第5話 ⑥

 時刻は午後十時半を過ぎていた。

 遮光カーテンを閉めると自室は外の光が気にならない程度に暗くなった。ならば寝てしまえばよい。気づけば朝になっているだろう。

 沙織は不安から逃れようとベッドで横になったが、いつものパジャマ姿ではなく、真樹夫を迎えに行くことを想定しての普段着だった。それがいけなかったのか、なかなか寝つけない。しかもいつの間にか外が騒がしいのだ。

 沙織はベッドから起き出し、南向きの吐き出し窓へと近づき、カーテンを半分ほど開けた。ベランダの手すりの向こうのやや左側――揺らめく光に照らされた路上を見下ろすと、数人の人だかりがあった。

 新たなる情報があるかもしれない。カーテンをそのままにして沙織は部屋を出た。

「お母さん」

 階段を下りる手前で声をかけられた。

 振り向くと、満里奈が彼女の部屋のドアを開けて出てくるところだった。

「起きていたの?」

 沙織が尋ねると、満里奈はドアを開けたまま寄ってきた。

「カーテンを閉めて暗くしたけど、眠れないよ。それに、外、うるさいし」

 同じ状況なのは、親子だからというわけでもあるまい。それでも娘に同情し、沙織は苦笑する。

「外がうるさいよね。何か新しいことがわかったのかもしれない。お母さん、外に出てみるね」

 そう告げて階段を下りようとしたが、満里奈に「待って」と止められた。

「どうしたの?」

 外の人だかりが気になるあまり、つい、声が険しくなってしまった。

「わたしも一緒に行く」

 哀切な表情で訴えられ、沙織は自分の愚かさを悔い、自分が母であることを意識する。

「うん、一緒に行こう」

 沙織がそう返すと、満里奈は安堵の表情を呈した。

 二人は階段を下り、靴を履いて玄関を出た。

 曇りの日中のような空が揺らめいており、その光にさらされているという居心地の悪さを感じながら、沙織はドアを閉じた。

 門の内側から左のほうを見れば、近くの十字路に十人以上の人影があった。

 沙織と満里奈は互いに頷き合い、門から出ると、蛭田宅の前を横切って十字路へと向かった。

 人だかりは声を潜めるでもなく、ほとんどが驚愕の調子で言葉を放っていた。沙織はその中にスウェットスーツの男女一組を認めた。

「蛭田さん」

 沙織が声をかけると、夫婦が振り向いた。

「わたしが説明するから」と京子は修司に告げ、人だかりから抜け出た。

 満里奈がわずかにあとずさった。京子を避けたのではなさそうだ。よく見れば、人だかりの中に蛭田夫婦の息子たち――進と和希がおり、彼らを警戒したようである。

「なんだか信じられないことが起きているみたいなのよ」

 沙織の正面に立った京子がそう言った。しかし、すでにこんな現象が起きているのである。沙織は眉を寄せた。

「今の状況よりも信じられないこと?」

「そうよ」京子は頷いた。「うちのお隣のはやしさんがね……ほらほら、林田さんよ」

 どうやら度を失っているらしい。そんな彼女を落ち着かせるべく、沙織は応対する。

「林田さんね、わかるよ」

「そう……だよね。わかるよね。えっと、その林田さんの旦那さんが、車で県道の西のほうを見に行ったのよ。そうしたら」

 ここで京子は息継ぎをした。

 不意に満里奈が両手で沙織の右腕をつかんだ。京子の狼狽ぶりに動揺したのだろう。

 人だかりのほうを窺うと、五十前後の男が皆に何やら訴えていた。林田家の主だ。

「そうしたら、ね」京子は続けた。「山越えの途中で、県道の東側と同じようにスライムみたいなあれが……光る何かが地面に広がっていて先には進めなかったんだけど……さっきも話したあれよ」

 またしても京子は息継ぎをした。

「お母さん、スライムみたいな光る何かって、空を覆っているあれのこと?」

 沙織の右腕にへばりつく満里奈がそう尋ねた。先の会話に加わっていなかった彼女には、京子の言葉が理解できないのだろう。

「どうだろう。そうかもしれないし、まだわからない」

「うん、それ自体はまだ正体がわからないのよ」京子は沙織の言葉に追従した。「でね、県道の西側に行ったら、あかの住人っぽい人が二人、やっぱり見に来ていたそうなの。スライムの広がる動きはもう止まっているみたいなんだけど、そのスライムの表面から……ほら、昭雄くんと弘幸くんが見たっていう触手が現れたんだってよ。先っぽに手がついているやつ」

「触手?」

 声を裏返したのは満里奈だった。

「また誰かが襲われたの?」

 沙織の問いに京子は首を横に振った。

「居合わせた三人ともそこから逃げ出したんだって」

 国道の東側で怪異を目撃したという若者たちは、うそをついていたのではなかったようだ。ならば、この朱地区は化け物によって取り囲まれていることになる。

「ねえお母さん」満里奈が沙織の右腕を揺さぶった。「触手……って、長くてくねくねしているやつ?」

「そう……ね」

 肯定する以外に手立てはなかった。だがその触手がどういった存在なのか、説明できないというもどかしさがある。糊塗してしのぐほかになさそうだ。

「スライムから触手が出てくるなんて、怪獣とかお化けみたい」

 沙織の右腕をつかむ両手を震わせながら、満里奈は言った。

「違うよ」

 少年の声がした。見れば京子の後ろから進と和希が歩いてくる。言ったのは進のほうだ。

「進くん……」

 満里奈が声を漏らした。沙織の右腕をつかむ手はもう震えていないが、つかむ力は強くなっている。

「何が違うっていうんだい?」

 自分の隣に並んだ進を京子が面倒そうに睨んだ。

「光るスライムも大きな触手も、山神に決まっているさ」

 進がそう言いきると、その横の和希が頷いた。

「兄ちゃんの言うとおりだよ。あれは山神だよ」

「山神ってねえ……それは朱に古くから伝わる信仰なの。実際にいるわけじゃないのよ」

 そうこぼした京子に、進はしかめっ面を向けた。

「変な宗教らしいんだよ。木村さんちではその信仰をしているんだけど、話を聞いていると、どうも胡散臭いし」

「胡散臭いだなんて、偉そうなことを口にしてんじゃないよ」

 そう言って、京子は疲れたようにうなだれた。

「だってさ、今日は山神の儀式があったんだよ。何百年だか何千年だか続いた儀式の、しかも最後のやつ。だから特別な儀式なんだよ。それがあった日にこれだよ。偶然とは思えないじゃん」

 進はムキになっていた。和希はそんな兄の勢いに押されたのか、口をつぐんでいる。

「そんな話を、どうして進が知っているのさ」

 息子をなだめようとしているらしく、京子の口調はいくらか穏やかになっていた。

「木村さんだよ。得意げに話していた」

「野辺送りだ」

 進の話を補足するように満里奈がささやいた。

「そうそう、満里奈ちゃんも聞いていたよな」

 満里奈の声は進に届いてしまったらしい。

「でも山神の儀式なんていうのは、波瑠ちゃんは言っていなかったよ」

 沙織の右腕を離して、満里奈は訴えた。

「高田くんが木村さんを責めていたじゃん。余計なことを言うなって。そのあとで、山神の儀式は信仰していない人には関係ないんだ……って、高田くんが木村さんに小声で付け加えていたんだ」

 そう反論した進は、気が済んだらしく、口を閉ざした。

「あんたねえ」京子が進を見ながら言う。「人のひそひそ話に聞き耳を立てるなんて、男らしくないよ」

 母のそんな小言が気に入らなかったのだろう。進はそっと顔を逸らした。

 そうしているうちにも、人だかりが散り始めた。林田の話が尽きたようだ。

 修司が京子と息子たちとの間に立った。

「進、和希、いつまで起きているんだ。さっさと家に入って寝ろよ」

 そうたしなめた修司を、和希が見上げる。

「ねえお父さん、スライムとか触手って、山神なんだよ」

「なんだそりゃ?」

 修司は眉を寄せた。

「山の神様だよ」

 などと訴えた和希を、進が睨んだ。

「余計なことを言ってんじゃねーよ」

「ほら」京子が修司に顔を向けた。「朱の古い風習に山神信仰っていうのがある……って、前に話したじゃない」

「そうだったっけ?」

 ますます得心のいかない様子で、修司は首を傾げた。

「呆れた。覚えたいないの? 朱の独特の信仰で、山の神様を祀っているの。今日もね、朱のどこか……その信仰の家で、お悔やみがあったのよ」

 京子が言い終わった瞬間、不意に修司は目を見開いた。

「あっ」

「思い出した?」

「違うんだ。えっと……」そして修司は京子に背中を向けた。「林田さん!」

 蛭田宅の隣家に向かっていた男――林田が振り向いた。

「呼んだかい?」

 林田が問うた。

「呼びました」と答えつつ、修司は手招きをした。

 そそくさと歩いてきた林田に、沙織や京子ら五人も目を向ける。

「林田さんのさっきの話で、ミニバンで様子を見に来ていた二人組が、山の神がどうのこうのと言っていた、ってありましたよね?」

 修司の問いを受けて、林田は「うんうん」と頷いた。

「あの触手を見ながら、山神様が怒っている、とか口にしていたな」

「それだ」修司の顔に活気が宿った。「この不可解な現象は、山神によるものだ」

 しかし京子は、懐疑の色を浮かべる。

「ちょっと待ってよ。いくらなんだって、それじゃうちの子らの世迷い言と同じじゃない。山神信仰という宗教がある、っていうだけのことなんだから」

「じゃあさ」修司は言った。「この変な光はどうなんだよ。光るスライムとか、光る巨大な触手とか、そういうの自体が異常なんだ。古くから朱に住んでいる人たちが、それらを山神と呼んでいるに違いないさ」

「朱の一部の人たちはこの異常現象を以前から知っていた。そういうことかな?」

 林田が修司の意見を確認した。

 神といっても、朱地区で崇拝されている山神は日本神話に登場するような人の姿ではない、という可能性がある。荒ぶる自然そのものを祀っているのではないだろか。ありうるかもしれない、と沙織は思った。

 林田に「はい」と頷いた修司が、「なあ」と京子を見た。

「何よ」

 不意に振られて、京子は困惑の表情をありありとさせた。

「今日はその山神信仰の葬式があったんだろう?」

 修司は問うた。

「そうよ。山神の儀式……って言っていた」そして京子は満里奈に視線を移した。「そうだよね、満里奈ちゃん」

 進の態度に立腹したのか否か定かでないが、京子は満里奈に尋ねたのだ。自分の娘を巻き込まれて、沙織のほうがいら立ちを覚えてしまう。

「はい、そうです」

 答えた、というより、答えざるをえなかったのだろう。気持ちが萎えたのか、満里奈は再び沙織の右腕にしがみついた。

「それのせいでこんな事態に陥ったのかもしれない」

 修司は言った。

「つまり、山神信仰の人たちがわざとこんな現象を起こさせた、っていうこと?」

 京子のその問いに、修司は考え込むように片眉を上げた。

「そうかもしれないし、もしくは、失敗したせいで、こうなった」

「失敗?」

 思わず、沙織は声を漏らした。

「そう、失敗」修司は沙織を見た。「だって、県道の西側を見に来た人らは、触手を見て、山神様が怒っている、って言ったそうなんだから。おそらくこの現象は、彼らにとって想定外の事態なんだよ。もしかすると、成功していたなら、その山神はもっと恐ろしいことをしでかしていたかもしれない」

 飛躍しすぎている――と感じたが、沙織はそれを口にできなかった。

「普通だったら信じられないが」林田が言った。「ありえないような変なものばかり見せられたんじゃ、修司くんの憶測は外れていないように思える」

 そうなのだろうか。憶測は憶測でしかない――沙織にはそう思えた。仮に修司の意見が正しかったとしても、この場で結論づけるのは危険なはずだ。

「東郷に住んでいる知り合いなんだけど、朱の旧家のやつがいる」林田は続けた。「そいつの家は普通の仏教だが、何かわかるかもしれない。電話はだめだから、今から車で行ってみるよ」

「もう遅いですし、明日にしたほうがいいと思いますよ」

 時間稼ぎになるだけだが、沙織は進言した。

「まあ確かに遅いが、状況が状況だし、背に腹は代えられんだろう」言って林田は、修司に顔を向けた。「じゃあ、ちょっと行ってくる」

「おれも行きましょうか?」

 修司が尋ねると林田は「助かるよ」と返した。

「また行くの?」

 心配するというより呆れた様子で京子は肩をすくめた。

「ああ」修司は頷いた。「京子、あとを頼むな」

 そして修司は、林田とともに林田宅の門の中へと入っていった。

「物好きよね」

 物好きで済むのなら問題はないが、悪い方向へと向かっているような気がして、沙織は京子の一言に同調できなかった。

「でもさ」京子は続けた。「林田さんも言っていたけど、うちの人の憶測は結構いい線行っているよね。土地の古い信仰がかかわっていたなんて、まるでホラー小説の常套的手法だよ」

「ええ、まあ……」

 強く反論することもできず、沙織は曖昧に返した。

「じゃあ、ほかの人も家に入っちゃったみたいだし、わたしたちもとりあえず、自分ちに戻ろうか」

 京子のその言葉を受けて周囲を見れば、自分たち五人以外には姿がなかった。

「そうね」

 同意した沙織の横で、彼女の右腕にしがみついたままの満里奈が、京子に向かって「おやすみなさい」と告げた。

「おやすみなさい、満里奈ちゃん」

 挨拶を返した京子の横では、気恥ずかしそうな二人の少年が、「おやすみなさい」と小声で告げた。

 京子と二人の少年が蛭田宅の玄関に入り、その場に沙織と満里奈が残された。

「お母さん、うちに入らないの?」

 そう尋ねた満里奈は、まだ沙織の右腕にしがみついている。

「うん、入るけど」

 沙織は言葉を濁した。意図せず、その目が東の方角に向いていた。光のうねりのその向こうに、思いをはせる。

「お父さんを待っているの?」

 涙声だった。またしても己の愚かさに気づき、沙織は満里奈の顔を覗いた。満里奈は両目に涙を浮かべていた。

「ごめんね満里奈。大丈夫だよ、お父さんは必ず帰ってくるから。だから、もううちへ入ろう」

 夫を待つのが妻としての務めなら、娘を守るのも妻の――否、母の務めだ。むしろ今は、この子を守ることを優先すべきだろう。真樹夫もそれを希望するに違いない。

「うん」と頷いた満里奈とともに、沙織は我が家に向かって歩き始めた。

 沙織の右腕をつかむ満里奈の両手がわずかに震えている。

「大丈夫……きっと元どおりになるから」

 根拠はないが、信じなければ崩れてしまうだろう。

 満里奈を守るためにも、沙織は信じるしかなかった。

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