第3話 ⑤

 ミニバンは未舗装路から出て舗装路を東へと走った。信代や時子らがこのミニバンを山神の広場まで移動させるために往復した道と思われる。片側一車線だが、それほど広くはない。

 車内は沈黙に包まれていたが、舗装路が南へとカーブしてすぐに、助手席の梨花は口を開いた。

「喜久夫おじさん」

「なんだい?」

 ハンドルを握る喜久夫が、すぐに反応した。

「山神様の斎場に現れたあれが、山神様なの?」

 思いきって尋ねた。仁志が「茶番だ」と声を荒らげていたとおり、化け物の存在自体が現実離れしていたが、和彦が食われた光景はトリックには見えなかった。

「そういうことになる……かな」

 歯切れの悪い答えだった。

「じゃあ、和彦おじさんは……」

 和彦が食われたのも現実だった、ということだ。受け入れたからこそ、梨花は嗚咽を漏らしてしまった。

「なんで……どうして……あんなことが……」

 息が詰まりそうだった。言葉にならない。

「わたしが悪かったの」運転席の後ろの綾が、つらそうな声を出した。「未熟なくせして出しゃばったから、あんなことに。本来ならば、山神様は斎場にいらしたときの姿のまま帰られる。なのにお体を霧のようにするなんて……間違いなくお怒りになったんだわ。わたしが出しゃばらなければ……お父さんに任せておけば、儀式は無事に済んだのよ」

 梨花が振り向くと、嗚咽を漏らす綾が、額当てを外すところだった。

 誰かを責めるつもりなどなかっただけに、梨花は自分の軽はずみな言葉を悔いた。

 三列目の座席を見れば、仁志もうつむいていた。直接的な原因を作った彼は悔恨の表情で目を閉じていた。儀式の場に飛び出したがゆえ、自分の父を死なせてしまったのだ。梨花の軽はずみな言葉以上に軽はずみな行為だったわけである。

 しかし梨花は、すぐにその考えを否定した。そもそもあんな化け物を崇める信仰自体が悪いのではないか。やはり、仁志の言葉に沿う考えに行き着いてしまう。

 あの化け物はどういった存在なのか、なぜ一部の人々はあの化け物を崇拝するのか、なぜ岸本は化け物に差し出されたのか。謎は何も明かされていないが、いずれにしても、芹沢本家宅に着けば喜久夫が皆を前にして話してくれるはずだ。それまでは我慢しよう、そう思ったときだった。

「止めてください」

 誰の声か、その瞬間はわからなかった。

「車を止めてください」

 それが賢人の声であることに、梨花はようやく気づいた。

 喜久夫が「どうしたんだ?」と尋ねた。

「外を見てください」

 賢人の訴えを耳にした梨花は、ドアガラスの外に目を向け、すぐに気づいた。

「喜久夫おじさん、早く車を止めて!」

 梨花が大きめの声で伝えると、喜久夫はウインカーを左に出してミニバンを道の左に寄せた。あかがわの数百メートル手前だった。

 エンジンはかかったままだが、喜久夫がサイドブレーキをかけたところで、梨花はシートベルトを外して車外に出た。

 左のリアドアが開き、額当てを左手に持ったままの綾と、続いて賢人が降りてきた。そのあとには人志が続く。エンジンを切らずに、喜久夫も運転席から降りた。

 全員がドアを閉じるのも忘れて、路上で周囲を見渡した。

「雪……」

 その景色を見て梨花は独りごちた。雪を戴いた山並み――そんなふうに見えたのだが、違う、とすぐに悟った。

 朱の里を取り囲む山並みの稜線が白っぽく光っていた。山の向こうが明るいのではなく、山自体が光を放っている。しかも、全方位だ。そして光は、徐々に麓へ向かって広がっていく。

「これが山神様のたたりなのか?」

 周囲の山並みに目を走らせながら、誰に問うでなく、喜久夫が口にした。

「たぶん、そうだと思います」

 愕然とした趣で綾が答えた。

 異変はそれだけにとどまらなかった。山並みの稜線から光の幕のようなものが星空に伸び上がっていくのだ。稜線から下りてくる光と同じ色合いのそれは、逆さにしたオーロラのようでもあった。全方位から伸び上がり、次第に星空を覆っていく。

「おれたちを閉じ込めるつもりなんだ」

 賢人のそんなつぶやきに、仁志が「もう、逃げられない」と繫げた。

「でも」と言いさして、梨花は口を閉じた。雅之たちがなんとかしようとしているのだから、希望を捨ててはならない。そう伝えたかったのだが、現状を目にして断念した。

 伸び上がる光の幕も山肌を這う光る何かも、その規模が圧倒的すぎた。東の空に浮かぶ月よりもわずかに明るい程度だが、全方位であり、しかも上下に徐々に広がっていくゆえ、面光源としての面積が月とは比ぶべくもなく、山々の裾や田畑、点在する建物などを煌々と照らしている。

 これをいかにして止めようというのだろうか。

 人が取るに足らない存在であるのを、梨花は知らされた気分だった。


 梨花と賢人と人志が儀式に乱入したこと、和彦が命を落としたこと、梨花や仁志に加えて綾と賢人も喜久夫がミニバンで芹沢本家宅へ連れていくこと、詳細は喜久夫が話してくれること、自分自身がほかの者とともに葛城宅で事態の収拾について話し合うこと――など、概要を手短に信代に伝えた。当然のごとく信代はいくつもの質問を浴びせてきたが、雅之はそれを遮って通話を切った。

 雅之はスマートフォンをフォーマルスーツの内ポケットに入れて一息つくが、勝義も岡野も大賀も柴田も、それぞれがスマートフォンでの通話中だった。事態を解決するために有志を募っている最中であり、ゆえに「山神様」「儀式が失敗した」「和彦くんが死んでしまった」などの言葉が聞こえてくる。陰惨な光景が蘇るが、耳を塞ぐわけにもいかず、雅之は皆からわずかに距離を取った。

 岸本を入れた棺はすでに霊柩車に載せてあった。各自の連絡が済んだら皆で葛城宅へ移動する、という段階に差しかかっている。そのためにも、山神の広場の東に停めてあるという仁志のSUVを取りに行きたいのだが、誰にも声をかけないで、というわけにはいかないだろう。

 誰かの通話が終わるのを待つことにした雅之は、所在なく周囲の闇に視線を流した。霊柩車のエンジンはまだかけておらず灯火類も点いていないが、月明かりと賢人が置いていった提灯だけでどうにかなった。必要ならば、雅之のズボンのポケットにある小型懐中電灯を使えば済む。

 ふと、違和感を覚えた。月明かりがさらに明るくなったような気がして、雅之は顔を上げた。

 山神の斎場のある雑木林の梢が――否、それよりもさらに奥、山の上のほうが明るいのだ。視線を東にずらすと、山並みの稜線に沿って光が放たれていることがわかった。雅之は光を追って首を巡らせるが、それだけでは追いきれず、結局、体を時計回りに一周させてしまう。つまり、朱の里を囲繞するように山並みの稜線が光っている、ということだ。

「なんだ……あの光は……」

 雅之が声を漏らすと、その動揺に気づいたらしい勝義が、スマートフォンを耳から離した。というより、ちょうど通話を切ったところだったらしい。

「雅之くん、どうしたんだ?」

「あれを見てください」

 説明するよりも目にしてもらったほうが早いだろう。うまく説明することができなかった、という理由もある。

 勝義はスマートフォンを懐に収めると、雅之の視線を追って北の雑木林を見上げ、続いて東と西を見てから、南を振り向いた。

「まさか山神様が?」

 勝義のその声に煽動されたのか、残りの三人がスマートフォンを耳に当てたまま周囲を見渡した。そして三人とも、通話中にもかかわらず、口を開けた状態で言葉を詰まらせる。

「葛城さん」雅之は勝義に顔を向けた。「これは、山神様がしていることなんですか?」

「山神様のたたりという最悪の事態がどんなものなのか、『天帝秘法写本』に具体的な記述は見当たらないが……山神様がお怒りになればこの山里のすべてに災いが降りかかる、ということだけは記されている。ならば、朱を取り囲むあの光は、その予兆であるのかもしれない」

 などと勝義が言っているそばから、山並みの稜線沿いにとどまっていた光が、下へと広がり始めた。

「生きているみたいだ」

 雅之はおののきつつ、思ったままを口にした。

 しかし、それだけでは済まされなかった。稜線の光は上にも広がっていくではないか。

「これは……間違いない。山神様のたたりだ」

 断言した勝義が、こわばった面持ちのまま、静かに息を吐いた。

 兄を失った衝撃が冷めやらぬうちの事態の展開に、雅之は目まいがしそうだった。


 玄関で靴を履いた裕次が、上がり口に立つ昌子に顔を向けた。裕次は農作業用の作業服に運動靴という出で立ちだ。

「軽トラで行くから、出かけるときは大きいほうを使ってくれ」

 裕次の言う「大きいほう」とは、ドライブや遠方への買い物などで使うミニバンだ。朱地区内での移動ならば、農作業時に限らず概ね軽トラックを利用している。

「わたし、今日はもう出かけないわよ」

「何が起こるかわからないじゃないか」

「何が起こるっていうのよ」

 昌子は意地になった。不安がそうさせた。

「だから、わからない、って言っているんだよ」

 奥歯にものが挟まったような言い方だった。憂慮していることがありそうだが、訊けば拒絶されるに違いない。いつだってそうなのだ。山神に関する話題は、真相にふれないまま終わるのである。急用が何かを裕次は明言していないが、山神の儀式で不測の事態が起きたために岡野に呼び出された――おそらくそんなところだろう。

 自分が車で出かける事態などありそうにない、と昌子は思ったが、取り合えずは裕次に逆らわないでおくことにした。

「じゃあ、留守を頼む」

 言って裕次は玄関の引き戸を開けた。

「行ってらっしゃい。気をつけてね」

 見送りの言葉を昌子が口にしたとき、背中を向けて宵闇に出た裕次が「うわっ」とうめいた。

「どうしたの?」

 昌子は問いつつ、サンダルを突っかけて裕次と並んだ。

 玄関の正面、南の方角に、水平方向に伸ばされた帯状の光があった。しかしよく見れば、光っているのは山並みのほぼ上半分であり、さらに山並みから上空に向かって光が広がっていくところだった。

「何が起きているんだ?」

 裕次はつぶやいたが、訊きたいのは昌子のほうである。

 さらに見渡せば、東から西まで、見える範囲の山伝いにその光は伸びていた。

 とっさに、昌子は庭の東の端へと走った。そして家の裏のほうを見る。家は平屋だが裏の木立が北の視界を遮っているため、さらに東へと立ち位置をずらし、宵闇の遠景を確認した。

 北の山並みも光っていた。星空もほかの方角と同様に侵食されていくところだ。

 遅れて昌子の隣に走ってきた裕次も、それを見た。

「朱が、囲まれている」

 愕然とした様子で裕次は言った。

「山神様の儀式は今回が最後だもの、何か特別なイベントとかで山や夜空をライトアップしているんじゃないの?」

 論理的な答えを導き出したく、そう尋ねた。

「そんなんじゃない」否定して、裕次は昌子を見た。「おれから連絡があるまで、絶対に家の外に出るんじゃないぞ」

「でも……」

 承諾の返事ができなかった。むしろ、言わなければならないことがある。

「あなた、行かないほうがいいよ」

「大事なことなんだよ。行かなくちゃならないんだ」

 言葉以上に、その表情が堅固さを表していた。

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