第3話 ④

 この悪臭も何もかもが非現実的だった。仁志の言うようにトリックであれば、どれほどよかっただろうか。巨大な化け物が現れ、啓太の遺体がそれに食われてしまい、和彦においては生きたまま食われてしまったのである。

 そして今、呆然とたたずむ梨花は、左隣に立っていたはずの賢人が山神の斎場に駆け込んだところを目にした。彼を止められなかったばかりかその行動に気づくのが遅れた、そんな不甲斐ない自分を悔いた。

 見れば、化け物の下部から生えている触手が――その先端の手が、綾をとらえようとしていた。賢人がこれを阻止せんとして飛び出したのは自明の理だろう。梨花にさえそれは得心できた。しかし賢人の行動が無謀でしかないのも、自明の理だ。

 綾を始め、野辺送りの面々が立ちすくむ中、賢人は綾と触手との間に割って入ろうとした。しかしその一瞬前に、巨大な手が綾の上半身を握り締めた。

 こわばった顔で化け物を見上げたまま、綾はわずかなうめき声さえ漏らさなかった。それは彼女の諦念なのかもしれない。もしくは斎主としての威厳なのだろうか。

 綾をつかんだ巨大な手が浮きかかった。

「やめろ!」

 化け物に向かって怒鳴りつつ、賢人が山神の鈴を右手でつかみ、鈴の音を響かせて一気に引き抜いた。そして肩の上で逆手に構えるや、柄の先端の向きを化け物の顔に定め、勢いをつけて投げ放った。闇を飛んだ祭具が――その鋭利な先端が、眼球の集合体の中央に突き刺さった。

 しかし山神の鈴は、突き刺さったというよりは、無数の眼球の中に飲み込まれた感じだった。槍の後部に当たるいくつもの鈴を含め、山神の鈴という祭具の全体が眼球の群に飲み込まれてしまう。

 賢人による投擲は、化け物にダメージを与える一撃ではなかったらしい。巨大な口は苦悶の叫びを上げるどころか、哄笑するかのように「はははははは」と声を放った。梨花には低い男声のように聞こえた。

 数十センチばかり持ち上げられた綾の体が巨大な手から解放された。その場に崩れそうになる彼女を賢人が両腕で抱き留めた。

 ようやく我に返ったのか、雅之が葛城姉弟を両手で支えるようにして自分の背後に押しやった。その三人に合わせて、喜久夫や岡野、大賀、柴田らもじりじりと後退した。へたり込んでいた仁志も、地面に尻をつけたままあとずさる。

 馬の背の突端に一人残された梨花は、逃げ出したくても体を動かせなかった。そもそも逃げ出すのが正しい選択なのか、判断がつかない。

 ふと、化け物の全身がにじんだ。梨花はまばたきをして凝視するが、幻視ではなかった。

「はははははは」

 またしても化け物が声を上げるや、巨大な眼孔から無数の眼球が四方に飛び出した。どの眼球も神経のような細長い器官をたなびかせながら、まるで意思を有しているかのごとく、翼もないのに自在に飛び回っている。しかもそれらは、やはり発光していた。

 それらのうちのいくつかが梨花のそばにも飛んできた。

「きゃっ」

 顔を背けて目を閉じた梨花がおそるおそる目を開けると、すべての眼球が雑木林の奥へと漂っていくところだった。そして、輪郭をにじませていた巨軀が霧状の粒子へと分解し、和彦のものらしい血痕の上に山神の鈴が落ちて鈴の音を鳴らす。霧状の粒子は発光しながら、眼球の群を追うように雑木林の奥へと流れ始めた。

 綾が独り言のように「山神様がお怒りになってしまった」と声を漏らした。

 やがて眼球の群と霧は視界から外れ、続いて白っぽい光も見えなくなった。悪臭も感じられない。山神の鈴は落ちているが、食われた二人ぶんの残骸はなかった。

「みんな、早くここから離れるんだ! 雑木林の外に出るんだ!」

 遅ればせながら采配を振るったのは喜久夫だった。

「立会人は?」

 岡野が喜久夫に尋ねた。

「棺に入れて運ぼう」喜久夫は答えた。「このまま贄にされなければ、いずれ目を覚ますだろう。そうなったら厄介だ」

 すぐに喜久夫と岡野、大賀、柴田ら四人によって岸本の体が棺に仰向けの状態で収められた。その作業に加わらなかった雅之は、いつの間にか梨花の横に来ていた。

「さあ、みんなと一緒に行くぞ」

 静かに言った雅之は、足元に落ちていた消灯したままの二つの懐中電灯を拾った。賢人と仁志が使っていたものだ。うち一つをズボンのポケットに入れた彼は、残りの一つを右手に持って点灯させ、左手で梨花の右腕をつかんだ。

「お父さん……」

 それ以上の言葉は出なかった。何を話せばよいのかわからない。

 雅之に腕を引かれて、梨花は山神の斎場へと下りた。


 悪臭は急速に引いたが、相反するように悪寒が背筋を襲った。不穏な空気だ。ただならぬ気配である。斎主としての長年の経験で会得した独特の感覚が、それを訴えていた。

 穿ちすぎだろうか――という考えが脳裏をよぎるが、不測の事態を考慮すれば安直でいてはならない。

 山神の広場の端、雑木林の奥がほんのりと明るくなった。野辺送りが戻ってきたらしい。

 はやる気持ちを抑え、勝義は目を凝らした。

 野辺送りの面々が雑木林から出てきた。からのはずの棺だが、四人がいかにも重そうに担いでいるのは演技であるはずだ。

 しかし、人数が合わなかった。岸本が贄にされて七人のはずだが、人影は九つだ。ここからでは状況がわからない。

 儀式が成功したにせよ失敗したにせよ、山神は去っているのだから、以降は自分がかかわっても問題はない。そう判断し、勝義は山神の広場へと走った。


 梨花は喜久夫と並んで、馬の背に並行する小道を歩いた。野辺送りが山神の斎場へと向かった道である。足元を照らすのは喜久夫が右手に持つ懐中電灯だ。雅之から渡されたものである。

 梨花たちの前には棺を担ぐ四人がいた。棺の右前に雅之、左前に柴田、右後ろに岡野、左後ろに大賀だ。棺の中には意識を失ったままの岸本が入っており、回収した山神の鈴を始め、祭具の一通りも収まっている。四人は決まりごとのように担ぎ棒をおのおのの肩に載せているが、手に提げて持つより、はるかに安定しているのだろう。

 その前を歩くのは仁志だ。明かりの点いた提灯を喜久夫の命によって両手のそれぞれに一つずつ持たされた彼は、歩き出してからずっとうつむいたままである。

 列の先頭は賢人と綾だ。おぼつかない足取りの綾は、賢人に右腕を引かれていた。賢人は右手に提灯を掲げ、列の前方を照らしている。

 すなわち梨花は喜久夫とともに最後尾ということだが、できることなら棺よりも前にしてほしかった。あの悪臭が後ろから追ってきそうな気がしてならないのだ。とはいえ、祭具の撤収の際に皆の手伝いをせずに呆然と突っ立っていたせいで出遅れた自分なのだから、わがままは言えない。喜久夫が付き添ってくれているのが、せめてもの救いだ。

 撤収で最も慌ただしく働いていた雅之は、梨花はもとより賢人や仁志にも、何ゆえに儀式を覗いていたのか、一切の事情を訊かなかった。ほかのフォーマルスーツ姿の者たちも同様である。綾に至っては気が抜けた様子であり、弟を詰問する余力さえないらしい。唯一、地面にへたり込んでいた仁志が喜久夫に「ぼーっとしていないで提灯を持て」と活を入れられただけだ。

 歩調は先の野辺送りよりもわずかに上がっていた。誰もが、一刻も早く山神の斎場から離れたい、という気持ちでいるに違いない。あれはまだ生きているのだ――否、神であるならば死ぬはずがない。雅之も喜久夫も岡野も大賀も柴田も綾も、それを知っているはずだ。梨花でさえ察しているのだから。

 背中を無数の眼球に睨まれている、そんな妄想を抱きつつも、列の一部となった梨花は、雑木林の中の小道をどうにか歩き通した。

 雑木林の暗がりから月明かりの下へと出た一行は、歩調を変えることなくミニバンと霊柩車が停めてあるほうへと進んだ。

 男の声がしたのは、そのときだった。

「賢人、おまえ、山神様の斎場へ行ったのか?」

 藪と藪との間の小道から現れた白衣はくえ姿の男は、梨花の記憶にある葛城勝義、その人だった。しかし賢人は、父の問いに答えない。

 一行は二台の車の傍らで進行を止め、勝義がその一行の元へと足を運んだ。

 まずは雅之の一声で棺が地べたに置かれた。

「大変なことになった」喜久夫が勝義に言った。「儀式は失敗した。和彦が山神様に食われてしまった。しかも山神様は……霧のようになって山の奥へ戻られてしまった」

 そして喜久夫は、力なくうなだれた。

「まさか、賢人が何かしでかしたんじゃ……」

 そう口走った勝義を、口を真一文字に結んだ賢人が、綾を支えたまま睨んだ。

「葛城さん」雅之が勝義に顔を向けた。「今は誰のせいなのか、などと勘ぐっている場合ではないんです。この事態にどう対処するかが問題なんです」

「それはそうだが、何が起きたのか、具体的に教えてもらわないと――」

「おれは悪くない」

 勝義の言葉を中断させた仁志が、足元に二つの提灯を落とした。落とした、というよりは、落としてしまったのだろう。二つの提灯はどちらも火袋に火が燃え移ってしまう。

「秘密裏にあんな儀式を繰り返しておいて」仁志は続けた。「さも、自分たちは正しいんだ、ってな態度でさ。しかも家の跡継ぎには、そんなふざけた信仰を強要するんだ」

 二つの提灯が上げる赤々とした炎を反射する眼鏡の下から、二筋の涙が流れていた。

「もういい。誰もおまえを責めはしない」

 言って雅之は、二つの炎を靴底で荒々しく踏み消した。

 砕けた二つの提灯を見下ろして、梨花は雅之の心中を察した。

「それより、これからどうするかだ」

 顔を上げて、喜久夫が言った。

「喜久夫おじさん」雅之は提灯の残骸をそのままにして、喜久夫に顔を向けた。「仁志と梨花、それから綾ちゃんと賢人くんを、おれの車で本家の屋敷に送ってくれないかな?」

「ああ、かまわないが」

「子供たちや屋敷に残っているみんなを、守ってほしい。喜久夫おじさん、頼むよ」

「雅之くん」勝義が口を挟んだ。「芹沢さんの屋敷に騒ぎを持ち込んだら、そこにいるみんなに迷惑がかかるんじゃないか。それに、屋敷にいる人たちに今回の事態を知られてしまう」

 意見を受けて、雅之は勝義に顔を向ける。

「子供たちはもうかかわってしまったんだし、本家の屋敷に残っているみんな……山神様の実態を知っている人にも知らない人にも、この非常事態を知らせないと。そしてこの非常事態を収束させるためにも、葛城さんに陣頭を取ってほしいんです」

「しかしな……」

 口ごもった勝義が、雅之から目を逸らした。

「葛城さん」岡野が言った。「おれからも頼みますよ。必要なら、おれたち以外にも可能な限り同志を集めるから」

 その訴えでようやく受け入れる気になったのか、勝義は頷く。

「そうだな……そうしよう」そして勝義は、喜久夫を見た。「喜久夫さん、うちの子供たちを頼みます」

「わかった。勝義くんこそ、よろしく頼むよ」

 答えた喜久夫に雅之がミニバンのスマートキーを渡した。本人たちの意見がないまま、梨花や仁志、綾、賢人らは、芹沢本家宅に連れていかれることになったわけである。

「なら、山神様のこと、仁志や梨花だけでなく、本家の屋敷に残っているみんなにも話していいんだな?」

 喜久夫に問われた雅之が「うん」と頷いた。

「おれも聞きます」

 申し出たのは賢人だった。

「もちろんだ」

 雅之はそう返した。

 さらに、残りの者は今後の対処を相談するべく霊柩車で葛城宅に向かう、ということで話がまとまった。仁志のSUVは雅之が本家宅に戻るときに使うということになり、そのスマートキーは仁志から雅之へと渡った。

 梨花や賢人があの場にいたわけは、仁志の口述によって明かされた。自分がそそのかしたからだ、というニュアンスがあった。誰にも問われていないのに、珍しく仁志から打ち明けたのだ。もっとも、先に雅之が口にしたとおり、仁志をとがめる者は一人もいなかった。雅之の予防策のおかげで仁志は打ち明ける気になったのかもしれない。いずれにしても梨花や賢人が糾弾されることもなかった。野辺送りに参加した面々は山神信仰に後ろめたさがあるらしい。

「母さんにはおれから連絡しておく」

 雅之は梨花に告げると、棺のふたを外し、寝たままの岸本の体を探った。そしてスマートキーを取り上げ、棺にふたをかぶせる。雅之は、そのスマートキーを柴田に差し出した。

「秀志、霊柩車の運転を頼む。おれは仁志の車で行くよ」

「わかった」

 答えて柴田は、雅之の手からスマートキーを受け取った。

「賢人」勝義が賢人の前に立った。「今度こそおとなしくしていてくれ。あかの全住民の命がかかっているんだ」

 綾を支えたままの賢人は、答えるどころか勝義から顔を背けた。そしてその顔を雅之に顔を向け、「これ、置いていきます」と言いつつ提灯を自分の足元に置いた。

 未だにことの真相を知らされていないが、梨花は勝義の言葉の意味をなんとなく理解していた。あんな化け物なら朱地区を壊滅させるのも容易なはずだ。ひいては本家宅にいる者たち――信代や時子、野辺送りを見送った者たちも危機にさらされているということになる。

 不安は尽きないが、喜久夫に促され、梨花は賢人や綾、仁志らとともにミニバンに乗り込んだ。

 真っ先に、仁志が三列目の座席に収まった。同乗する顔ぶれを見れば、身のほどを知った選択だろう。二列目の座席の右に綾、左に賢人、助手席に梨花が着いた。

 ミニバンが動き出すと、梨花はドアガラスの外に顔を向けた。

 山神の広場に残った者たちの前に立って、雅之がミニバンを見送っている。

 雅之に何も言葉をかけていなかったことに気づき、梨花は唇をかんだ。

 ミニバンは徐々に加速し、やがて山神の広場をあとにした。


 昌子は裕次とともに居間でお茶を飲んでいた。テレビにはバラエティー番組が映されており、ときおり、二人は声をそろえて笑った。

 座卓の上のスマートフォンが着信音を鳴らしたのは、午後七時半を過ぎた頃だった。二つ並んでいるスマートフォンのうち、単調なメロディーを発しているのは裕次のものである。

 裕次は自分のスマートフォンを手にして画面を見るなり、「浩くんからだ」と言った。

「浩くん……って、岡野さんのお宅の?」

 尋ねつつ、昌子はリモコンを操作してテレビの音量を下げた。

「ああ、そうだ」首肯した裕次だが、すぐに首をひねった。「でも彼は、今日の山神の儀式に出ているはずだが」

 岡野宅は本郷であるため家の所在は離れているが、親の代からの付き合いだった。浩はそこの長男であり、裕次の七つ下だ。そして、その岡野浩が芹沢家の野辺送りに参加する、という話を、昌子は裕次とともに近所の農家仲間から聞いていた。

 裕次がスマートフォンを耳に当てた。

「こんばんは。うん、裕次だ。浩くん、どうした? え……何? もう一度、言ってくれないか?」

 神妙な色を浮かべた裕次が立ち上がり、スマートフォンを耳に当てたまま、襖を開けて廊下へと出ていった。

 ――そういえば。

 野辺送りに参加した者は、立会人を除き、また緊急の用でもない限り、埋葬が済むまでは電話などできないはずだ。昌子はそれを思い出し、切迫した事態が起きたのではないか、と推し量った。

 裕次は小声で話しており、襖は開いたままだが話の内容は昌子の耳に届かない。気にはなるが、近づいて聞き耳を立てるのもはばかれる。とりあえずリモコンでテレビの電源を落とし、座卓を前にして座ったまま、電話が終わるのを待った。

 三分ほどが経過して「わかった」と声がした。

 居間に戻った裕次が後ろ手に襖を閉めた。通話は終わったらしく、右手にスマートフォンを提げている。

 立ったままの裕次を、昌子は黙って見上げた。

「急用ができた」

 昌子の顔を見ずに、遠くを見るような目で、裕次は言った。

「急用、って?」

 尋ねるが、裕次は首を横に振った。

「それは言えない」そして裕次は昌子を見下ろした。「出かけてくる」

「今から?」

「そうだ」

「どこに?」

「言えないんだよ」

 裕次はもどかしそうな顔で答えたが、もどかしいのは昌子も同じだ。

「それより」裕次は続けた。「このことは口外しないでくれ」

「口外するも何も、わたしは話の内容を知らないのよ。あなたがどこへ行くのかも聞いていないし」

「だから、浩くんから電話があったことやおれが出かけたことを話すんじゃない、と言っているんだ」

「あなたの留守中に、あなた宛てに誰からか連絡が来たら?」

「おれは熱を出して寝込んでいる、そういうことにしろ。あ……」不意に裕次は真顔になった。「芹沢さんの野辺送りに出た人からの電話だったら、おれのスマホにかけ直すように伝えてくれ」

「岡野さん以外には誰が野辺送りに出ているんだか、わからないもの」

「参加者の名前をメモしておく」

 言って裕次は、居間のタンスの引き出しからボールペンとメモ用紙を取り出した。そして腰を下ろし、メモ用紙に野辺送りの参加者の名前を書き連ねる。

 そんな裕次を見ながら、昌子は震えそうになるのをじっとこらえた。

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