一寸法師と怪力娘②

 それでもまだ右近は欠片程度の優しさは持ち合わせていたと見えて、すぐに紗雨ささめをどうこうしようとはしなかった。不安やら心細さでめそめそと泣き続ける彼女に部屋を与え、女中に身の回りの世話を命じ、さっさと自室に戻ってしまったのである。紗雨を買ったとはいえ、本妻をないがしろにするわけにもいかない。婚姻関係を解消しない限りは彼女の実家である油問屋からの援助が続くのである。正直、季江きえに対しては何の感情もないが、飽きたからと言って捨てられるようなものではない。


 だから、ご機嫌を取っておくに越したことはない。何、適当に相手をしてやれば良いのだ。そんなことを考えて。


 一人きりになった紗雨は、広い部屋の真ん中で、ぽつんと敷かれた布団の上に所在無げに座っていた。唯一手元にあるのは、うっかり戻し忘れた打ち出の小槌である。こんなことになるのなら、せめて那彦を元の姿に戻しておけば良かった。そう思って、大きなため息をつき、ハッと思い出す。


 打ち出の小槌は『キムスメ』しか使えぬ、ということを。


 この打ち出の小槌は、遠い遠い昔に鬼からもらったものらしい。嘘か真か、ご先祖の中に女鬼めおにがいるらしく、彼女が嫁ぐ際に友好の証として贈られたものだと聞いた。自分のこの怪力も、いわゆる先祖返りというものらしい。もう何代、十何代も前の話であるから、かなり鬼の血は薄まっているはずなのだが、どういうわけだか紗雨にだけそれが色濃く出たのだと。


 人並み以上の怪力を持つ紗雨に対し、いまは亡き彼女の曾祖母は「たくさん泣きなさい。泣いているうちは、その力は出ないから」と彼女に教えたという。本来はその逆で、泣くことで理性の箍が外れ、一層化け物染みた力が出てしまうため、それを防ぐことが目的だったのだが。紗雨は大好きな曾祖母のその言葉を信じ、少しでも人並みになれるのならと、些細なことでもよく泣くようになった。

 彼女の思い込みの力が勝ったか、泣いている間は、怪力はすっかり鳴りを潜めてくれるのだ。それに、めそめそと泣いていると、大好きな那彦が慰めてくれる。頭の上によじ登り、あの小さな身体を全部使ってぴょんぴょんと飛び跳ねてくれるのである。それが嬉しくて、泣き虫のまま大きくなってしまった。


 けれど、どんなに泣いても那彦は慰めてくれない。

 

 とにかくもうこの楔舘くさびだての家にもらわれてしまったのだから、もう自分はこの家のものなのだ。那彦との縁も切れてしまった。誰かのものになれば、もう『キムスメ』ではないのだと青衣から教えてもらった。だからきっと、もうこの小槌は使えないのだと、そう思って、やはりめそめそと泣いた。


 と。


「失礼します」


 そんな声が聞こえて、紗雨はごしごしと涙を拭った。さっき来てくれた女中だろうか。そう思い、「いま開けます」と腰を浮かせる。けれど、紗雨がそこへ向かう前に、襖は開いた。そこには、丁寧に頭を下げる女中らしき女性がいて、「お夕食を」と手短に言うと、紗雨の返事も待たずに傍らに置いてあった膳を持って部屋に入って来た。


「あの、わざわざすみません。言って下さったら、あたし、自分でいただきに参りましたのに――」


 重いでしょう? 持ちます、と祝い事でもあるのかと思うほどの御馳走が乗った膳を受け取ろうとすると、彼女は、ふるふると首を振って、紗雨の耳元でこう言った。


「お気遣いは無用だよ。アンタにゃ負けるけど、わっちだってそれなりに力持ちなんでね」と。


 その声に、聞き覚えがある。何せ数刻前に何度も聞いた声だ。


「あ、あお――」

「静かに」


 そう言って、膳を片手で持ち、紗雨の口元に扇子を当てる。


 青衣様、おっしゃる通りに力持ちだわ。


 大方、そんなことを考えているだろうと思われる表情でこくこくと頷いて、「まずは腹ごしらえしちまいな」という青衣の言葉に大人しく従って、その場に腰を落とした。けれど、食欲がない、と箸を持ったまま動かない。無理もない話である。


 それならわっちにも少し分けてもらえないか、一緒に食べようじゃないか、と提案すると、青衣が口に運ぶのと同じものだけをわずかに食べた。少しでも温かいものが腹に入ると、青くなっていた顔色も徐々に赤みが差してくる。汁物はアンタが飲みな、と椀を渡すついでに指先に触れてみれば、ほんのりと温い。


 こいつは、わっちがいきなり女中の恰好で現れても、何の疑問も抱かないんだねェ。


 そんなことを考えて苦笑する。大方、住み込みで働き始めたのだとでも思っているのだろう。


「なァ、嬢ちゃん。アンタ、本当にこれで良いのかい」

「良いのかい、と言われましても。あたしにはどうにも」


 ほわりと湯気の上がる汁を三口ほど飲み、椀を置く。


「那彦様は素敵な方ですから、あたしなんかより、ずっとずっと良いお嫁さんをもらって、幸せになるに決まってます」

「素敵な方、ねェ」


 剣の腕は良いのかもしれないが、女を見るやすぐに鼻の下をデレデレと伸ばすような男のどこが『素敵』なのかわからない。素敵な男っていうのは、真面目で、まっすぐで、優しくて、それで――、とつい思い浮かべてしまうのは太郎である。彼はいまごろをしてこちらへ向かっているはずだ。もちろん平八は石蕗つわぶき屋のお抱え薬師である青衣がうまいこと言いくるめてある。当然のように、世話役の犬猿含めて外出の許可をもぎ取っておいた。


「青衣様はご存知ないかもしれませんが、那彦様はかけはぎの腕も素晴らしいんですよ。こんっな大きな穴があいた着物だって、まるで新品みたいに直してしまうんですから」


 人差し指と親指で円を作り、それを目の前にかざして興奮気味に言う。


「ほォ、さすがは縫製職人の倅だ。わっちはてっきり剣の方にしか能がない好色侍だとばかり思っていたよ」

「すごいんです、那彦様は。あんな小さなお身体でも、とってもお強くて、お優しくて、最初からあたしにはもったいないお方だったんです。ですから……」


 ぼた、と大粒の涙が膝に落ちる。


「青衣様、もしも那彦様にお会いすることがございましたら、どうかお幸せに、とお伝えくださいませんか。それから、あたしのせいで、小さいままになってしまって、ごめんなさい、と」


 あと、あと、と次々並べられるのは謝罪の言葉ばかりである。あの時あんなことをしてごめんなさいだの、いつも泣いてばかりでごめんなさいだのと、聞いているだけでこちらの気が滅入ってくるようだ。


「それと――」

「待ちな」


 涙のしみですっかり色が変わってしまった膝の上に手巾を被せてから、青衣はこれ以上しゃべるな、とばかりに声を上げた。


「そんなに覚えられるわけがないだろ。第一、そういうのはね、自分で伝えないと意味がないんだ。甘ったれんじゃァないよ、てめェの口で言うんだね」

「だけど、この家に嫁いでしまいましたし、もう那彦様にお会いすることは――」

「出来ないって?」


 そんなこと、誰が決めたんだい、とそう言って、青衣はにんまりと笑った。


「だってあたしはもう右近様の妻で――」


 と紗雨が口を開いた時である。


「――おっ、おい、何だお前達は!」


 廊下の奥から右近のかなり焦ったような声が聞こえて来た。 

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