竜宮城②

ってぇ~……。何だ、何が――あ、茜ぇ?!」


 吹き飛ばされた拍子に頭を打ちつけたらしく、視界がぐわぐわと揺れる。ちかちかと火花まで散る視界の中、胸に乗る妙な重さの正体は何だと目を擦ってみれば、そこにいるのは茜である。


「は? え? 何で? さっきの――いや違うな」


 こっちこそが本物だ、と気付いてその背中を強く抱けば、最後に抱いた時よりもずっと痩せている。ほとんど骨と皮のようなその感触に、折れてしまうのではないかと怯んで、力を緩めた。


「白狼丸、白狼丸……!」

「どうした茜。何でこんなところにいるんだ」

「だっ……だって、おま、お前が、か、帰って、こな、来ないからぁ……っ!」


 彼の襟をぎゅっと掴み、胸に顔を押し付けるようにして、ひっくひっくとしゃくり上げながら、茜は言った。白狼丸はというと、彼女の言っていることがまったくわからない。けれども、どうにか泣き止ませようと、努めて優しくその背中を擦ってやった。


「いや、帰って来ないって、明日の昼までには帰るって言ったじゃねぇか」

「そうだ、それなのに……! お前は、七日も帰って、来なくて、だっ、だから俺は、お前が、も、もう、俺に飽きてしまったんだと……うううぅ」

「はあぁ? そんなわけがないだろ。このおれがお前に飽きるなんてこたぁ未来永劫ねぇんだよ」

「だけど!」

「わぁ! 何だいきなり」


 がば、と勢いよく顔を上げた茜が涙まみれの頬を袖で乱暴に拭う。その時に初めて彼女の着ているものが太郎のものであることに気付いた白狼丸である。そういえば彼が見る彼女は専ら寝間着姿で、ただ一度だけあの島で太郎の着物を着た姿を見たきりである。ということはきっと、ここに向かった際には太郎の状態だったのだろう。それが茜になっているということは、もしかしていまはもう夜半なのだろうか。まさか、そんな。


 一瞬のうちにそんなことまで考えていると、顔を拭った茜が、その拳を彼の胸に打ち付けて来るではないか。加減はしているのだろうが、それでもかなり痛い。何せ彼女は鬼なのだ。


てぇ! ちょ、おい、何だ! 茜? ちょ、何だよ」

「さっき、あの女に目を奪われていたじゃないか! 頬に触れて、口吸いまでしようとしてた!」

「えぇ?! み、見てたのかよ! いや、違う! 違うって!」

「酷い! 浮気者!」

「そんな! 違う! 違うんだって!」

 

 違う違うと焦って否定すればするほど怪しさが増す。そうは思うものの、かといって冷静に説明出来る自信もない。


「俺だけだって言っておきながら! な、七日も!」

「だからちげぇんだって!」

「違うも何も、緑六殿はお前が帰りたいなんて一言も言ってないって!」

「そりゃ言うわけねぇだろぉっ!」


 何せここへ来てまだのだから、さすがに帰るには早すぎる。だけど、これから言うつもりだったのだ。というか、何ならそこの女共にはもう何度もそう訴えている。


 そこまで言えば良かった。

 けれども、とにかく彼は焦っていた。興奮している茜に言葉を届けるには、それ以上に強い声を出さねばならぬと。それだけに言葉が足りなかった。


 だからもちろん、茜に届く言葉は、「帰りたいなどと言うわけがない」だけである。それ以上の言葉を発していないのだから、当然のことだ。


「や……やっぱり」


 力なくそう言って、崩れるように白狼丸から降りる。


「あ、茜、違うって。違うんだ、だから」

「良いんだ。もう良い。もうわかった」

「何がわかったんだ。なぁ、おい、聞けって」


 よろよろと四つん這いの姿勢で逃げようとする茜の手首を掴み、こんなに細かっただろうかと首を傾げる。いくら何でもこんな僅かな時間でここまで痩せるわけがない。その手も振り払われてしまった。


「俺はお前が幸せならそれで良い。白狼丸のことは誰にも渡したくなかったけど、お前にその意思がないのなら、やっぱり縛ることは出来ない。この美しいところであの女と幸せに生きてくれ」

「待て! 話を聞けぇっ!」


 ありったけの声を出してようやく茜と視線が重なる。けれど重なったのはほんの数秒だった。茜は怯えたように長いまつ毛を震わせ、目を伏せてしまう。ほろりと零れる涙を拭うのは自分の役目のはずだったのに、それをしたのは――、飛助だった。

 

「いい加減にしろよこの駄犬が」

「何だ、てめぇも来てたのかよ」


 茜ちゃん、立てるかい、と優しい声をかけて彼女の手を取り、白狼丸から守るようにその肩を抱く。


「来ちゃあ悪いかよ。首輪がついてるくせに躾のなってねぇ阿呆犬が帰って来ねぇっつぅんで探しに来てやったんだよ。いまのいままで仲間だと思ってたんでな」

「あぁそうかい。そんじゃあもう違うってわけだな。まずはおれの女からきたねぇ手を離せやクソが」

「飛助、白狼丸、止めてくれ」

「止めるな茜ちゃん。さすがのおいらももう限界だ。どうしても帰れない事情でもあんのかと思ったら、言うに事欠いて帰りたくねぇだぁ?!」

「んなこと言ってねぇだろうが!」

「言っただろ! 全部聞いてた! おいらの耳の良さを舐めんな!」

「っだから、それは!」

「うるせぇうるせぇ。言い訳なんて男らしくねぇぞ、駄犬が」

「男らしいもクソもあるか! 茜! こっちに来い!」

「駄目だ。茜ちゃんは渡さん」

「お前……っ! お前が好きなのは『タロちゃん』じゃねぇのかよ」


 ぎろりと睨んで鋭い犬歯を剝き出しにする。けれどそんなことで怯むようなやつではないことくらい白狼丸にもわかっている。


「そうだ。おいらはタロちゃんが大好きだよ。タロちゃんだけじゃなくて、お前のことだって大好きだったさ。お前なんか、目と目が合えば喧嘩するようなやつだし、礼儀も何も知らねぇような山犬だけどよぉ」


 『山犬』の言葉で、白狼丸のこめかみに血管が浮き出る。いま何つったてめぇ、と低く唸ったが、もちろんそんなものにビビるような飛助ではない。


「だけど! タロちゃんを何よりも大事にしているところも、茜ちゃんのことを一途に思ってるところも、どんな相手でも態度を変えねぇところも、腹にってぇ芯が入ってるやつだと一目置いてたんだ。なのになぁ!」


 そう吐き出して、がくりと頭を垂れる。


「そんなやつだったのかよ、お前は。おいらだけならまだ良いよ。お前のことを何よりも大切に思ってる人を、こんなに悲しませるようなやつだったのか。タロちゃんがどんな思いでお前を待ってたか。茜ちゃんがどんなに必死で自分を守ってたか」

「……何のことだよ」

「良いんだ、飛助。言わなくても良い」

「いいや、言わせてもらう。タロちゃんはな、お前がいない間は何としても茜ちゃんを表に出すわけにはいかねぇって、自ら桃を食ってたんだぞ。茜ちゃんがな、それを望んでるんだって。おいらがどんなに止めても聞きゃあしねぇ」

「はぁ? 別に食わなくても部屋にでも置いときゃあ済む話じゃねぇか」

「おいらだってそう思ったさ。だけど、念には念をってな、タロちゃんがその辺融通利かねぇのわかるだろ。お前のことが心配で心配で、飯なんかほとんど食ってねぇ、ふらふらの身体でだ。そんな時に桃なんか食ってみろ」

「あいつは馬鹿か……」

「馬鹿はお前だぁ! 毎晩毎晩死にそうな顔で、もしかしたらお前がひょっこり帰ってくるかもしれねぇって、その時は一番に出迎えてやらなくちゃって石蕗屋ウチの門の前で待ってたんだぞ!」

「だから! 毎晩って何の話だよ! おれはまだここに来て四半刻も経ってねぇ!」

「そんな見え透いた――」


 ぐ、と身を乗り出し、一発殴ってやろうかと拳を握りしめたところで、はた、と気が付く。


「そうか、『遅い』方だったのか」


 飛助がぽつりとそう呟くと、茜は「ああ」と零して、するりと彼の腕から抜け、へたりとその場に尻を着いた。

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