二人の夜①

「今日は随分と熱心なんだな」


 灯火器の淡い灯りの中、すいすいと休みなく手を動かす白狼丸に、茜が言った。向かい合っているのではなく、茜は彼に背を向けて座っている。それ自体は決して珍しいことではない。茜を後ろから包み込むようにしてぴたりとくっついているのが、彼らの常である。茜がその背を白狼丸に預け、白狼丸の方は彼女の重みと温みを受け止めながら酒を飲む。薄い寝間着越しに白狼丸の体温と鼓動とを感じるのが、茜は好きだ。


 けれどもその夜は、白狼丸の身体は茜から少し離れた位置にあった。理由は一つ、彼が彼女の長い髪を櫛で梳いているからである。


「いつも熱心だろ、おれは」


 不服そうに口を尖らせると、


「髪にはそこまで執着していなかったじゃないか」


 そんな声が返って来る。そんなことは、と反論したくとも、


「確かに指くらいは通すけど、それよりもそのまま頭を鷲掴んで口を吸うことの方が多い」


 嫌味などではなく、くすくすと愉快そうに言われれば、返す言葉もない。確かに髪を愛でるよりも、その持ち主の方に触れる時間の方が圧倒的に長い。その自覚はある。けれども、執着していないわけではない。それに、喉笛を食い破る獣でもあるまいし、「頭を鷲掴んで」はないだろう、と相変わらず色気のある言葉を知らんやつだ、と苦笑する。


 しっかりと張りのある豊かな黒髪を一房掬い上げ、気付かれぬようにそっと口づけを落とす。本当はこれに香油でも塗ってやりたいと思っている。だけれども、茜は朝になれば太郎になってしまうのだ。いくら太郎の髪がきれいでも、野郎の髪から花の香りがするのはいかがなものか。


 いや、あいつの場合はアリかもしれん。


 そんなことを考えたが、周りは良くとも本人太郎が嫌がるだろう。ただでさえ女人と間違われやすいのだ。いたずらに彼の『男』を傷つけてはならない。一時でもそう考えてしまったことを悔いていると――、

 

「どうした?」


 手からその髪がするりと滑る感触に、我に返る。

 白狼丸からの返答がなかったことに不安を覚えたのか、茜が彼の方を向いて眉を寄せていた。

 自分の発言で彼を不快にさせたとでも思ったのだろう、「からかってすまない」と、唇を震わせている。たかだか数秒応えがなかったくらいで何を気にすることがあろうか、とも思ったが、恐らく今夜の彼女は、いつにも増して不安なのだろう。


 白狼丸が七日もの間何の音沙汰もなく帰って来なかったことも。

 他の女に心を奪われそうになっていたのを目の当たりにしたことも。


 もちろん、実際は陸と海とで流れる時間の速さが異なっていたせいであったり、妙な術によって乙姫のことを茜と勘違いしたためであったりするのだが。だから、それについては、一応、納得はしているつもりである。


 けれども。


 彼のいなかった七日間が。

 一時でも、他の女の肌に触れたことが。


 その寂しさや悲しさが、茜はどうにも忘れられない。


 いよいよ飽きられたのではないか。

 捨てられるのではないか。

 体内に冷たい水が流れるような、ぞわりとした感覚が消えない。

 

 白狼丸のことは信じている。

 海の中でも、陸に上がり、夜になってこうして二人でいる時も、白狼丸は何度も何度も彼なりの言葉で愛を伝えてくれた。髪を熱心に梳いてくれるのもきっと、何かしら思うところがあるのだろう。それもわかる。


 けれども。

 

 たった一尺にも満たないこの隙間に、そこに入り込む夜の空気に、わずかばかりの不安を覚えてしまうのだ。


「白狼丸」

「どうした」

「髪はもう良いから、その」


 もじもじとそう言って、胸に飛び込む。とくとくという鼓動の心地よさに目を細めていると、頭上から「参ったな」という呟きが聞こえて、茜は彼に凭れたまま顔を上げた。


「嫌だったか? 俺よりも髪に触れたかった?」


 しゅん、と悲しそうな声に勢いよくかぶりを振る。


「っち、違っ! そうじゃなくて!」

「髪を梳いてくれるのも嬉しいけど、そっちばかりじゃなくて、俺のことも構ってくれ」

「うぐぅ……。茜、お前そういうの言えるようになったんだなぁ」

「白狼丸が言ったんだぞ、我が儘を言っても良いって」

「言った、な。そうだ、おれが言ったんだ」


 ここ数日間で華奢さに拍車がかかってしまったその身をぎゅうと抱き締める。折れてしまいそうなほどに細いものの、そんなことで壊れるほど彼女の身体はヤワではない。


「今日の白狼丸は何か変だ」

「そんなこたぁねぇよ」


 そう返しつつも、気になるのは懐に忍ばせてある懐紙に包んだ髪飾りだ。念入りに髪を梳いたのは、それを差してやりたかったからである。抱き締めた茜が、腕の中で、もぞ、と動く。背中に当たるに気付いたのだろう。


「白狼丸、何か――」


 そう言って彼女が身体を起こすと、白狼丸は、観念したようにそこから小さな包みを取り出してみせた。


「これを。お前に贈りたくて」

「何だ?」


 かさり、と開くと、そこにあったのは、小さな貝の細工が施された髪飾りである。


海の中あっちでこれよりもっとすげぇやつ見ちまったから、渡そうかどうしようか悩んだんだけど」


 それを受け取って、じっと見つめたまま動かない茜の姿に、何かまずいことをしたのでは、と冷や汗が伝う。


「いや、まさかこれを買った時はあんなことになるなんて思わなかったというかな? その時はもうこれしかねぇって思ったというかな? お前の黒髪に映えると思ったというか。その」


 焦って言葉を並べていると。


「差してくれないのか?」


 おずおずと顔を上げた茜の瞳が潤んでいる。


「お前が、差してくれるんじゃないのか?」

 

 そう言って、髪飾りを差し出す手に触れると、すっかり冷えていることに気付く。夜半とはいえ、夏だ。窓から吹き込む風は湿度もはらんで生温い。

 

 冷えた手を柔らかく包んでそっと口をつけてから、その中の髪飾りを取る。左の耳に髪をかけ、その上に、さく、と櫛状のそれを差した。


「これ、ここで合ってんのか……? 買ったは良いけど、正直よくわからん。すまん」


 そんなことを言いながら、照れくさそうに頭を掻く。

 

「わからないのに買ったのか」

「男がわかるかよ」

「男でも飛助辺りは知ってそうだけど。それに青衣も」

「あいつらと一緒にすんじゃねぇよ。おれの周りには着飾った旅芸人の姉さんなんていなかったし、女装する趣味もねぇ」

「じゃあ、いままで女に髪飾りを贈ったこともないのか?」

「あるわけねぇだろ。お前が初めてだっつぅの。信じらんねぇなら太郎の方に聞いてみろ」


 だんだん恥ずかしくなってきて、ぷい、とそっぽを向く。と、その肩に、こつ、と茜の額が当たる。そして俯いたままの彼女の口から、うんとささやかな声で、


「そうか、俺が初めてかぁ」


 と、何とも幸せそうな呟きが聞こえた。




 そしてその翌朝、目を覚ました太郎がこめかみの辺りに違和感を覚えて鏡を見、見慣れぬ髪飾りが差されていることに「俺は男だぞ」と大層憤慨して白狼丸に詰め寄ったのは言うまでもない。

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