第3話 ②
「ここだ」と言って、仁志が足を止めた。
馬の背の突端だった。前も右も左も、藪に覆われた緩い傾斜の下りだ。見れば左の藪に切れ目があり、そこから下に行けるらしい。そちらの藪の近くに立つ仁志が、懐中電灯で切れ目の先を照らした。
馬の背の左下に並行していた道が、そこで円形の広場に繫がっていた。この広場は山神の広場より狭い。テニスコート一面ぶん程度だろう。その奥側から先に続いている道は、雑木林の闇に完全に飲み込まれている。
広場の中央にテーブル状の大きな石があった。上面がほぼ平らな楕円形であり、前後の道に対して横方向に長く、差し渡しは三メートルくらいだ。
「あそこが山神の斎場だ」仁志が言った。「野辺送りはここまで来る。そしてここで火葬祭をするんだよ。あの石に棺を載せて儀式を執りおこなうわけだ」
「まるで儀式を見たことがあるみたいだけど?」
疑問でもあるが皮肉でもあった。何もかもが仁志の言いなりであり、それに対する梨花のせめてものあらがいだ。
「若いやつらの間での噂だ」そう告げて仁志は、賢人を見た。「賢人もそれくらいは耳にしているよな?」
辛気臭そうに「まあね」と答えた賢人も、梨花と同じ心境なのだろう。
「仁志くんは山神様の信仰についてムキになっているけど、こうまでして知りたいことなの? 沢口さんっていう人のことがあったから?」
梨花は仁志の顔を睨んだ。今さらながら、無視できない疑問である。
「おれはそこまで友達思いじゃねーよ」人志は不敵な笑みを浮かべた。「でもこんな儀式、面倒なんだよ。家族の誰が死んだとしても、おれは喪主なんかやるつもりはないわけだ。それを知ったおやじやじいちゃんにこっぴどく叱られたものだよ。おれが未だに根に持つのも当然だろう? それにこの儀式、面倒なだけじゃなくて謎も多い。やましさ満載だ。だからこの信仰の真相を暴いて、おやじや信者らの鼻を明かしてやるのさ。そんな儀式も、今回が最後だ。つまり、おれは一度もかかわらなくて済む、っていうわけなんだけど、同時に、鼻を明かしてやる最後のチャンスでもあるということなんだ。おれは今回に賭けたんだ。絶対に謎を探り出してやるんだ」
熱意は確かに伝わってきた。しかし仁志の策謀は、身内に対する意趣返しでもある。梨花の仁志へのあらがいなど他愛ない度合いだろう。
ふと、空気が震えたような気がした。風が吹いたのではない。草木は微動だにしなかったが、頬や指先に僅かな刺激が走ったのだ。もっとも、それはつかの間のことだった。山神の斎場を目の前にしているためか、この従兄の心中を垣間見たせいか、そういった理由でおののき、梨花の体が震えただけなのかもしれない。肌寒いという状況も理由として考えられる。
「なんだか今、肌がびりびりした」
賢人は言いながら、右手に持つ懐中電灯で自分の左手を照らした。
「賢人くんも?」と梨花が賢人を見るなり、仁志が舌打ちをした。
「こんなの、気のせいだ」
「こんなの……っていうことは、仁志くんも感じたんでしょう?」
もう揚げ足を取るつもりはない。ただ単に、事態を把握したいだけである。
「だから」仁志は眉を寄せた。「気のせいだって言ってんじゃん」
「三人とも同時に同じことを感じたのに?」
梨花は追及したが、仁志は口を閉ざしてしまった。彼も同じ奇異に遭った、と思って間違いない。
「来たみたいだ」
賢人の声を聞いて、梨花は自分たちが歩いてきたほうを見た。
とらえどころのない闇の奥から、かすかな鈴の音が流れてきた。まだ遠くにいるようだが、野辺送りの鈴の調子だ。
「山神の鈴だ」と少しのひねりもない呼び方を口にしたのは賢人だった。
「綾ちゃんが持っていたあの鈴、山神様の鈴、っていうんだ?」
とりあえず山神には「様」とつけた。賢人は電話で話していたときも「山神」と呼び捨てにしていたが、儀式を阻止しようと思い立った彼なのだから、山神を見限ったのかもしれない。だが梨花は、それを口にしなかった。
「そのまんまのネーミングだよな」
まるで梨花の心の内を読んだかのような言葉を、人志が吐いた。そもそも誰もが梨花や仁志のように感じるものなのかもしれないが、自分と仁志とは特に思考パターンが似ている――そんな気がして、あまりよい気分ではなかった。
「明かりを消そう」と仁志は言いながら自分の懐中電灯を消灯するが、その直前に、賢人が自分の持つ懐中電灯を消灯した。それがしゃくに障ったらしく、仁志はまたもや舌打ちをした。
雑木林の外側のほう――「山神の斎場」へと至る道の「山神の広場」側のほうが、ほんのりとオレンジ色に明るくなった。明かりの手前に枝葉のシルエットが浮かぶ。それとともに鈴の音が大きくなってきた。
「おまえら、音を立てるなよ」
言われなくてもそうせざるをえない状況なのだ。梨花は黙したまま発言者の横顔を蔑視した。
三つの光源が視界に入った。葬列の動きも把握できる。近づいてくる列を見ると、八人の集団であることがわかった。
鈴の音に彼らの足音が混交した。それ以外の音は無用だ。衣擦れさえあってはならない、と梨花は意識した。
先頭の綾の姿が視認できた。そして和彦、棺の担ぎ手たち、山神の広場で合流したとおぼしき岸本、喜久夫という順に視野に入る。
担ぎ手の一人である雅之の姿を見つめて、梨花は憂いを深めた。山神の儀式に問題がなければ、「自分がここにいることは父を裏切る行為だった」と悔やむしかない。とはいえ、なんらかの問題があれば、父に不信感を抱くきっかけになる。いずれにせよ、重い気分に陥ることは避けられそうになかった。
野辺送りの葬列が山神の斎場に差しかかった。
梨花たちの側を最後尾として、葬列が横に並んで停止した。
鈴の音がやみ、静寂の中で梨花は固唾を飲んだ。
掛け時計を見ると時刻は午後六時五十五分だった。
和室の仏間で座椅子の背もたれに身を任せた飛田は、仏壇に正面を向け、照明を点けたまま瞑想した。風呂は済ませたが夕食を取る気にはなれなかった。しかし独り暮らしゆえ、食事を抜いたところで文句を言う者はいない。
仏壇の位牌と遺影は、三年前に子宮癌で他界した妻のものだ。飛田家は五年前に神道から仏教に改宗しており、妻の葬儀は仏教で執りおこなった。自分の家で山神の儀式を出すことはもうなく、無論、一人娘に山神信仰を引き継がせる必要もない。もっとも、その娘は五年前に結婚し、県外で暮らしている。
芹沢家の野辺送りは山神の斎場に着いただろうか。午後七時前後に儀式が執りおこなわれる予定であり、そろそろ到着してもよい頃だ。
最後に来て最も非道な儀式をせねばならない。その重荷を葛城の娘――綾に背負わせる形となったのが心苦しかった。無論、葛城勝義が斎主を担っていたとしても、彼に対する申し訳なさで胸を締めつけられたに違いない。気晴らしに勝義と今すぐにでも話したいところだが、一同がかりそめの埋葬を済ませるまではこらえよう。
飛田は座椅子の背もたれにのけぞったまま、ときの過ぎるのを待った。
馬の背の突端で藪に身を隠しつつ、梨花と賢人、仁志らは、山神の斎場の様子を見守っていた。三人は誰もが、火葬祭に臨む八人に悟られぬよう、息を潜めていた。仁志に至っては、スマートフォンのレンズを現場に向けて動画撮影にいそしんでいる。
棺が巨石の手前に置かれた。梨花たちから見れば巨石の左側だが、その位置が巨石の正面らしい。
綾が巨石の手前の地面に提灯を置いた。底部が台のようになっているその提灯は、倒れることはなかった。そして彼女は、足元の提灯の手前に、山神の鈴の柄を片手で勢いよく突き立てた。鈴の音が一度だけ鳴った。
続いて、和彦が馬の背から遠い側、喜久夫が馬の背側の地面に提灯を置いた。三角形に配置された提灯が山神の斎場をほの暗く照らす中、和彦が白布の包みを手にしたまま開き、綾がそこから木製の台の一つを取って棺の頭側の地面に立てた。
儀式の準備が進む中、岸本が雅之に何かを手渡した。それがスマートキーであることを、梨花は得心した。雅之の車のキーだ。
和彦に向き直った綾が、彼の手にある白布から
和彦が大麻と台の一式が残った白布を包み直しながら棺からわずかに距離を置くと、綾を除くほかの男たちも和彦のほうに集まった。そして七人の男たちは、棺の手前に立つ綾と向かい合うように横一列に並ぶ。馬の背側から見て、岸本、柴田、大賀、岡野、喜久夫、雅之、和彦という順だ。
白い包みを足元の左側に置いた和彦が、ズボンのポケットから黒っぽいハンカチを取り出した。それを右手に持ったまま、という様子を梨花は不自然に感じた。
綾が巨石と棺とに向かって一礼し、大麻を左、右、左と静かに素早く振ったうえで、再度、一礼した。続いて、同じ所作を馬の背から遠い側、馬の背側、最後に七人の男たちに向かって施す。
修祓を済ませた綾が木製の台へと歩み寄り、大麻の柄をそれに差した。そして彼女はその場で向きを変え、七人の男たちに正面を向ける。
喜久夫と岡野が一歩、前に出て棺に一礼した。二人は棺の頭側と足側に別れ、喜久夫は頭側で、岡野は足側で、同時にふたを持ち上げる。外されたふたは棺本体と大麻との間に置かれた。喜久夫と岡野が列に戻ると、続いて和彦と雅之、大賀、柴田の四人が一歩、前に出て棺に一礼した。和彦が遺体の左上半身側、雅之が右上半身側、大賀が左足側、柴田が右足側に立ち、それぞれが同時に棺に両手を入れた。遺体の下に敷かれていた白いシーツが、遺体を乗せたまま引き上げられた。
雅之と柴田が担ぎ棒をまたぎ、四人と遺体は棺と巨石との間に移動した。そして四人は、遺体の頭を雑木林の奥に向けて巨石の馬の背側へと移動し、遺体をシーツごと巨石の上に静かに置いた。啓太の遺体は頭を雑木林の奥に向けられた状態だが、位置としては巨石の中央ではなく馬の背側にずれている。遺体の位置はそのままに、四人の男たちは列に戻った。
――棺ごと石の上に置く、だなんて全然違うじゃん。
声を出すわけにもいかず、梨花は横目で仁志を睨んだ。動画撮影を続けながらも気まずそうな目で梨花を一顧した仁志は、口をゆがめて山神の斎場に視線を戻す。
和彦と雅之が動いた。和彦が男たちの列の前を、雅之が男たちの列の後ろを、おのおの淡々と進んだ。
先に雅之が岸本の背後で立ち止まった。続いて和彦が岸本の正面で立ち止まり、岸本に正面を向けた。
「え……」と岸本が声を漏らした。少なくとも岸本の知らない流れらしい。
不意に雅之が岸本を羽交い締めにした。「ちょっと――」と岸本が声を上げかけたが、その口を和彦の黒いハンカチが覆った。五秒か十秒か、ハンカチはそのまま固定されていたが、やがて岸本は目を閉じ、頭をのけ反らせた。手足からも力が抜けている。
現状を理解できず、梨花は目を瞠った。賢人と仁志も、驚愕に打ちひしがれているらしい。
ハンカチをズボンのポケットにしまった和彦が、岸本の左右の足首を持った。雅之が岸本の上半身を羽交い締めにしたままであり、よって岸本の体は、仰向けで持ち上げられた状態となる。その岸本の体は和彦と雅之によって巨石へと運ばれ、啓太の遺体の横に並べられた。
和彦と雅之は棺のふたを本体に載せてから列の元の位置に戻った。
これが何を意味するのか、梨花には知る由もない。横目で見ると、賢人も深刻そうに山神の斎場を見つめていたが、ふと、その顔を梨花に向けた。
「父さんと姉さんはこれを言っていたんだ」賢人は声を潜めた。「演技なんかじゃない。これは犯罪だ。早くやめさせなきゃ」
「まだだめだ。おそらくあの立会人は意識を失っているだけだ。こんなんじゃ証拠にはならない。もっと派手なことをしでかすはずだ。それを確認しなきゃ意味がない」
小声で言い募った仁志は、動画撮影を未だに続けていた。
意趣返しを押し通そうとする仁志とその彼を睨む賢人との間に挟まれて、取るべき行動を決めきれず、梨花は途方に暮れた。
綾が棺に――否、巨石に向かって一礼し、山神の鈴を前にして顔を仰向けた。
「
呪文のように言葉を紡いだ綾が、右手で山神の鈴を引き抜き、三度、それを縦に揺すって鈴を鳴らした。そして再び山神の鈴を地面に突き刺し、口を開く。
「フングルイ・ムグルウナフ・ギナ=ハ・ザベロ・ンガ=ガー・ナフルタグン……イア・ギナ=ハ」
理解不能な言葉を耳にし、梨花は眉を寄せた。
「ヤ・ナ・カディシュトゥ・ニルグレ」綾は続けた。「ステルブスナ・クナー……」
「違う」
賢人のそのつぶやきに梨花は「何が?」と尋ねた。
「父さんと姉さんが火葬祭の呪文というやつを唱和しているのをこっそり聞いたことがあるんだけど、最初の日本語の部分、朱の山におあします、から始まって、イア・ギナ=ハまでは、確かに同じだ。でもそのあとの文言は、まるで違う」
そう小声で答えた賢人は、すでに綾の呪文を聞いていなかった。
「どういうことなんだよ?」
スマートフォンのレンズを斎場に向けたまま、抑えぎみの声で仁志が問うた。
「山神の儀式は今回で最後じゃん」賢人は言った。「だから、たぶん、いつもとは違うやり方でやるんだよ。父さんは、今回はショウテンノギだ、って言っていた」
「ショウテンノギ?」と仁志は首をひねった。
「でも、今までのやり方だって、どんなんだかわからないんでしょう? 今までだって、普通じゃないことをしていた可能性はあるんじゃない?」
状況が状況なだけに、梨花は問わずにはいられなかった。確かに岸本は眠らされているらしいが、どう考えてもこれは犯罪である。
「そうなんだけど……」
案の定、賢人は答えに窮したようだ。
綾の呪文は終わっていた。
その綾も彼女の背後に並ぶ六人も、巨石に正面を向けたまま動かなかった。
巨石の上に仰向けで横たわる二つの姿にも変化はない。
三つの提灯が照らす山神の斎場は、何かを待つかのごとく静寂に包まれていた。
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