第3話 ③

 長いときが流れたように思えた。実際には一分も経っていなかったに違いない。

 馬の背の突端で最初にその異変に気づいたのは梨花だった。

「あれを見て」

 梨花がそうささやくと、左右の二人は同時に「え?」と声を漏らした。

 雑木林の奥がほんのりと明るかった。その明かりが徐々に強くなってくる。

「信者の誰かが来るんだ」仁志がスマートフォンのレンズをそちらに向けつつ言った。「あの光、懐中電灯か、野辺送りと同じく提灯なんだよ。獣を閉じ込めた檻とかを運んでいるのかもしれない」

 とはいえ、白色光かそれに近い光だ。少なくとも提灯の明かりとは違う――梨花はそんな気がした。

「もし獣だったとして」今度は賢人だ。「遺体を食べさせてから……立会人のことも?」

「さすがにそれはないんじゃないかな……」

 言葉を濁した仁志だが、その思いは梨花にも受け止めることができた。遺体を獣に食わせるだけでも犯罪であるのに、意識を失っているだけと思われる岸本を食わせたなら、殺人以外の何ものでもない。

 山神の斎場では、近づいてくるぼんやりとした光を綾と男たちが微動だにせず、黙して待ち続けていた。その誰もが恐れと敬いを浮かべている。

 首謀者が誰で共犯者が誰なのか、梨花には判断できないかった。だが少なくとも、雅之がそのどれかに該当するのは間違いないだろう。仁志の意趣返しなどに付き合っている場合ではない。今すぐにでも止めに入るべきだ――そう決意し、梨花は山神の斎場へ飛び出そうとした。

「なんだよ、あれは」と虚を突かれたような声を漏らしたのは、仁志だった。

 梨花と賢人も、仁志が凝視している雑木林の奥へと、顔を向けた。

 小道に沿って近づいてくる何かがあった。梨花は初め、それを列車だと思った。太くて長い物体だ。無論、レールのない単なる未舗装の林道を列車が通るわけがなければ、林業用のトロッコさえ走行は不可能だ。しかもその何かは、ヘッドライトや車内灯などを灯しているのではなく、それ自体の灰白色の表面を発光させているのだった。

 発光する何かは人の歩む速度でやってくるが、よく見れば、歩くでも這うでもなく、地面から三メートルほどの高さを、浮かんだ状態で移動しているのだった。微妙に全体をのたくらせながら、ゆっくりと、音を立てることなく、暗い宙空を飛んでくる。

 生きている――と梨花には感じ取れた。檻や列車などではない。自分の意思で動いているのだ。すなわち、梨花は異形の存在を認めた、ということになるだろう。

 異臭があった。気のせいと感じたのはつかの間で、化学薬品のような刺激臭が鼻腔を満たし、梨花は思わずむせった。

「静かにしろ」と仁志が小声でたしなめるが、梨花のむせびに気づいたのか、巨石の前の柴田がこちらに顔を向けた。

 梨花たち三人がじっと声を押し殺していると、何事もなかったかのように、柴田は正面に向き直った。とはいえ、そこに立ち並ぶ男たち、そして綾も、同じく悪臭にさらされているらしく、顔をしかめている。それともやはり、迫り来るものに対する畏敬の念があるのだろうか。

 山神の斎場の面々と同じように顔をしかめている賢人と仁志も、この臭気は身にこたえているようだ。自分だけがを上げるのもしゃくだ――というよりは、硬直するあまりに言葉が出なければ身動きも取れず、梨花は悪臭に耐えながら異形の存在に視線を戻した。

 賢人が「まるで内臓だ」と言った。確かにそれは、人体模型で見た大腸や小腸に似ていた。無数の節があり、いびつにねじれている。

 さらに目を凝らせば、その先端には頭部らしき部位があった。先端に続く内臓もどきを胴体とするならば、頭部は胴体よりもわずかに幅がある。その頭部に付属する猫のもののような二つの耳はさておき、顔の中央に位置する巨大な単眼は、当然のごとく梨花を萎えさせた。

「化け物だ」と仁志がつぶやいた。発光する何かが山神だとすれば、不謹慎極まりない言葉だ。しかしその外観を形容するには、「内臓」と並んでふさわしい呼称に違いない。

 地球上の生物とは到底思えないこの化け物は、山神の斎場に差しかかるなり、前進を止め、頭部を上にして体を起こした。胴体の最後部――否、最下部に、放射状に伸びる巨大な五本の指があり、それらの指を地面につけ、化け物は大地に立った。巨木の根のようでもある指のそれぞれの先端には、鋭い爪が生えている。

 直立した異形は身の丈が五メートル以上はあった。十メートルに届くかもしれない。胴体の表面には無数のドーム状のこぶがあり、その様相は単なる内蔵ではなく、癌に冒されたそれだ。

 不意に、化け物の胴体に点在するドーム状のこぶのいくつかから、太い紐状の何かが突き出した。長さはまちまちであるが、どれもが、大人の腕ほどの太さがある触手だった。

 しなやかにのたくるどの触手も、その先端はヤツデの葉のような形状の部位になっていた。それらはどうやら手であるらしく、それぞれが五本の細長い指を生やしている。しかし、それらすべての手は両端の指が親指らしく、すなわち線対称であるため、左右の区別がつかない。右手でも左手でもなく、「なか」とでも呼ぶべきだろうか。

 いずれにせよ、単眼も触手も手も、体のすべてが光を放っていた。鈍く白っぽいその光自体は神々しくも毒々しくもあり、梨花は異界の趣を感じてしまう。

 巨石や棺を間にして野辺送りの面々と対峙している巨大な異形が、単眼で巨石を見下ろした。横たわる二つの肉体を値踏みでもするかのごとく、発光する灰白色の体をゆらゆらと揺らしている。

 一方の野辺送りの者たちは、巨大な異形を黙して見上げていた。醜怪な姿を前にして表情をこわばらせつつも右往左往しない彼らにとって、化け物は既知の存在に違いない。少なくとも梨花にはそう思えた。

 山神の斎場を見下ろす単眼にはまぶたがなかった。真横からのアングルであるため、ましてこの暗がりであるため、その色さえはっきりせず、詳細はつかめないが、その単眼は昆虫の複眼を想起させた。もっとも、梨花は虫嫌いの部類であり、実物の複眼をまじまじと見た試しがない。

 複眼であろうとなかろうと、山神の斎場へと飛び出す気迫は失われていた。身を隠し、息を潜める以外に手立てがなく、肌寒さ以外の理由から来る震えを、梨花はそのままにした。

「こんな化け物、信じられるかよ」と仁志がいまいましそうに言った。

「あれは作りものなんかじゃない」

 賢人はそう返すが、無論、本物である、という証拠はどこにもない。

 真贋が見極められないまま、梨花は何度も意識が遠くなりかけた。しかし、自分の「父を止めたい」という一心と、この強烈な悪臭によって、どうにか目を閉じずに済んだ。


 とおかんの明かりを浴びて立つ勝義は、かすかな悪臭を感じていた。このまがまがしいにおいがあか地区の広範囲に広がることはないだろう。それでも、そよ風もないのにここまで漂ってくる。加えて数分前には、山神の顕現の前兆でもある刺激を肌に感じた。山神の広場よりも距離を置くと感じられないこの刺激だが、無論、野辺送りの参加者のすべてが感じているわけだ。いずれにせよ、山神が斎場に現れたのは、疑う余地がない。

 朱地区の平穏を守れるか否かは綾の手腕にかかっているが、過去に起きたいくつかの失敗は、そのどれもが、斎主にかかわらない事象が原因だった。想定外のアクシデントに対処できるのは、やはり熟練の斎主と、経験豊富な信者である。今回の儀式に参加している者のうちで当てにできるのは、最年長の芹沢喜久夫だけだ。とはいえ、そもそも今回の儀式は昇天の儀なのだ。万が一の事態が起きた場合は、たとえ喜久夫であっても対処するのは無理だろう。

 勝義がそんな危惧を巡らせている今このときにも、綾たち野辺送りの面々は悪臭の源と対峙しているのだ。この月明かりの届かない闇の中で――。

 皆が無事に山神の広場に戻ってくるのを、勝義はただ待つしかなかった。


 時計回りに本家宅の周囲を見回った信代は、続いて東の臨時駐車場を確認した。手にする懐中電灯は淳子に借りたものだが、この光が照らし出した先のどこにも梨花の姿はなかった。

 捜しに出る前から何度も梨花に電話をかけているのだが、そのたびに留守番電話サービスに繫がってしまうのだ。最初の留守電に「心配しているから電話をちょうだい」と伝言を入れたが、折り返しの電話はまったくない。

 途方に暮れて本家宅への道をとぼとぼと歩いていた信代は、前方からのまばゆい光を浴びて顔を背けた。光は車のヘッドライトだった。

 車をやり過ごそうと、信代は道の右端に寄った。その信代の横で車が停止する。見覚えのあるSUVだ。

 助手席のドアガラスが下がった。助手席に人はおらず、運転手が顔を覗かせた。時子だった。

 ――そういえば、駐車場に時子さんちの車がなかったな。

 思ったことは口にせず「出かけていたの?」と尋ねた。

「信代さんが、家の周りを捜してみる、って言って出たけど、わたしもじっとしていられなくてね。信代さんが西の田んぼのほうに向かったあとで、わたしは車に乗って国道から県道を経てコンビニまで行って、そこの細い道を通って戻ってきたわけ。だけど……」

 言って時子は表情を曇らせた。

「こっちもよ」と信代も調子を合わせた。

「まさかとは思うけど」時子は本家宅のほうに目を向けた。「仁志くんと一緒だとか」

「そうかもしれないね」

 このまま連絡がつかなければ警察を頼るのも致し方ない、そう考えていたほどだ。あらゆる可能性を想定するべきだろう。

「仁志くんのスマホの番号がわかれば、連絡が取れるはず」

 時子は提案するが、信代は首を横に振った。

「仁志くんの番号、わたしはわからないのよ」

「わたしもそうなんだけど……じゃあ、淳子さんに訊いてみよう。なんだったら淳子さんにかけてもらってもいいし」

「そうね」

 淳子が気を悪くするという懸念はあるが、背に腹は代えられない。

「乗って」と言いながら時子は手を伸ばし、助手席のドアを開けた。

「え……」

 今から車で駐車場へ行ってまた歩いて戻るのも億劫に思えた。

「車で直接本家の屋敷へ行くの」時子は言った。「庭は広いんだし、何かあってまた車で出かけるとなったら、駐車場まで歩いていかなきゃならないでしょう」

「そうか」と頷いた信代は、助手席に乗り込んでドアを閉じた。

 信代がシートベルトを装着するなり時子が「踏ん張って」と声をかけた。

 まさかのバックでの急加速だった。

 声を上げたいのをこらえ、信代は歯を食い縛った。


 巨大な臓物が有する触手のうち、頭部に近い位置に生えている二本が、唐突に大きくしなった。その二本が並んで巨石の上へと走る。そして二つの手が啓太の体を鷲づかみにした。

 仁志のスマートフォンがわずかに震えていた。一方の賢人は、微動だにしない――というより、硬直しているらしく、うめき声の一つも立てなかった。

 梨花は梨花で左右の二人の様子を窺うことはできたが、決して余裕があるわけではなかった。化け物を見続けられない、というのが実情である。また、賢人と仁志がそばにいるのを確認する意味もあった。山神の斎場には雅之がいるが、少なくとも今は「同士」と呼べる状況ではない。とはいえ、この馬の背の突端にいる三人は、誰一人として山神の斎場の事態を達観しておらず、頼れる者は皆無だ。

 化け物の頭部に鼻らしき部位は見当たらず、そのぶん、口が単眼に接するかのごとく位置していた。横長の大きな口だ。その口がゆっくりと開く。底なしの闇の上下には、無数の鋭い鋸歯が並んでいた。

 二つの手によって胸と腰とを鷲づかみにされている遺体が、軽々と持ち上げられ、化け物の口の前に運ばれた。

 この悪臭の中で何が起ころうとしているのか、梨花にさえ予想はついた。おそらく賢人と仁志も同じだろう。だが、二人の様子を窺うことは、もうすでに不可能だった。

 啓太の頭部がかじり取られた。枝が折れるような音がしたのは、頸椎が折れたからだろう。続いて、首なしの体が一気に口に押し込まれた。咀嚼もせずに丸飲みだった。無数の鋸歯は贄をかじり取るのが役目なのかもしれない。

 啓太の体はなくなってしまった。この化け物がいかなる生物なのか、今の梨花には整理がつかないが、啓太が食われてしまったのは事実である。

「茶番に決まっている!」

 叫びとともに立ち上がったのは仁志だった。梨花は啞然として仁志を見上げた。賢人も言葉を失っている。

 山神の斎場では、仁志の大声に気づいたらしい野辺送りの面々が、こちらに顔を向けていた。そして臓物のような化け物も、目一つの顔を――表情の伺い知れない顔を、ゆっくりと梨花たちに向けた。

「いい加減にしろよ!」とわめき散らしながら懐中電灯をほうった仁志が、藪の切れ目を駆け下りた。

 梨花も立ち上がったが、さすがに仁志のあとを追うことはできなかった。同時に立ち上がった賢人も、声を殺したままだ。

 化け物の顔よりも先に、雅之の顔がクローズアップされた。申し訳なさと謗りたい気持ちとが混交する。そして、見たくもない化け物の顔を誘われるように見て、梨花は結果的に後悔することになった。

 巨大な単眼は昆虫の複眼とも異なっていた。巨大な眼孔に、いくつもの眼球が密集しているのだ。人間のものと同じような、それでいて握りこぶしほどもある眼球が、いくつも並んで集合体となっており、それぞれの眼球が不規則に、せわしなく、あちこちをきょろきょろと見回している。

 声を抑えるのも限界だった。これ以上の我慢は自分の精神を崩壊させてしまうに違いない。ついに梨花は、あらん限りの声で悲鳴を上げた。


 雅之は山神の広場から雑木林に入るなり肌に刺激を受けたが、誰一人として口に出さずとも葬列の全員が感じたはずだ。肌の刺激はあって当然であり、山神の儀式が進行している証しでもある。だからこそ、刺激を受けた瞬間は緊張の中にも安泰があった。今回の儀式も無事に済むだろう、という思いだ。それは切なる願いでもあった。野辺送りに参加した皆も、同じ思いだったに違いない。

 しかしその願いは、もろくも崩れ去ってしまった。

「きゃああああああ!」

 仁志が右の斜面から駆け下りてきた直後に、近くで悲鳴が上がった。仁志の背後、斜面の上に繁茂する藪の向こうに、梨花と一人の少年が立っていた。提灯の明かりの照度は心許ないが、それでも自分の娘の顔を見紛うはずがない。見覚えのある少年は、おそらく葛城綾の弟、賢人だろう。

 仁志の愚挙だけで何もかもが台無しになったのは、一瞬にして理解できた。しかし、なぜ仁志や自分の娘、綾の弟がここにいるのか、雅之にわかるはずがなかった。

 儀式に参加していたほかの者たちも狼狽した様子だった。和彦に至っては、すでに儀式の遂行を諦めたのか、「あれ」の御前であるにもかかわらず、列から離れて仁志の前に立ち塞がっていた。

「仁志、どうしてここにいる!」

 怒鳴りつけた和彦は、明らかに理性を失っていた。

「おやじこそ、これは一体どういうことなんだよ? 何が火葬祭だ。この化け物やじいちゃんの首が嚙み切られたように見えたのは、どんな仕掛けなんだよ? もしじいちゃんの死体が本当に損壊されたんなら、これは犯罪なんだぞ」

 右手にスマートフォンを握ったまま、仁志は言い募った。

 そんな罵り合いを、密集した無数の眼球が頭上の闇から見下ろしていた。

「ばか野郎! なんてことを――」

 和彦が言いかけたとき、巨軀の中程から生える一本の触手が、仁志に接近した。線対象の異様な手が青年の体をつかもうとする。だが、その仁志の体はフォーマルスーツ姿に体当たりされて、地面に仰向けに倒れた。

 巨大な手の前に残ったのは、和彦だった。すかさず、巨大な手が彼の胴をとらえてしまう。

 上昇していく和彦を見上げながら、雅之は「兄貴!」と叫ぶことしかできなかった。

「雅之、仁志を頼む!」と訴えられたが、雅之には返す言葉などなかった。雅之だけではない。綾も喜久夫も、ほかの誰もが、言葉を失っている。

 血しぶきが飛び散った。和彦の体は無数の鋸歯によって食いちぎられ、飲み込まれてしまう。歯を食い縛っていたのか、一瞬にして命を絶たれたのか、断末魔の叫びはなかった。

 半身を起こした状態の仁志が、右手にスマートフォンを握ったまま――というよりスマートフォンのカメラを化け物に向けたまま、ゆがんだ顔で自分の父の最期を見上げていた。

 提灯の放つオレンジ色の光と巨躯の放つ灰白色の光が交錯していた。惨劇をまざまざと照らしていた明かりが、次なる狂気を誘引するかのごとく、この一帯を浮かび上がらせている。

 眼球の集合体が一点を見下ろした。それらいくつもの視線が集中するのは、その眼球の集合体を呆然と見上げる綾だった。

 巨躯の下部に生える一本の触手が、小さくゆっくりとしなった。三体目の獲物をとらえる前兆のようだ――と雅之は思った。

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