ。お前も経験あるだろ?」

「ガキの頃はな」

「太郎のことだから、自分から甘えたっつぅよりかは、飛助の方が察して運んでやったんじゃないのか? うん、あいつは気が利くからな」


 あいつは気が利く、というのがまた癪に障る。悔しいけれども、確かにそういう点では飛助の方が上手だ。


「わぁわぁタロちゃんどうしたんだよぅ。何だか顔色悪いんじゃない? 良いよ良いよおいらが何か食うもの持ってくるからさ、ギリギリまで横になってなよ」


 そんなこと言いそうだもんな、あいつは。

 そういや今朝の太郎は何か様子がおかしかったのだ。

 一寸ほどの侍がどうとかと言っていたし、もしかしたら熱に浮かされて妙な幻覚でも見ているのかもしれない。こないだまで海の中で色々あったしな、いくら丈夫な太郎でも参ってしまったのかも。


 などと。


 そう思い至ってしまったら、もうそれが真実であるような気がして、白狼丸は「こうしちゃいられねぇ!」と膝を打った。


「うお、どうした白狼丸」

「ちょっと太郎の様子を見てくる!」

「はぁ? まだ仕事中だぞ?」

「あぁ、くそっ、そうか。えーとあれだ。うっ、急に腹がてぇ。糞してくるからしばらく戻んねぇって伊助さんに言っといてくれ」

「え、ちょ、お前。さすがに苦しくないか、それ!?」


 そんじゃ頼む、と葉蔵の背中を叩き、それのどこが腹の痛い人間の身のこなしだと、いまのやりとりを棚の陰ですべて聞いていた伊助が苦笑する中、白狼丸は倉庫を飛び出していった。

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