第8話 ④

 雅之が負傷したらしく、それを心配する紀夫に変わって、賢人は木村とともに暴漢を押さえ込んでいた。

「雅之さんはやばい状態かもしれない」

 暴漢をともに押さえ込む木村が、賢人にそう告げた。ここに駆け寄る途中で、雅之の状態を遠巻きに見たのだろう。もっとも今の賢人の位置からでは、それを確認することは不可能だ。梨花と綾、紀夫、時子が雅之の傍らでしゃがんでいるのが、見えるのみである。

「やばい状態だなんて……梨花ちゃんはお母さんを亡くしたばかりなんですよ」

 言ったところでどうにもならないのは、十分承知している。梨花の気持ちを慮ればこそ、無駄な言葉を吐いてしまうのだ。

 勝義の詠唱は終わったようだ。一陣の風が吹き、勝義の足元に立っていた薄い煙が消えた。飛田が何かを叫んだ直後から地鳴りがしているが、これといった変化は、今のところはないようだ。次に何が起こるのか――暴漢を木村と共に押さえながら、それを待つ。

 回転する光の幕を一瞥した賢人は、梨花たちの先に目を向けた。暴漢の一人は仁志と城島によってやはりうつ伏せにされており、その手前をよく見れば、雅之を刺した男も裕次と坂上によってうつ伏せにされていた。波瑠を含めた多くの女たちは、おびえた様子でしゃがみ込んでいる。佐川ら数人の中高年らは、へたり込んでいる喜久夫の周囲に集まっていた。

「おれたちがここまで生き延びることができたのも、雅之さんのおかげだ。なんとしても、彼には助かってもらいたい」

 眼鏡に揺らめく光を反射させつつ、木村が言った。

「もちろんです」

 雅之まで命を落としてしまえば、梨花は家族をすべて失うことになる。だが山神の包囲網が解かれて救援が駆けつければ、雅之の命を救えるかもしれない。そのためにも儀式の完遂は必須であり、ゆえに賢人は、この暴漢を押さえる手を緩めるわけにはいかないのだ。

「君のお父さんの技術が、活かされるときだな」

 木村の言葉を受けて、賢人は首を横に振る。

「葛城家が山神信仰を引っ張ってきたから、こんなことになったんです」

「違うよ」木村は断言した。「君の一族は山神を押さえ込んでいたんだ。だからこれまで、みんな無事でいられたんだ」

「それは……そうかもしれないですけど……」

 芹沢本家宅の大広間で綾が説いた山神信仰の歴史を想起した。あか地区にはこの因習を忌み嫌う住人が多い。特に、この信仰とは無関係の旧家の者は、あからさまな態度を示すこともある。おそらくは、そんな者が近所の住人やグリーンタウン平田の住人を煽動したのだろう。煽動した者にも責任はあるが、大義名分があるにせよ山神信仰がその根幹の部分を秘匿されたまま伝えられてきたこと自体に問題があるのだ。賢人にはそう思えてならない。

「山神が暴れないように務めてきた……っていうことなのか?」

 取り押さえられている男が、苦しそうに声を漏らした。

「この信仰を持つ家々ではな」木村が答える。「ほとんどの者が何も知らないんだよ。山神が実在するのを知るのは、一部の人間だけだ。太古の朱に現れたこの化け物は、付近一帯の住人たちを襲って食らっていた。それを術を使って押さえ込んだ術者が、その秘法を山神信仰として伝えたんだ。みんなが平穏に暮らせるように、とな。それも、この現代ではやりづらくなり、区切りをつけなくてはならなくなった。山神をここから追い出す、ということだ。その最期の儀式が失敗して、こんなことになってしまった。今、執りおこなわれているのは、最期の儀式のリベンジだ。これが失敗すれば、あんたもおれたちも、みんな死ぬしかない」

「知らなかった……そんなこと……」

 男のその言葉に、賢人は気持ちは煮えくり返った。

「知らないからって、中学生の女の子まで殺すのかよ」

 そう吐き捨てた賢人は、押さえている男の片腕を、さらにひねった。

「あうっ」

 男はあえぐが、できることならこの腕をねじ切ってやりたかった。

「賢人くん、いけないぞ」

 木村にたしなめられ、賢人は力を緩めた。

「中学生……って?」

 あえぎながら、男は尋ねた。

「あんた、朱のどこの人だ?」

 木村が問い返した。

「平田……グリーンタウン平田だよ」

「じゃあ、石塚さんってわかるか?」

 木村は続けた。

「ああ」

「その石塚さんの娘さんが、あんたの仲間に頭を叩き潰されて死んだんだ。その少女だけじゃない。ほかにも殺された。今も、おれの仲間があんたの仲間に刺されたしな。あんたらにも正義はない、っていうことだよ」

 木村は静かに告げた。

「殺された……石塚さんの娘さん……たくさんの人たち……」

 衝撃を受けたのだろう――この男の全身から力が抜けていた。

 不意に、地鳴りが聞こえなくなった。

 賢人は儀式の場に目を向けた。

 特に変わった様子は見られない。

 しかし――。


 地鳴りが鎮まって静けさが到来した。

 梨花は雅之の右手を離さずに周囲を見渡すが、変化は確認できなかった。

「うおおおおお!」

 静けさを破るかのごとく、飛田が雄叫びを上げた。

 梨花も時子も紀夫も綾も、時子の膝に頭を載せている仰向けの雅之も、儀式の場に視線を定めた。

 顔を空に向けて、飛田が叫び続けていた。大きく開けた口から怒濤のように吐き出される大声が、やがて途絶えた。

 飛田の顔が真っ赤に染まった――否、真っ赤というよりは赤黒い色だ。見れば首も両手も赤黒い。

「何が起きているんだ?」

 紀夫がそう漏らした。

「綾ちゃん……」雅之の声はかすれていた。「飛田さんが……犠牲者なんだろう?」

「そうだと思います」

 儀式の場に顔を向けたまま、綾は首肯した。答えるのもつらそうだった。

 変化があった。飛田の頬が膨らんだ。その膨らみが頬からこめかみや額へと広がっていき、やがて頭部全体が風船のようになってしまう。それでも勝義は、両腕を広げたまま動かない。

 目を見開いた梨花は、その光景に釘づけとなっていた。犠牲者だとされた飛田にこんな異変が起こったうえ、綾は雅之に「見ないほうがいいです」とまで告げていたのだから、この程度では済まないはずだ。さらなる異変が起こるに違いない。目を逸らすなら早いほうがよさそうだが、梨花は目を逸らせなかった。逸らせないのではなく、その異様な光景が、梨花の視線を解放してくれないのだ。

 梨花の懸念は的中したらしい。頭部だけではなかった。腹部や四肢までがぶくぶくと膨れ上がり、ついには白衣が耐えきれずに四散した。全裸の飛田は、陰部さえ隠されてしまうほど肉が盛り上がっていた。

 誰もが声を失っていた。何が起きているのか、理解できないのかもしれない。

 飛田の二つの眼球が飛び出し、頬に垂れ下がった。腹が裂けて内臓が飛び出した。口からも内臓が飛び出している。それら飛び出した器官のすべてが赤黒く変色するなり、本体の表面に吸収されてしまう。飛田の体は、赤黒い肉団子と成り果てた。

「飛田さんが……」

 雅之の胸を押さえながら、時子が声を震わせた。

「綾ちゃん」紀夫だった。「これはどういうことなんだ?」

「飛田さんの体を苗床として、顕現するんです」

 飛田の変貌を見つめたまま、綾は答えた。

「顕現する……って、山神が?」

 紀夫はさらに尋ねた。

「いいえ」綾は首を横に振った。「山神様を産み落とした……女神様です」

「女神――」

 それ以上は言葉にならなかったらしい。紀夫は沈黙した。

 赤黒い肉団子がさらに膨れ上がった――否、巨大化しているのだ。幅や奥行きはさることながら、高さまでが増していくのである。それはすでに、人ではなかった。頭部も手足も見当たらない。

「もうすぐ……終わる……」

 かすれた声でつぶやいた雅之も、それを見ていた。

 巨大化を続ける赤黒い肉団子は、体表の様子にも変化を来した。表皮が次第にただれていき、いくつもの横長の裂け目が生じていく。それら裂け目は明らかに口だった。それぞれの口はどれもが半開きであり、その中にはのこぎりの歯のような鋸歯が上下に並んでいる。体表のあちこちから伸び出したのは、細長い触手だ。

 悪臭が漂った。誰もが顔をしかめた。山神の悪臭とも異なる強烈なにおいだ。糞尿のにおい、のように感じられた。この悪臭と醜怪な姿――双方が相まって吐き気を誘うが、梨花はそれをこらえた。

 勝義は両腕を広げたままだ。彼はこの悪臭にも醜怪な姿にも耐え、己の身動きを制御しているのである。義務とはいえ、その精神力と体力には驚愕せざるをえない。

 赤黒い肉団子――女神だというそれは、高さが十メートル以上、幅が最大で五メートルほどの楕円体に成長していた。しかし、巨大化はまだ止まっていない。

 ふと、醜怪な女神が宙に浮いた。すでに全高は二十メートルを超えているだろう。強烈な悪臭をまき散らしながら、ゆっくりと高度を増していく。

 皆がそれを見上げた。時子に膝枕をしてもらっている雅之は、この中で最も見やすい体勢に違いない。

 女神の上昇が止まったようだ。肉塊の底の部分は地上から二十メートルほどの高さにあるだろう。巨大化も収まったらしい。ここからでは彼女の全高はもう見定められないが、横幅は十メートル前後はありそうだ。

 いくつもの巨大な口が半開きのまま淫猥なあえぎ声を漏らし始めた。狂った女を連想させる声が無数に重なる。

 梨花はそれらの声が脳の奥まで浸透していくような気がして、思わず両耳を塞いだ。しかし効果がまったくないと悟り、両手を下ろしてしまう。

 ふと見れば、沙織が一行の片隅で膝を突き、赤黒い肉団子状の女神を見上げていた。祈るように両手を胸の前で組んでいる。

 ゆっくりと回転する天空の光の幕に、異変が生じた。ところどころから光の触手のようなものが伸び始めたのだ。数十本――数百本はあるだろうか。それら触手のようなものは皆、細い先端をあの醜怪な女神に向けていた。

 梨花は雅之の右手から両手を離さずに、成り行きを見守っていた。何が起ころうとも、この父の手を離すつもりはない。

 雅之が震えながら口を開く。

「こんな別れ方をおまえは望んでいないのだろうが……でも……世間一般的な別れ方だったら言いそびれるようなことも……今のおれには言える」

「お父さんだめだよ、そんなことを言っては!」

 こんな父を諫めるのは心苦しいが、それでも口にせずはいられなかった。

「おまえが娘でいてくれてよかったよ。今まで、おれもお母さんも……おまえのおかげで数十年ぶん余計に幸せを堪能した……そんな気分だった」

「お父さん……」

 梨花は嗚咽をこらえた。

 雅之の右手を握った梨花の両手に、雅之の左手がかぶせられる。

 時子も紀夫も綾も、すすり泣いていた。

「さあ……」雅之は言った。「山神がどうなるか……見よう」

「山神がどうなるか……」

 雅之に倣って、もう「様」はつけなかった。皆をこうも苦しめるものは、神様などではない。

 梨花は綾を見る。

「綾ちゃん、山神に朱を離れるつもりはないんでしょう?」

「山神様は……」綾は首を横に振る。「山神に朱を離れるつもりはないけど、ここにはいられない、と悟れば、『十二の扉の主』の元へと行こうとするはず。『十二の扉の主』から援助をもらえれば、一度ここから引き離されても、今度こそは自由に世界を闊歩できるんだもの。でも山神は、女神様によって遠い世界へと連れ去られるわ」

 梨花は得心がいった。そのために複雑な儀式が必要だったのだ。そのために――飛田という犠牲が必要だったわけである。

 発光する細長い触手状のものが次々と女神の無数の口に吸い込まれていった。回転する光の幕から延びる触手状のものは、回転に伴い、渦のように全体が弧を描いていく。

 糞尿のにおいに山神のにおいが混交した。嗅覚がどうにかなりそうだが、梨花はひたすら耐えた。

 淫猥なあえぎ声が大きくなった。自分の産み落とした仔を体内へと取り戻す喜び――もしくは、快楽なのだろうか。

 発光する触手状のものは天空の光の幕からだけではなく、山並や平地を覆う発光するアメーバ状の物質からも伸び出ていた。次から次へと伸び出る発光する触手が、女神のいくつもの口へと吸い込まれていく。

 平地を覆うアメーバ状の物質が、山並みのほうへと後退し始めた。

「山神の思念が薄らいでいく」

 綾がつぶやいた。

 上空に流れる発光する何本もの触手は、ちぎれては現れ、またちぎれては現れ、と何度も繰り返していた。そしてついには、女神本体までもが天空の光の幕に同調して回転し始める。

「どんどん吸われていく」

 雅之の胸を押さえる手を緩めずに、時子が空を見上げながら言った。

 地上を覆うアメーバ状の物質は、やがて、山並みの稜線からも姿を消してしまい、それと繫がっていた光の幕も徐々に下端部を上昇させていった。覆い隠されていた外側の空があらわになっていく。

 山並みのスカイラインから上に広がっていく青空を見て、梨花は息を吞んだ。それはまさしく、本物の空だった。

 女神の口に吸い込まれていく触手の付け根は、光の幕の裾が上がっていくに合わせて中天へと集まっていった。さらには、いくつかの触手からまたいくつかの触手が傍流のごとく伸び出し、それら傍流の先端にシンメトリーの手が現れた。

 淫猥なあえぎ声を響かせる無数の口が、ほぼ真上から伸びてくる触手の本流を吸い込んでいた。本流が吸い込まれている状態なのだから、当然、傍流の触手の付け根も女神の口へと引き寄せられていく。それにあらがっているのか、口に吸い込まれる寸前の傍流が、まるで踏ん張るようにシンメトリーの手を女神の表皮に押し当てた。

「山神はここに残りたいのよ。だだをこねる子供のように、自分を産み落とした母親に悪態をついている」

 綾は山神の薄らいでいく思念を読み取っているのだろう。やはり山神はあらがっているのだ。

 それを証明するかのように、シンメトリーの手が女神のただれた体に次々と押し当てられた。しかし、女神の吸い込む力は圧倒的であり、本流も傍流も、滞ることなくそれぞれの口の中へと吸い込まれていく。そして光の幕の面積が狭まるにつれて、本流の数が減っていった。

 上空の光の幕は中天の狭い範囲だけとなった。いびつな円のそれは、やがて消滅し、本流の最後の一筋が完全に飲み込まれる。

 とたんに、梨花のポシェットの中でスマートフォンの通知音が鳴った。雅之のズボンのポケットや周囲のあちこちでも、通知音らしき音が鳴り響く。

 女神の回転が次第に速くなった。そしてその回転は、扇風機の羽根のように高速となる。

 青空の中で、赤黒い肉団子が、高速で回転しながらしぼんでいった。上昇しているように見えたのは遠近法的錯覚であり、目を凝らせば、それは縮小しながらゆっくりと下降しているのだった。

 やがて、赤黒い肉団子は高速で回転しながら環状列石の中央に着地した。そしてさらなる縮小を続け、ついには消滅してしまう。

 二種類の悪臭は消えていた。それでも、無数の通知音は鳴り響いている。人々は呆然とし、もしくは狂気の色を浮かべており、スマートフォンを操作する余裕などないかのようだった。

 ふと、勝義がその場に倒れた。

「綾ちゃん、行ってあげて」

 雅之の胸を押さえたまま、時子は迷わずに告げた。

「はい」

 答えた綾が、環状列石のほうへと走った。

「おれは賢人くんの代わりをする」

 言って紀夫は立ち上がった。

「お願い」

 時子は紀夫を見上げて答えるが、彼女のその目に懐疑が走った。

 おそるおそる、梨花も紀夫を見る。

 紀夫は雅之を見下ろしていた。小刻みに首を横に振る彼は、涙を浮かべ、悲しみと怒りに震えていた。

 今になって気づいた。雅之の手から力が抜けているのだ。梨花の両手の上にあったはずの雅之の左手が、そこになかった。

 通知音を放つスマートフォンをポシェットに入れたまま、梨花は時子とともに見下ろした。

 雅之の左手は地面にずれ落ちていた。

「え……」

 何が起きたのか、理解できなかった。

 雅之は安らかな表情で目を閉じていた。息をしていない。

 嗚咽を漏らした紀夫が、賢人のほうへと走った。

「時子おばさん……あの……お父さんは?」

 自分の勘違いかもしれない。そうであってほしい、そうに違いない、と期待しつつ、時子に尋ねた。

 雅之の胸を押さえたまま、時子はうなだれていた。肩をふるわせて泣いている。

「雅之兄さんは……梨花ちゃんのお父さんは……梨花ちゃんのお母さんのところへ行ったのよ」

 泣きながら、時子は告げた。

「だって、山神はいなくなったんだよ。変な光は消えたんだよ。これからうちへ帰るのに、お父さんもお母さんも、わたしを置いて……そんなの変だよ、嫌だよ、やだやだ……絶対に嫌だ」

 涙が視界を覆った。雅之の顔がよく見えない。

「お父さん、なんでなんで……なんでええええええ……」

 無数の通知音が鳴り続ける中、ずれ落ちていた左手を彼の右手と合わせて、暖めるように両手で握った。冷たくなっていく手を暖めれば、また目を開けてくれる――そんな気がした。

 しかし雅之は、二度と目を開けなかった。

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