第2話 ⑥
信代と時子が芹沢本家宅に戻ると、居残り組が大広間でお茶を飲んでいた。野辺送りの見送りが済んだおかげか、誰もが緊張から解放されたような表情だ。居残り組の仕事はもうない。とはいえ、山神の儀式は進行中なのだ。お茶の席が静まり返っているのは当然である。
大広間に梨花の姿が見えず、信代は「梨花は?」と面々に問うた。
「二十分くらい前だったか、電話をすると言って表へ出たわよ」
答えた淳子は、ほかの者と同様、フォーマルスーツのままお茶を飲んでいた。
「戻ってきた様子もないし、まだ電話しているんじゃないかな」
湯飲み茶碗を片手に花江が言った。
「二十分も電話……庭にいるのかしら」
信代はつぶやきつつガラス越しの庭に目をやった。しかし、外は暗いばかりか大広間の照明がガラスに反射しており、様子が窺えない。
「そういや、門の外に出ていったよ」思い出したように声を上げたのは俊康だった。「庭でスマホを使うつもりだったみたいなんだけど、おれがそこで一服していたから気を使ったんだろう」
そんな吞気な言いようが癪に障った。十六歳の少女が人目の少ない夜の田舎で外出しているのだ。とはいえ、ことを荒立てるわけにもいかない。
「仁志ちゃんも出かけたみたいだな。車の音がしたぞ」
吉田がそう言うと、金成も口を開いた。
「さっき、おれが一服していたときだけど、ガレージから車が出ていくのを見たよ。でも、梨花ちゃんが乗っていたかどうかはわからないな」
梨花が仁志と出かけるなどありえない――と言いきれず、なおのこと、信代は足が地に着かない気分になった。
「わたしたちの部屋を見てみましょう」
信代の心境を悟ったらしく、隣に立つ時子が促した。
「そうね」と頷いた信代は、時子とともに自分たちの部屋へと赴いた。そして「梨花、開けるよ」と声をかけて襖を開けるが、照明の落とされた部屋に娘の姿はなかった。
「ちょっと待っていて。トイレを見てくる」
そう告げた時子が自分のハンドバッグを部屋の隅に置き、廊下の奥へと急いだ。その彼女は、三十秒と経たずに戻ってくるなり、「いなかった」と首を横に振った。
時子の報告を受けた信代は、肩にかけたショルダーバッグからスマートフォンを取り出した。
「電話をかけてみる」と返したものの、梨花のスマートフォンに割込通話オプションはない。通話中で出られない、という可能性もあるが、ならば留守番電話にメッセージを残すまでだ。着信履歴も残るだろうから、いずれにしても、無視され続けるという事態にはならないだろう。
――何ごともなければ、だけど。
仁志の行動も気になるが、山神の広場からの帰路で感じたあの気配が梨花に迫っているような気がしてしまう。
そんな不安を払拭するべく、信代は頭を横に振った。
「信代さん、落ち着いて」
青ざめた表情で、時子が覗き込んでいた。
「うん、大丈夫」
信代は無理にでも笑顔を作り、スマートフォンを操作した。
東西に延びる通りから、北を並走する道へと移った。西へと走るSUVの右に雑木林、左に藪が続いている。民家は確認できない。月明かりのおかげか、日中のようにはいかないが、田舎の風景はどうにか把握できた。
車内の空気はまたしても固まっていた。仁志はどうあれ、梨花が話すことはもう何もない。とにかく、賢人がどうしているかが気になって落ち着かないのだ。間を持たせる気分など失せていた。
そんな静寂を打ち砕くかのごとく、梨花のスマートフォンの着信がなった。ポシェットから取り出したスマートフォンを確認すると、信代からだった。
「信代おばさんだろう?」
スマートフォンを覗かれたのかと思い、梨花は「見ないでよ」と画面を片手で覆った。
「見てねーよ」進行方向を見たまま、仁志は笑った。「うちに戻ってみたら、おまえの姿がなくて心配になった。状況からして、大方そんなことだろうよ」
そんな言い草がいまいましかったが、仁志の言葉は正しく思えた。そして、この当然な成り行きを予測できなかった自分が、たまらなく情けなかった。
「どうしよう」
悔しいが、鳴り続ける着信音が耳を背けたいほど威圧的であり、またしても仁志に救いを求めてしまった。
「出たほうがいいぜ。どうせ、電話をするために外に出たんだろう? それを伝えりゃいいんだ」
おそらく仁志は、梨花が外出するときの様子を窺っていたのだ。それに対する憤りはあるが、今は仁志の意見に従うのが得策だ。
「わかった。適当にごまかしておく」
言って梨花は、スマートフォンを通話モードにした。
「梨花、どこにいるの?」
案の定、信代の声にはいら立ちがあった。
とりあえず、「すぐ外だよ」と無難な答えを返した。
「近くにいるの? というより、電話をしているんでしょう?」
だが繫がってしまったのだから、即興で取り繕わなければならない。ふと、部活で忙しかったことを思い出し、瞬時にして物語をでっち上げる。
「部活のみんなに電話しまくっているところなの。絵画の道具を誰かに貸したんだけど、忙しかったから誰に貸したのかわかんなくなっちゃって……それで、うやむやにならないうちに確認しておこうと思って」
我ながらたいした創作力だと感心した。絵画よりも物語を作るほうが合っているかも知れない。
「何よそれ」その一言のあとにため息があった。「で、道具は誰のところに行っているのか、判明したの?」
判明したのでは、でっち上げの意味がない。梨花は物語を続ける。
「まだだよ。だから、これからまた電話するの」
「そんな電話なら、布団の敷いてある部屋でもできるじゃない」
「やだよ。話はそればかりじゃないんだもん」
「だったら、早く済ませちゃいなさい」
「わかった。じゃあ、急ぐから」
梨花は通話を切り、肩の力を抜いて息を吐いた。
「すげーな。おれなんか足元にも及ばない不良娘、ってな感じだ」
などとにやつく仁志を、梨花は横目で睨んだ。
「何よ。うまくごまかせたんだから、いいじゃない」
そんな抗議を受けても、仁志の表情は変わらなかった。
やがて道は未舗装となり、必然的に車速も落ちるが、目的地には確実に近づいていた。
夕食が済み、昌子は台所で食器を洗っていた。裕次は風呂に入ったばかりである。
洗い終わった食器を布巾で拭いていると、遠くで鈴の音がなった。いくつかの小さな鈴が一秒に一度という調子で同時に音を立てている。
気づけば、皿と布巾を持ったまま手を休め、耳を澄ましていた。野辺送りの鈴であると悟り、昌子は胃の辺りに重さを感じてしまう。
入浴中の裕次もこれを耳にしているはずだ。自分の夫はどう感じているのか。はたして軽く考えているのか、それとも重く受け止めているのか――常に近くにいる裕次が、なぜか今は遠くにいる気がしてならない。
間もなくこの
裕次が風呂から上がっても、野辺送りの話題は出さないようにしよう。
昌子は再び皿を拭き始めた。
鈴の音はなかなか去らなかった。
月光が朱の大地を青く照らしていた。満月ほどの照度はないが、日中とは様相の異なる世界を浮かばせている。そよ風さえなく、遠くに鈴の音が聞こえる静寂な夜であるものの、山々は気勢をみなぎらせていた。朱の大地を統べる存在が目覚めたのだ。勝義にはそれがわかった。もう儀式を止めることはできない。斎主を変えることも不可能だ。
しかし勝義は、白衣をまとい、自宅から五百メートルほど離れた野原の一角に立っていた。今回の儀式において万が一の事態が起きれば修復は困難だ。これまでのどの儀式でも緊張は禁じえなかったが、昇天の儀である今回なら、なおのことである。しかし多少なりとも救済のめどは得られるかもしれず、備えとしてこうして待機しているのだ。
ここでは山神の広場の様子を窺うことができた。勝義がここに立ったときには、すでに山神の広場に芹沢本家の車が用意されていた。立会人の岸本が、その横の霊柩車で待機しているはずだ。山神の広場を見る限り、今のところ、変わった様子はない。
目下の不安は賢人だった。息子が何をしでかすのか、それが問題なのだ。家を飛び出した賢人を追いかけたが、見失ってしまった。そして野辺送りが通る予定の道をたどると、彼の自転車が放置してあるのを見つけた。と同時に提灯の明かりと鈴の音が迫っていることに気づき、そのまま引き返した。パンクしただけでなくハンドルの曲がった自転車は、押して移動させるのも厄介であるため、捨てておくしかなかったのだ。
いずれにしても、こうして遠くから提灯の明かりと鈴の音を確認し続けているが、今のところ、賢人が野辺送りの行く手を阻んだ様子はなかった。
無論、自転車の放置してあった場所から小走りに離れつつ、賢人のスマートフォンに電話をかけた。しかし呼び出しが鳴るばかりで、相手は一向に出なかった。再度、ここでも電話したが、結果は同じだった。
青く弱い光が、鬼胎を増長させた。
昇天の儀が無事に済むことを願いながら、勝義はその場に立ち続けた。
仁志のSUVは小さな空き地に入り、その片隅でエンジンを切った。すべての灯火類が落とされたが、車外の状況は月明かりによってどうにか把握できる。周囲は背の高い雑草に覆われ、正面の奥には闇を孕んだ雑木林が沈黙を守っていた。
仁志が無言のまま車を降りた。遅れまじと梨花も助手席から降りる。
ドアをロックした仁志が、ワイドパンツのポケットから小型懐中電灯を取り出し、すぐに点灯させた。そして、その明かりを周囲に走らせる。
「ここだ、ってちゃんと賢人に伝えたんだろう?」
そう問われた梨花が、伝えた旨を口にしかけたとき、雑草をかき分けて賢人が姿を現した。
「ここにいるよ」
代わりに答えた賢人が、梨花を一顧して仁志の前に立った。
「口先だけじゃなかったんだな」
仁志があざけりの表情を呈すると、賢人は眉を寄せた。
「梨花ちゃんに何もしていないよな?」
「わたしは大丈夫だよ」
梨花は二人の男の間を取り持った。どうあっても、ここでの悶着は押し止めなければならない。
そんな梨花の思惑を知ってか知らずか、仁志がしらけた様子で賢人を睨んだ。
「するわけねーだろう。……ところで、懐中電灯とか、照明の類いは用意していないのかよ?」
「あ……うん。スマホがあるから、それでなんとかする」
言いながらポケットに手を入れた賢人に向かって、仁志は首を横に振った。そして「しょうがねーな、これを使え」と不平を鳴らしたうえで、手にしていた懐中電灯を、点灯させたまま賢人に押しつけた。
「でも」と困惑しつつ賢人がそれを受け取ると、仁志はワイドパンツのポケットからもう一つの小型懐中電灯を取り出した。
「スマホはミュートにしておけ。こんなところで着信音が鳴り響いたら面倒だ。通知音やバイブもだめだぞ。スマホを使うのは現場で証拠の動画を撮るときだけだ。動画も写真も撮る気がないんなら、電源を切っておけ」
言いながら仁志は、自分の手にある懐中電灯を点灯させた。
この静寂では、ちょっとした音でも際立つはずだ。仁志の意見を正論であると理解した梨花はポシェットからスマートフォンを取り出すが、ミュートにはせず、本体の電源を切った。信代から再度の電話が来る可能性があるため、電源オフの状態でも留守電になるよう、オプション機能を利用したのだ。これならば、信代からの電話があっても「電話中だった」と偽ることができるだろう。証拠の動画は仁志に任せればよい。仁志の顔色を窺えば、案の定、無言ではあるが苦笑を浮かべていた。梨花の対応が面白くなかったらしい。
そんな反応に閉口するものの、ふと、車中での話を想起し、梨花はスマートフォンをポシェットに入れながら仁志に尋ねる。
「証拠って、山神様の正体のこと?」
しかし、仁志が答えるより先に賢人が「正体?」と声を漏らした。その懐疑の目は仁志に向けられていた。
仁志が賢人を睨み返す。
「そうだよ。賢人だってそれが気になっていたんだろう? だから野辺送りを止めようとした」
「おれが野辺送りを止めようとしたのは、そんな理由があったからじゃないよ。何かわからないけど、儀式で人道にもとることをするかもしれない、と感じたからだ」
賢人の言を受けて、仁志は不敵な笑みを浮かべた。
「つまり、今回の儀式には今まで以上に尋常でない何かがある、と感じたわけだ」
「そういうこと……だよ」
押されぎみの賢人がジャケットのポケットからスマートフォンを取り出すが、やはり動画を撮るつもりはないらしく、梨花と同様に電源を切った。
賢人のその行動を見た仁志が、目を引きつらせた。梨花に追従したのがよほどしゃくだったのだろう。そして仁志は、表情を固くしたまま口を開く。
「なら、山神がなんなのか、それだって気になるはずだ。葛城家の一員であるおまえにだって、山神の正体はわからないんだし」
「あ、ああ……わからないよ」
そう返しつつ、賢人はスマートフォンをポケットに戻した。
「とにかく」仁志は言った。「証拠を押さえないと、いくら止めようとしたって無駄なんだよ」
「もしかして、あんたは火葬祭の様子を覗き見るつもりなのか?」
「当然だ。そのためにわざわざこんなところまで来たんだ。人道にもとる行動を認めたら、そのときこそ堂々と止められるだろう」
賢人は渋々と頷くが、梨花は納得できなかった。賢人と仁志は、それぞれの目的が異なっているのである。――だが、今は曖昧でよいのかもしれない。意見が衝突した状態では、賢人の目的もかなえられないのだから。
「山神の広場の様子を見たか?」
仁志に尋ねられ、賢人は頷く。
「車が二台、停まっている。ミニバンと霊柩車だ。ミニバンは無人のようだけど、霊柩車の運転席には人が乗っている」
「霊柩車に乗っているのは、岸本っていうやつだな。それはそうと……そいつに見つかっていないよな?」
「大丈夫だよ」
賢人は面倒そうに答えた。
「なら、野辺送りの来ないうちに山神の斎場へ行こうぜ」
「山神様の斎場に行く途中で岸本さんに見られちゃうんじゃないの?」
焦燥を隠せず、梨花は口を挟んだ。
「この雑木林にはいくつもの小道があるんだ。大丈夫さ」
賢人の説明を聞いて仁志が失笑した。
「朱の男子なら、みんな知っているもんな」
皮肉っぽく付け加えた仁志が先に立って歩き出すと、無言を決めた梨花と賢人がそそくさとそのあとに続いた。
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