第3話 ①

 仁志を先頭にして、梨花、賢人という順で藪の中の小道を歩いた。前方には雑木林が見えるが、それ以外はススキなど背の高い草か、灌木ばかりである。

 晩秋と言ってよい時期であり、空気がすっかり冷えていた。もっと着込むべきだった、と梨花は悔いてしまう。

 SUVを停めた場所から三十秒ほど進んだ辺りで仁志が足を止めた。

「懐中電灯は下に向けておけ」

 自分の懐中電灯を下に向けつつ仁志が横顔で言った。賢人に告げたらしい。

「ああ」と答えた賢人が、指示されたとおりにした。

「何?」

 向かって左の藪を覗く仁志に梨花は小声で問うた。

「立会人は霊柩車の運転席にいるけど、懐中電灯の光を振り回したら、気づかれるぞ」

 仁志の言葉を受けて、梨花も藪の切れ目からそっと覗いた。仁志のSUVを停めた空き地よりも広い空間が、そこにあった。その奥に二台の車が見える。一台は雅之のミニバンであり、もう一台の黒っぽい車は、装飾こそ施されていないが明らかに霊柩車だ。どちらの車も灯火類が落とされ、エンジンも停止状態だ。

「鈴の音が聞こえないから、野辺送りはまだ近くに来ていないということだよ」

 梨花に並んで藪の向こうを覗きながら、賢人が言った。

「つまり」仁志が梨花と賢人を見た。「先回りできるっていうことさ」

 そして仁志は歩き出し、梨花と賢人もそれに倣った。

 道はすぐに急な上りとなり、周囲は木立に囲まれた。月明かりは遮られ、懐中電灯の光のみが頼りとなる。昼なお暗い林であることが察せられた。

 坂を十秒ほど上ると勾配がなくなり、道は右へと折れた。道は馬の背に沿っていた。懐中電灯の二つの明かりによって道から逸れずに済むが、特に左の斜面は傾斜が急であり、足を踏み外せばおよそ五メートルを転げ落ちることになる。わずかに届く明かりで確認すれば、その傾斜の下にはこちらの道よりも太い道が、こちらと並行していた。

 梨花が方角を失っていなければ、三人はあか地区の北外れの雑木林を北東に向かって歩いているはずだ。いずれにしても、里から離れていくには違いない。

「おれの同期にさわぐちっていう男がいてさ、三年前にそいつが、自分のおやじの葬式で山神の儀式に出たんだ」

 振り向きもせずに、仁志が言った。

 梨花も賢人も黙したまま歩く。

「その沢口が」仁志は続けた。「埋葬のあとでおれに電話をくれた。そして、うろたえた声でこう告げたんだ。からっぽの棺桶を燃やすなんて火葬とは言えないよな、ってな」

「からっぽ?」と梨花の背後で賢人が懐疑の声を漏らした。

「意味、わかんねーだろう? おれもわかんなくてな、聞き返したんだけど、とたんに電話を切られちゃってさ、それっきり」

 仁志のその言葉に反応したのか、賢人が「あ……」と声を漏らした。

「賢人くん?」

 梨花は歩きながら首を巡らせるが、この暗さでは賢人の表情を確認することはできない。

「やっぱり賢人も知っていたか。自分のおやじから聞いたのか?」

 さも愉快そうに、仁志は肩を揺らした。

「中学のとき、クラスで噂になったんだ。沢口さんとこの長男が山神の儀式に出てからおかしくなっちゃった、て。だから父さんに訊いたんだけど……沢口さんとこの長男は県外の仕事に就くことになって朱を出たんだ、って返された」

 そう答えて、賢人は沈黙した。

「だよな。そういうことになっているもんな」

 吐き捨てるような口調だが、嘲笑も含まれている感じだった。何に対する嘲笑なのか気になったが、先の仁志の一言が気になり、梨花は問う。

「ねえ仁志くん。それっきり、って言ったけど、それ以降は一切の連絡が取れない、ということなの?」

「そういうことだな。沢口のスマホにメッセージを送っても、返事がなければ既読にもならないし、そのスマホに電話をかけても繫がらない。どうしちまったのか、何日かしてから沢口の家に行ってやつのおふくろさんに訊いたんだけど、県外に働きに出た……答えはそれだけだ。それから何日かして、金盛の駅前で沢口の妹と偶然に行き会ってな、迷わずにおふくろさんのときと同じ質問をしたんだけど、やっぱり同じ答えしか返ってこなかった。とにかくどっちからも、新しい住所とか、連絡手段とか、何も教えてもらえなかったというか、うまくはぐらかされて、結局、沢口がどこにいるのか、今になってもわからないままなのさ」

「それっておかしいよ。何かを隠しているとしか思えない。仁志くんの友達……その沢口さんという人は、本当に県外で仕事をしているの?」

 答えを期待したわけではない。それでも今の梨花には尋ねることしかできないのだ。

「山神信仰を部外者に知られなよう、信仰の実態を知る者は極少数に限られる」賢人が言った。「そして部外者に知られないよう、隠蔽も必要なんだ。そんな信仰の儀式の斎主をさ、父さんにしろ姉さんにしろ、よく引き受けられると思うよ」

 吐き捨てるような言いぐさだった。

「賢人の言った噂というのが事実なんじゃないかな。何か恐ろしいものを見て、沢口は精神が崩壊しちまったんだよ。その何かが、隠蔽されている実態に違いない」

 仁志らしいどこか得意げな言いようだった。

「なら、隠蔽されている実態って、どんなんだろう?」

 梨花が疑問を呈すると、仁志が「もしかすると」と繫いだ。

「山神っていうのは、信者によってこっそり飼育されている動物かもしれないな」

「動物?」と問い返したのは賢人だ。

「そう、動物だ。たとえば、熊とかさ」

「まさか」賢人は失笑した。「この辺に熊が出た、っていう話は聞いたことがないよ。猪ならたまに出るみたいだけど。猟友会が活躍するくらいだし」

「猪は人を食わないぞ」

「人を食う、ってどういうことだよ?」

 賢人のその問いは、梨花の抱いた疑問でもあった。

「棺の中身を食わせる、ということだ」

 簡潔な答えだった。

 梨花は息を吞んだ。賢人も言葉を失ったらしい。

 当然だが、梨花は山神が実在するとは想定しておらず、ゆえに山神の具体的な姿など想像もしていなかった。なんとか思い描いたのは、子供向けの日本神話の挿し絵にあったあまてらす大神おおみかみのおのみことらの姿である。だが仁志の提示した図像は、人を食う獣だ。

「崇める対象が何か必要だとしたら、ありそうな話だ」

 仁志は言うが、飛躍しすぎる説にも思え、梨花は意見する。

「崇める対象が必要なの?」

「ご神体というやつだ」仁志は答えた。「考えても見ろよ。原始時代の人間が崇拝していた神って、自然そのものだった。その頃の人間には到底太刀打ちできない禍神なんだよ。せめて災いが自分たちに降りかからないよう、昔の人間たちは祈ったんだ。朱の山神信仰も、なんだかそんな感じがするんだよ。そして火葬される棺がからっぽだとすれば、荒ぶる神がその中身を食った、という考えもできるさ。でも神なんていやしない。ならそれは、人間にとって脅威となるもの、自然界のもの……獰猛な肉食獣、っていうのが思い浮かぶわけだ。まあ、ここは本州だから熊だとすればツキノワグマが真っ先に挙げられるけど、何らかの手段で手に入れたヒグマとかなら、さらに禍神っぽいよな。熊じゃなくてもいい……非合法な手段で手に入れるんだったら、トラとかライオンでもいいだろう。強烈なインパクトを持ったご神体なら、信仰心を高められるかもしれない」

 確かに朱の山神にはまがまがしさを抱いてしまう。しかし獰猛な獣をこの朱で飼育するなど、話が突飛すぎるのだ。梨花はその疑問を仁志の背中に投げてみる。

「ライオンやヒグマみたいな獣だとして、どうやってそれを飼うの?」

「この林って滅多に人が立ち入らないだろう」仁志は言った。「せいぜい、近所の悪ガキどもが山神の斎場を覗きに来るくらいだし。だから、もっと奥の人目につかない場所で、檻に入れて飼育する……とかさ」

 悪ガキならば仁志も該当しそうだが、梨花はあえて口にしなかった。

「それこそ無理だよ」と賢人が否定した。

「なんでだよ?」

「山神信仰の葬式……山神の儀式って、年に何回もあるわけではないし、何年もない場合だってあるんだ。儀式のない間の餌はどうする? 誰が面倒を見るの?」

 賢人が問うと、不意に仁志が足を止めた。道を塞がれる形となった後続の二人も、必然的に立ち止まる。

「普段の餌なんて」言いながら、仁志が振り向いた。「山神信仰にくみするやつらから資金を集めればどうにかできるさ。それに、信仰を引っ張っている人間が、生けるご神体の面倒を見られるじゃないか」

「父さんのことか?」

 憤りを隠せない声だった。

「賢人のおやじさんは山神信仰の専門だ。時間だって取れる。この林に一番近い家、って言ったら、賢人、おまえんちだしな」

「いい加減にしろよ」賢人は仁志を睨んだ。「おれだって山神信仰には疑問を抱いているし嫌ってさえいる。そしてわからないことばかりだ。それでも、熊みたいな獣の類いを飼っていないことくらいはわかる。憶測だけで決めつけるな」

 しかし対する仁志は、眼鏡の奥の双眼で賢人を睨み返す。

「決めつけているわけじゃねーよ。あくまでも推測だ。……じゃあ、沢口が電話でおれに話してくれた内容を、おまえはどうとらえるんだ?」

「まずはその内容自体を疑うね」

「沢口がうそをついているとでも?」

「そうは言っちゃいない。もっといろんな可能性がある、ということだよ」

「可能性……言ってみろよ」

「急に振られたって、思いつくわけないじゃん」

「ふん」仁志は嘲笑を浮かべた。「そんなことだろうと思った」

「とにかく、うちの父さんは獰猛な獣なんて飼っていない」

「それだって、決めつけているうちに入るよな」

「やめてよ二人とも!」

 梨花は思わず声を上げた。さすがに賢人も仁志も口を閉ざしてしまう。だが梨花は、声が大きかったことを自省し、肩をすぼめつつ小声で続ける。

「言い争うよりも先を急ごうよ。早くしないと野辺送りが来ちゃうよ」

「梨花ちゃんの言うとおりだ」

 疲れたように、賢人が言った。

 不服の表情を呈したまま、仁志が背中を向けて歩き出す。

 梨花と賢人は先ほどと同じようにそのあとに続いた。


 信代らが引き返してすぐに霊柩車の運転席にこもった岸本は、スマートフォンでインターネットのニュースを見ながら時間を潰していた。それは気晴らしのためでもあった。可能ならば動画サイトにアクセスして陽気な音楽でも聴いていたいのだが、それがために野辺送りの鈴の音を聞きそびれたのでは仕事に差し支える。葬列がこの広場に入る前までに、出迎えの態勢を整えておかなければならない。鈴の音は待機状態に入るための合図でもあるのだ。

 とはいえ、車外で待機しておく、という気にもなれなかった。自分は幽霊も妖怪も信じない人間である、と認めているが、異形なるものへの畏怖は心の片隅にあるのかもしれない。妖怪はさて置いても、幽霊を信じる日本人の割合は過半数に達するという。岸本はそれをテレビのワイドショーで見かけたことがあり、ロマンチストの多さを意外に感じたものだった。多くの人が今のこの境遇に同情するかもしれない、と考えられるが、その一方で、頼んでも誰も代わってはくれない、という切ない光景も予想できた。

 遠くで鈴の音が鳴った。運転席のサイドガラスをわずかに開けているため、車外の音を聞き逃すことはない。

 インターネットブラウザを切った岸本は、スマートフォンを手にしたまま車外に出ると、すぐにドアをロックした。懐中電灯はダッシュボードにあるが、三つの提灯で間に合うため必要ない、とのことだった。信代から預かったスマートキーがズボンのポケットにあるのを確認し、南側に目を凝らす。

 月明かりはあるが、遠くの風景を見通せるほどではない。それでも、人工的な小さな明かりが揺れ動いているのを確認できた。

 森野に「野辺送りと合流します。埋葬が済んだら、また連絡します」とメッセージを送り、スマートフォンの電源を切った。葬祭を終えてここに戻るまでは、スマートフォンを使えない。そのためか、特に問題がなければ森野からの返事は来ないとのことだった。

 スマートフォンをスーツの内ポケットに入れ、霊柩車の脇で葬列を待つ。

 淡々とした調子で鳴り続く鈴の音が、徐々に大きくなってきた。三つの提灯の明かりに葬列の輪郭が浮かぶ。その先頭を歩むのは、鈴のついた杖を右手に、提灯を左手に持つ綾だ。闇に溶け込むようなフォーマルスーツの六人を背にしているからこそ、彼女の白衣はくえは一段と目立った。

 綾の哀れむような目が脳裏に蘇り、岸本は軽くかぶりを振った。

 先頭の綾に続くのは、右手に白い布で包んだ細長いもの、左手に提灯を持つ和彦だ。棺を担ぐ四人がそのあとに続き、最後尾は提灯を片手に持つ喜久夫が担う。

 葬列が山神の広場に差しかかった。岸本は両手を前で揃え、無言でそれを迎えた。

 先頭の綾が一瞥もくれずに岸本の前を通り過ぎた。そして棺が通過した直後に最後尾の喜久夫が立ち止まる。喜久夫に一礼した岸本は、棺と喜久夫との間に入り、葬列の一員となって歩き出した。

 飢えを感じた。昼食はおろか夕食さえ取ったのである。尋常ではない生理現象だ。自分の飢えではない。自分以外の誰かが感じているような気がした。

 薄ら寒さを抑え、岸本は葬列の歩みに従った。気にすることはない。これは自分の飢えではなく「とあるもの」の飢えなのだ。飢えを覚えた本人である「とあるもの」は、それをなそうとしている。そのために自分は、そこに行かなくてはならない――。

 我に返った岸本は葬列の中で目をしばたたかせた。極度に高まった緊張による夢うつつなのだろうか。 

 八人となった葬列が鈴の音とともに雑木林の闇へと吸い込まれた。

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