第6話 ①

 目覚めたばかりなのか、しばらく前から起きていたのか、自分自身のことながら判然としなかった。枕元に置いたアナログ腕時計は七時二十六分を指している。外は明るいようだが、この明るさが例の光によるものなのかどうかさえ、今のところはわからない。いずれにしても、この時刻が午前なのか午後なのか判断できない、ということだ。

 熟睡などできなかったが、布団から出るのもおっくうだった。夢を見た記憶はない。夢を見たとしても、どうせ悪夢だろう。

 数分前に信代と時子が身支度を整えて部屋を出たのは、気配――というより音でわかった。おのおのは自分が使った布団も片づけていった。隣の布団では綾が小さな寝息を立てている。今、この部屋にいるのは、梨花と彩だけだ。

 梨花は静かに半身を起こした。彩の姿勢は梨花とは反対向きの側臥位であり、そのうえ掛け布団を頭まですっぽりとかぶっているため、寝顔は窺えない。

 話し声が聞こえていた。廊下か大広間だろう。大人たちが深刻そうに意見を出し合っているのは、なんとなくわかる。だが話の内容までは聞き取れない。

 梨花は腕時計を左手首にはめて立ち上がり、襖を開けた。廊下の雨戸は閉じておらず、外の様子が窺える。庭は相変わらず例の揺らめく光によって照らされており、空の様子も変わっていなかった。廊下に人の姿がないことから、話し声は大広間から聞こえてくる、ということを悟った。

 廊下へ出た梨花は、彩を起こさないようにそっと襖を閉じた。廊下のサッシ窓は開いており、庭にあったはずの大麻おおぬさとその台は片づけてあった。

 大広間の廊下に面する襖は取り外されたままだ。話し声が聞こえるそちらへと、梨花は向かった。

 大広間には信代と時子、紀夫、俊康、喜久夫の五人に加え、梨花の知らない一人の初老の男がいた。六人とも深刻そうな表情で座卓を前にして座っている。座卓には人数分のお茶が用意されていた。フォーマルスーツ姿の者は一人もいない。

 大広間の外に立つ梨花に信代が顔を向けた。それを機に、ほかの五人も梨花に視線を移した。どのような話だったかはわからないが、大広間が一瞬にして沈黙した。

「あ……あの……」

 気圧され、梨花は挨拶さえできなかった。もっとも今が朝か夜かわからないのだから、挨拶の言葉の選択もままならない。

「梨花ちゃん、おはよう。あ……今は一応、朝だよ」

 声をかけてくれたのは、信代の近くに座る時子だった。予断を許さない状況にもかかわらず、彼女は梨花にほほえんでくれた。少なくとも今が朝であるのは、理解できた。見れば、三つの提灯は明かりが消えている。注意力が欠けている自分を、意識した。

「おはようございます」と廊下に立ったままの梨花が頭を下げると、時子以外の者も挨拶を返してくれた。

「梨花、そんなところに立っていないで、こっちに来なさい」

 信代にそう諭され、梨花は大広間に入った。

 そそくさと信代の隣に腰を下ろした梨花に、時子がお茶を入れてくれた。

「時子おばさん、ありがとう」と礼を述べてから、梨花はお茶を一口、啜った。

「このお話が済んだらご飯を作るからね。もうちょっと待っていて」

 時子の言葉に梨花は頷き、「ご飯作るの、わたしも手伝う」と返した。

「助かるわ」信代が言った。「葛城さんのところに集まっている人たちのぶんも作るから、頑張ろうね」

「君が梨花ちゃんか」と声をかけてきた初老の男は、がわと名乗った。葛城宅に集うメンバーの一人らしい。状況の報告のためにここへ来たのだという。葛城宅に集うメンバーの全員が山神信仰の者ということを梨花はすでに聞いていたが、佐川が言うには、そのメンバー全員が啓太の通夜祭と葬場祭に参列していたらしい。ゆえに、梨花が佐川を知らなくても、佐川は梨花の顔を覚えているのだ。

「で、話の続きなんだが、あか川はせき止められていないんだって?」

 喜久夫が佐川を促した。

「そうなんです。朱の周囲の地面や草木はみっちりとあの発光物質に覆われているのに、朱川は流れているんです。川面の上をあれに覆われているにもかかわらずですよ。でも朱川の北を流れる用水路はせき止められているみたいで、その水は田んぼを介して朱川に流れ込んでいるらしいです」

 そう答えた佐川を一顧して、梨花は信代に顔を向けた。

「どういう話をしているの?」

「光る何かが山伝いに朱を取り囲んでいるのよ。そしてその何かに近づくと、仁志くんが撮影した動画にあった山神様の手……あれとおんなじものが光る何かから伸び出して、人を襲うんだって。光る何かの広がり自体は止まっているらしいんだけど」

 答えて信代は、静かにかぶりを振った。自分でも信じられない、という趣だ。

「人を襲う……」梨花は息を吞んだ。「じゃあ、お父さんは? 昨日の夜に避難してきたおばさんたちが言っていたけど、お父さんはそれを確かめに出かけたんでしょう?」

「お父さんは無事よ」信代は言った。「仲間の人たちもみんな無事だって。でもほかの人が何人か犠牲になったらしいわ」

 父の安全を知って安堵したかったが、それを口にするのが不謹慎に思え、梨花は黙してうつむいた。犠牲者が出たという報告は無視できない。だが、気になっているもう一つの件については看過できなかった。

「じゃあ、空を覆っているあの光は?」

 続けて尋ねると、今度は喜久夫が口を開いた。

「あれもその光る何かの一部らしいんだよ。大地に広がっている光る何かから立ち上がって成形されたもののようだ」

「そうなんだ……」

 わかったようなわからないような、曖昧な感覚だった。おそらく、ここにいる者も葛城宅に集っている者も――そればかりか、その様子をじかに目にした者も、理解できないでいるに違いない。

「梨花、もういい? 佐川さんの話はまだ途中なの」

 信代に告げられ、梨花は佐川に向かって頭を下げた。

「はい。ごめんなさい」

「謝ることはないさ」佐川は言った。「おれは用が済んだら葛城さんちに戻るから、寝ている人たちが起きてきたら、君もその人たちに説明してほしいし。ここにいるみんなにはちゃんと伝える、ということになっているからね」

 そして佐川は一同を見回し、話を続ける。

「朱川が流れているのならそれを利用して外にメッセージを伝えよう、という案が出たんだよ」

「どうやって?」

 俊康が尋ねた。

「なんていうんだか……ほら、百円とか二百円の硬貨を入れてハンドルを回すと出てくるカプセルがあるだろう? おもちゃとかミニチュアが入っているやつだよ」

 じれったそうに言う佐川に梨花が「ガチャガチャです」と伝えた。カプセルトイという名称は知っていたが、俗称のほうが伝わりやすいと思った彼女なりの配慮である。

「そう、それだ」頷く佐川は、つかえが取れたような表情を浮かべた。「ガチャガチャのカプセルにここの状況を書いた紙を入れて朱川に流す、というんだ。ガチャガチャなら東郷の園芸店の店先に販売機がいくつか置いてあるしな」

 その言葉を受けて、紀夫が考え込むように首をひねる。

「水に浮くんだから、川面を覆っている発光物質に引っかかるんじゃないでしょうか」

「しかし、やってみる価値はありそうだな」

 肯定的な意見を述べたのは俊康だった。

「メッセージを外へ送るのが成功したとして」時子が口を開いた。「外からのメッセージはどうやって送ってもらうんですか?」

「朱川の上流から流してもらう、という意見が出ているんだ。西の山の奥のほうだよ。こちらから送るメッセージにその旨を書き記しておけばいいわけだ」

 佐川はそう答えた。

「無駄なことです」

 割って入った言葉は、廊下から聞こえた。綾だった。彼女は茫然自失とした相貌を大広間の中に向けて立ち尽くしている。

「無駄? どういうことなの?」

 信代に問いかけられて綾は静かに頷き、そして言う。

「なぜ川の流れを止めなかったのか、人間にはわかるまい、と山神様はおっしゃっています。山神様は人間のためではなく、災いを広めるためにそうしたまでです。結界は川などから崩壊するようですから、山神様はそれを期待されたのかもしれません。水中に洗い落とされた穢(けが)れ……禍津日神ならば、水中を移動するのがたやすいでしょう」

 大広間の大人たちが呆然と綾を見つめる中で、梨花は立ち上がった。

「綾ちゃん、どうしちゃったの?」

 しかし、綾は「あああっ」と両手で頭を抱え、その場にしゃがみ込んでしまう。

「綾ちゃん!」

 梨花は急いで廊下へ出ると綾の横で片膝を突き、彼女の両肩を支えた。

「大変……」

 言いながら信代が立ち上がると、ほかの大人たちも立ち上がった。

「わたし、何を言っているんだろう?」

 頭を抱えながら自問する綾の周りに、大人たちが集まった。

「奥の部屋に戻して、布団に寝かせましょう」

 時子が言った。

「そうね」と賛意を示した信代が梨花を見た。「梨花、綾ちゃんを布団のところに連れて行こう」

「うん」答えた梨花は、両手を添えたまま綾を立たせようとした。「立てる?」

「立てるけど、ここにいるわ」

 訴えた綾は、頭から両手を離し、立ち上がった。

「無理はしないほうがいい」

 紀夫が言った。

「でも、皆さんと一緒にいます」綾は紀夫を見た。「それに、わたし、また何かを話すかもしれないですし」

「話すって、今みたいに、山神の言葉を……かい?」

 そう尋ねた紀夫は困惑の表情を浮かべていた。

「はい……あ、いえ……自分でもよくはわからないんですが」

 曖昧な答えを返した綾は、梨花に視線を移して頷いた。介添えは無用、との意図を読み取り、梨花は綾の肩から両手を離す。

 梨花や大人たちが大広間で元の位置に座ると、綾は梨花にいざなわれてその横に落ち着いた。

「声が……山神様の声が聞こえたの?」

 問いながら、時子は綾の前に湯飲み茶碗を置き、それにお茶をついだ。

 一礼をした綾が、時子を一顧し、座卓に視線を落とした。

「言葉として聞こえたわけじゃないんです。目が覚めたら部屋に誰もいなかったので、廊下に出たんです。それで、大広間での会話を聞いているうちに、なんというか……脳に直接、意思が入り込んできた感じで……それを言葉にしてみんなに伝えなきゃ……と思ったんです。神託を自分の意思で口にしたのは間違いありませんが、わたしの中に入り込んできた意思が、神託を告げるよう、わたしに強制した……そんな感じもしました」

「そいつは、神がかりだな」

 そう告げたのは俊康だった。

「わたしもそう思います」

 綾本人が肯定した。

「神がかり……って?」

 信代が二人の顔を交互に見ながら尋ねた。同様に意味を知りたかった梨花も、俊康と綾、どちらかが答えるのを待った。

「神や霊が人に取り憑くことです」綾が信代に顔を向けた。「様々なパターンがあるようですが、今のわたしの場合は、山神様の意思を代弁するというものですね」

「神がかりになって、綾ちゃんは大丈夫なの? つらそうだったけど」

 今度は梨花が訊いた。

 綾は頷く。

「そうね。不定形の何かが……悪意が心の中に割り込んできた……そんな感じで、とても気持ち悪かったわ。ちょっとだけど、めまいや吐き気もあった」

「綾ちゃんはさっき、また何かを話すかもしれない、って言っていたけど、そんなんじゃ心配だよ」

 梨花が本音を吐露すると、綾は苦笑した。

「大丈夫……とは言えない。でも、この非常事態をどうにかできるヒントがあるかもしれないでしょう。今は、ちょっとでも可能性があるのなら、それを活かさないとね」

 それでも、綾はわずかに疲れた様子を覗かせていた。

「だったら、おれたちが綾ちゃんをサポートしよう。彼女だけに無理をさせるわけにはいかない」

 紀夫のその言葉に、信代や時子を始め、全員が頷いた。当然、梨花も、である。

「おれはもうすぐ葛城さんちに戻るけど」佐川が言った。「何か言づてがあるんなら、今のうちに言ってくれ。本当は、まだ寝ている人たちとも、話したかったんだが……」

「だったら、無理にでも起きてもらったほうがいいだろう」

 渋い表情を呈して、喜久夫が提案した。

「そうだな」と俊康が頷いた。

「でも、淳子さんはそっとしておきましょう」

 信代が意見すると、時子が「それがいいわ」と賛同した。

「仁志はどうする?」

 喜久夫が一同の反応を窺った。

「あの子もきっと落ち込んでいるわ」

 時子が言うと、俊康が面倒そうに片手で頭をかいた。

「あいつはいてもいなくてもいいだろうが、ならば、いないほうがいいということだ」

「兄貴の言っていることはよくわからんが、なら仁志は起こさないぞ」

 肩をすくめつつ、喜久夫が告げた。

「それがいいでしょう」と紀夫が頷いた。

 仁志には同情するが、梨花としてはやはり可能な限り顔を合わせたくなかった。話がそのように決まって、わずかに安堵する。

 寝ている者たちを起こす役は、信代と時子が名乗り出た。その二人が大広間から出ていくと、佐川は自分のお茶を一口飲み、そして言う。

「綾ちゃんには斎主の素質があるみたいだな」

「そんなことはないです」綾は答える。「素質があるんなら、あんな失敗はしません」

 しかし、佐川は首を横に振った。

「おれはまだ仁志の撮った動画を見ていないが、聞いた限りでは、仕方のないことだ。勝義くんが今回の斎主をしていたって、どうなったかわかりはしない。それより、神がかりがあったことを、おれは気にしているんだ」

「そうだな」俊康が言った。「神がかりという現象が起こりえる、というのは、勝義くんが話していたことがある。神がかりがあったという記録は葛城家の文献にはないが『天帝秘法写本』には記述がある……そう言っていた」

「はい」と綾は頷いた。

「以前にあった神がかりは、かなりの大昔だったわけか……」

 独りごちた紀夫が、小さなため息をついた。

 そして大広間は静まり返った。

 ゆえに梨花は、音を立てないでお茶を飲むことに、普段以上に気を配った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る