海亀の緑六②

「姐御から聞いてなかったら、何が何でも辞退してたんだけどな」


 飛助がそんなことをぽつりと呟く。

 

 のである。

 心の中で思うのではなく、実際に口に出せるのだ。


 海の中、だというのに。


 吐き出される息は、あぶくにもならない。まるで、陸の上――いや、足が着かないから空の上と言った方が良いのかもしれないが――にいるようである。


「変な感じ。海の中なのに、水に触れてる感じがしないや。ねぇ、タロちゃん」

「ああ、そうだな。海の水は塩辛いはずなのに、口を開けても味がしない」


 そんなことを言って、太郎はぽかりと口を開けた。


「目にも沁みない」


 そして、大きく瞬きを二回。


「不思議でしょう。人の子は皆、そう言うのです。けれど、それ以上に――」


 緑六は、長い首を思い切り伸ばして背に跨る二人を見た。


「きれいでしょう、海の中は」

「ああ、思った以上だった」

「それはおいらも認めるよ。潜ったことは何回もあるけどさ。って言っても、こんな深くまではないんだけど。だけど、そん時はさ、息が続かなくて苦しいなぁとか、そういうので頭がいっぱいで、とてもじゃないけど景色なんて楽しむ余裕もなかったし」


 ふよふよと漂うように泳ぐ魚達に手を伸ばしながらそう言うと、緑六は、ふはは、と愉快そうに笑った。


「そうでしょうとも。人の子は海の中では生きられないものですからね。ですが、私と一緒なら、大丈夫。それに、これから行く竜宮城では、私の背から降りても心配ありません」

「竜宮城? お城?」

「そうです。我らが主、乙姫様の城にございます」

「乙姫様かぁ、美人かい?」

「それはもう」


 私はあのお方以上に美しい方を見たことがございませんよ、と心の底からそう思っているのだろう、目を細めてうっとりと言う。


 そうこうする間にも、二人を乗せた緑六はどんどんと深く潜っていく。日の光などはとっくに届かないところまできているはずだが、不思議と暗くはない。かといって、陽光の下にいるような明るさでもない。うすぼんやりとした世界であった。けれど、頬を撫でるように泳ぐ人懐こい小さな魚の、そのうろこの模様まではっきりと見える。


 そうした不思議な明るさと暖かさの中を、下へ下へと潜っているうちに、飛助は、妙なことに気が付いた。


「タロちゃん? 何か縮んだ?」


 自分の前にいる太郎の身体が、一回り――は言い過ぎだとしても小さくなったような気がするのである。確かにここ数日でただでさえ細身だった彼の身体はより一層薄くなった。だけどそれでも、さっきまで着物はきっちりと着ていたはずだ。

 なのに、帯でも緩んだか、着物の肩の辺りが余り、大きく開いた抜き襟が何とも艶めかしい。高く結い上げた長い黒髪が、風に吹かれるがごとくふよふよと揺れ、ちらりと見える首が、折れそうなほどに細くて、つい、手が伸びる。


 と。


「触るな飛助」


 厳しい声だった。

 けれど、高く、細い声だった。

 太郎の声ではない。

 まるで――、


 女の声のような。


「え? えっと、え? た、タロちゃん、だよね?」


 その問いに、太郎はゆっくりと首を振った。


「そ――れじゃあ、え、と、茜、ちゃん、てこと?」


 恐る恐る問い掛ける。

 正直なところ、聞くまでもないと思う。

 目の前にいる人物が太郎でないとすれば、だ。

 そしてその身体つきや声から判断すれば、である。


 それは茜でしかないのだ。


 毎日桃を食べたというのに。

 そうまでして、他の男の目に触れないようにとしていたのに。


「あの、あの、ごめんね、茜ちゃん。ええと、あの。おいら別にやらしい意味で触ろうと思ったわけじゃないんだ」

「良いんだ、飛助。わかってる。きつく言って悪かった。なぁ緑六りょくろく殿、これはどういうことなんだろう。わかるだろうか?」


 太郎が茜に変わったことに気付いていなかったのか、「何がです」と緑六が首を回してくる。そして、ついさっきまでいたはずの若者が女人に変わっているのを見て、「おや」と声を上げた。


「稀にそういう者がいると話には聞いたことがありますが。ははぁ、どうやらあなたの身体には二つの魂があるようですね」

「そういうことなのか。俺自身、実はよくわからないんだ。普段は夜半にならないとこうはならないんだが――」

「成る程。ここは太陽の光もほとんど届きませんしねぇ。もしかしたら、それが関係しているのかもしれませんが。何せ私も、噂程度に聞いただけですから。いやはや、長く生きているのに、情けないことです」


 そうか、と答える茜の声が震えている。見れば、声だけではなく、肩も微かに震えている。寒いのだろうか、と飛助は思ったが、海の中は陸と同様、不思議とぽかぽか暖かい。ならば、なぜ震えるのか。


 後ろに自分がいるから、なのではないか。


 そう思い至ったから、飛助はなるべく茜に触れないよう、けれど緑六の背から落ちてしまわぬようにとほんの少し後退した。そして、ぎゅっと固く目をつぶる。気配でそう知ったらしい太郎が、少し焦ったような声を出す。


「飛助、そんなに離れたら危ないんじゃないか」

「大丈夫だよ」

「落ちたら大変だぞ。もっと前に来たら良いだろ。俺なら大丈夫だから」

「いいや、駄目だ。タロちゃ――じゃなかった茜ちゃん、おいらはね、皆のことが大好きなんだ。タロちゃんに、白ちゃんに、姐御に。もちろん石蕗つわぶき屋の皆もね。だからね、皆の前では、何の疚しいところもなく、胸を張れる自分でいたいんだよ。茜ちゃんが大嫌いな桃を食べてまで身を隠したがったのに、それをおいらが無駄にしちゃあいけない」

「だけど、いまは仕方がないだろ」

「そうかもしれないけど、少なくとも、旦那さん白ちゃんの目が届かないところでは、絶対においらは茜ちゃんのことじろじろ見たり、触れたりしない。じゃないときっと、この先皆の前で胸を張れない自分になっちまう」


 頼むから、恰好つけさせてくれよ。


 絞り出すようにそう言う。


「おいらだってね、タロちゃんに『恰好良い男』だって思われたいんだ。そりゃあ白ちゃんの方が特別かもしれなくてもさ」


 最後は少しいじけたような声になりつつ、飛助はそう締めた。


「なぁ飛助」

「……何だい」

「太郎はお前のことだって恰好良い男だと思ってるさ。何も白狼丸だけを特別に思っているわけじゃない。ただ、まぁこの姿の時はどうしても……、その……」

「大丈夫、そこはちゃんと弁えてるよ」


 目を瞑っていてもわかる。

 きっといま茜は、恥ずかしそうに身を捩らせているだろう。これが太郎だったなら、後ろからぎゅっと抱き締めてしまうところだ。


 多少気まずい空気が流れたところへ、緑六の呑気な声が届く。


「随分と仲のおよろしいことで。さぁ、もうすぐですよ。見えますか?」


 その言葉に薄目を開けてみれば、いままでに見たどんなものよりも艶やかで立派な城が見えた。

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