竜宮城③
「茜!」
そう叫ぶや、白狼丸が数尺の距離をあっという間に詰めて茜の元に飛んだ。それはまさに『飛んだ』としか形容出来ぬほどの速さで、さながら放たれた矢である。さっきまで肩を抱いていたはずの飛助が腰を落とすよりも速く、彼女の細い身体を労わるように抱き締めると、茜は「すまん、すまん」と震える声で繰り返した。
「お前が何を謝る必要がある。おれがこうしたいからしているだけだ。気にするな。それに謝るならおれの方だろう」
骨の浮いた背中を優しく擦りながらそう言うと、彼女はふるふると首を振って「違うんだ」と弱弱しく言う。
「お前の話をちゃんと聞かないで、酷いことを言ってしまった。夫を疑うなんて、俺は駄目な妻だ。すまなかった、白狼丸」
「そんなこと気にするな。言葉が足りなかったおれが悪いんだ」
白狼丸に身を預け、ぐすぐすと鼻を鳴らす茜の斜め後ろにすとんとしゃがみ込んだ飛助は、ばつが悪いのか、一度白狼丸と視線を合わせてから、ふん、と鼻を鳴らしてそっぽを向いた。
「おいらは謝ったりしないからな。タロちゃんと茜ちゃんを心配させたのは事実なんだから」
「お前が謝るとか、ケツがかゆくなって仕方ねぇからいらねぇっつぅの」
はっ、と鼻で笑えば、苦々しい表情をしていた飛助の口元も自然と緩んでしまう。にぃ、と悪い笑みを浮かべ、横目で白狼丸を見た。
「やーっぱり気が変わった。白ちゃん、おいらが悪かった。ごめんなさぁい」
「うわぁ、何だいきなり。気持ち悪ぃなぁ」
「ほらほら。かゆくなんだろ? おいらがバリバリ掻いてやるからケツ出しな。いっひっひ」
「馬鹿野郎、それが狙いかよ」
二人の関係が普段のじゃれ合いに戻り、腕の中の茜が、ほう、と安堵の息をつく。ピリピリと張り詰めた空気が緩んだところで、先ほどから存在を無視されていた乙姫を始めとする竜宮城の者達が動いた。さすがにあの空気の中を割って入る勇気はなかったらしい。
「お、お前達、乙姫様の御前なるぞ」
「無礼者め、ええい、手をついて頭を垂れんか!」
尊大な態度ではあったが、声も足も震えている。あれだけの剣幕だったのだ。か弱い女人であれば怯えて当然ではある。この城には護衛の兵などはいないのだろうか、などと飛助は思った。そういえば思い返してみても、門番すらいなかったのだ。それほど平和なところなのかもしれない。
ヒラメのような顔の女人が、怯えか、あるいは怒りかでぶるぶると震えているその後ろでは、悔しそうに顔を歪めている見目麗しい姫がいる。やはり幻術の類であったらしく、茜とは別の顔に変わっているものの、確かにこの世のものとは思えぬほどに美しい。けれど、眉を吊り上げ、こめかみに血管を浮き上がらせ、きつく下唇を噛めば、せっかくの美人が台無しである。
「そう怒りなさんな別嬪さん」
とりあえず、確かに姫様の御前で抱き合うのは無礼だろう、と茜と離れた白狼丸が、緩慢な動きでその場に胡坐をかく。茜と飛助もまた、居住まいを正した。
「そうそう、せっかくの美人なのに。ほらほら、にっこり笑ってくださいよぅ。いやぁ、こんな美人、陸でもなかなかお目にかかれないもんなぁ、眼福眼福」
へらへらと軽口を叩くと、乙姫のお付きのヒラメ女や鯛女は「んまァ」と目を吊り上げたが、当の乙姫は、というと、ふ、と肩の力を抜いてころころと笑い出した。
「ほほほ、なかなか面白いことを仰いますのね。どれ、そこのあなた。わたくしの夫になりませんこと?」
「えぇ? おいら?」
自身を指差してそう言えば、乙姫は袖で口元を隠してこくこくと頷いてみせた。
「いやぁ、参ったなぁ。こんなきれいなお姫様に求婚されるなんて、夢みたぁい」
えへへ、と目尻を下げて頬を緩ませる。その様子に気を良くした乙姫は尚も畳みかけるように「わたくしの夫となれば、この海はすべてそなたのものでございますわ」と言いながら、女人達をかきわけて飛助の前に進み出た。
「どうすんだ、飛助。別におれはお前の人生だから好きにすりゃあ良いと思うけどよ」
ぶっきらぼうにそう言う白狼丸だが、声の調子がかすかに暗い。きっと寂しいのだ。それが耳の良い飛助にはわかってしまう。
「飛助がそれを望むなら、俺に止める権利はないけど……」
伏し目がちにぽつりとそう漏らしたのは茜だ。
飛助とて、寂しくないわけではない。それに、この海の中は、陸よりも時の流れがうんと遅いのである。ここで数日――、いや数年過ごすとすれば、きっと陸に上がった時、もうこの二人はいないだろう。
「乙姫様、おいらみたいなのにそうおっしゃっていただけるのは大変ありがたいのですが、実は、陸に恋人がおりまして」
きちんと手をついて深々と頭を下げると、まさか断られるなどと思っていなかったらしい乙姫が目を丸くするよりも派手に驚いたのは隣の二人である。
「えっ、おい、お前いつの間に!」
「そうだったのか飛助! それは太郎は知っているのか?」
腰を浮かせてざわめき出す二人を、まぁまぁとなだめ、「あのね、おいらだってやる時はやるんだよ。幸せなの、二人だけだと思わないでよね」と、得意気に胸を張る。
「いや、別におれらだけとか」
「そんなこと思ってたわけじゃないけど」
などと、二人がもごもごと言い訳らしきものを口の中で転がしていると、ああ、ほら、と何かに気付いた飛助が、廊下の方を指差した。
「来た来た。おいらの恋人!」
「えっ!?」
「ここに?!」
慌ててその指が示す先に視線を走らせると、そこにいたのは――、
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