第3話 ⑥

 最終バスには乗れそうだ――という真樹夫からのメッセージが沙織のスマートフォンに届いたのは、午後七時五十六分だった。「わたしと満里奈は夕食を済ませたよ」と返信し、沙織はスマートフォンをリビングテーブルに置いた。

 満里奈は風呂から上がったばかりだ。自分も風呂に入ってしまおう――そう思い、着替えを取りに二階の寝室に向かおうとした。

「お母さん、ちょっと来て!」

 二階から満里奈の大声が届いた。

 どうせまたゴキブリかカメムシなどが出たに違いない。ため息をつきつつ、沙織は階段の照明を点け、二階へと向かった。声からすると満里奈は部屋ではなく二階ホールにいるらしい。

「電気、消してよ」

 いきなりそう告げられたが、沙織は階段を上がっている途中だ。

「何を言っているのよ。今、階段を上がっているところなの。危ないから消さないでね」

 沙織は二階ホールに着く直前にそう返した。ホールにいるならこの言葉は届いているはずだ。

 階段を上りきった沙織は、トレーナーにスカートという普段着姿の満里奈がホールにいるのを確認した。沙織たち夫婦の寝室のはす向かいに満里奈の寝室があり、そのドアの前で、南向きの掃き出し窓に正面を向けて立っている。窓の外はベランダだが、どうやらその向こう――外の様子を窺っているらしい。

「ねえ、早く電気を消して」

 振り向きもせずに満里奈はせかした。

 窓にへばりつくなら、確かに照明は落としたほうがよさそうだ。近所から丸見えでは満里奈も体裁が悪いだろう。階段の照明と二階ホールの照明は連動しているため、満里奈の意に沿わない状態にしてしまったわけだ。

「じゃあ、電気を消すよ」

 予告したうえで、沙織は階段の照明を落とした。ホールの照明も同時に落ちる。

「電気が点いているとね、自分の顔やうちの中の壁とかがガラスに反射して、外の様子が見づらいの」

 背中でそう言われ、沙織は「そいう理由なのね」とつぶやいた。それでも窓ガラスには、ブラウスにジーンズという沙織の姿が映っている。

「ねえ、あれ見て」

 促された沙織は、満里奈に並び、自分の姿が映らなくなるようにガラスに顔を近づけた。

 真っ先に目に飛び込んできたのは、向かいの家のシルエットだ。そちらの二階は照明が一つも点いていないが、一階のおそらくはリビングであろう部屋が、煌々としている。

 そんな向かいの家のはるか遠く、あか地区の南に立ちはだかる山並みの上半分が白っぽく光っていた。東から西まで、見える範疇で光が帯状に続いている。さらに、山並みの稜線から上空へと、光の幕がゆっくりと伸び上がっていくのも確認できた。

「何よ、あれ」

 瞠目したまま、沙織は声を漏らした。

「わかんないけど、空に広がっているのは、逆さにしたオーロラみたいだね。……そっか、オーロラと同じ原理で起こっている自然現象かもしれないよ」

 意気軒昂とした口調だった。

「その原理って、どんなのだっけ?」

 目にしている光景が気になれば、当然の疑問だった。

「えっとね……忘れた」

 異様な光景を見つめたまま、満里奈は答えた。

 本気で聞いた自分を悔いた。それ以前に自分も知らないのだから、満里奈を責められる立場ではない。

「あ、そうだ」満里奈はようやく沙織に顔を向けた。「反対側も同じなんだよ」

 瞳を輝かせる娘に得体の知れない危険性を感じながらも、沙織はホールの反対側に顔を向けた。

 北向きの中窓の外、南の山並みよりも遠くに、山並みを覆う光の帯と空に伸び上がるオーロラ状のものが見えた。

「ということは」独りごちた満里奈が、彼女の寝室へと入った。「やっぱりだ。お母さん、東も同じだよ。山と空が光っている」

 ドアを開けたまま、満里奈は歓声を上げた。

 ならば、と沙織は自分の寝室に入った。ドアを開けたまま、西向きの窓へと進み、閉じてあったカーテンを開けた。

 隣家の屋根が視界の半分ほどを遮っているが、予想どおりの光景が展開しているのは把握できた。意図して作られた人工的な光、とも思えなかった。満里奈の言うとおり、なんらかの自然現象のような気がするが、それにしても異様すぎる。

 ともかく、朱地区の全方位をあの光に囲まれているのは明らかだ。この現象が自分たちに益をもたらすのか害をなすのか、沙織はそれが気になった。

「ねえお母さん」いつの間にか、満里奈が隣に立っていた。「車で近くまで行ってみようよ。どうなっているのか、よくわかると思うの。お父さんを迎えに行くついでに、ね」

 期待に胸を膨らませる様子だが、沙織は首を横に振った。

「お父さんは最終バスに乗れるそうよ。だから、行かない」

「えー」と声に出してから、満里奈は頬を膨らませた。

「それに危険すぎるの。あんな光り方って普通じゃないでしょう。何が起こっているのか、まだわからないのよ」

「何が起こっているのかわからないということは、危険かどうかもわからないっていうことじゃん」

 眉を寄せて訴えられたが、沙織はそれを受け入れるつもりはなかった。

「安全であることが立証されるまではだめ、ということよ」

「じゃあ、友達に連絡して、家から見える範囲だけスマホで動画を撮影して……それだったらいい?」

「まあ、それならいいよ」

 沙織が許諾すると、満里奈は渋々と頷いて部屋を出た。どうやら自分の部屋に戻ったらしい。ドアを閉じる音がしたが、こちらの部屋のドアは開けたままだ。自分の部屋にこもってあの不可解な現象を撮影する――おおかた、そんなつもりなのだろう。

 満里奈の言う友達とは、どの範囲なのだろか。朱地区に越してくる以前の友達も含まれているのだろうか。転校してからたった一年で友達は増えたらしい。しかし、以前の友人らとも連絡は取り合っているという。いずれにしても悪い友達はいなようだ。ならば「あの光の近くに行ってみよう」などという話には発展しないだろう。

 もう一つ気になるのは、これは朱地区の周辺の山に限った現象なのかどうか、ということだ。自分たちが以前に住んでいたのは金盛市の外だが、もしかするとそこでも起きているかもしれない。

 沙織はさっそく一階のリビングへ行くと、リビングテーブルからスマートフォンを取り、以前の近所仲間であるさいとうのりに電話をかけた。

「あら沙織さん、久しぶり」

 口火を切ったのは典枝だった。

 沙織は挨拶もそこそこに、朱の里を取り囲む謎の光景を伝えた。

「それって、超常現象っていうやつ?」

 一つ年上の典枝は、まるで子供のようにはしゃいだ。

「わからないんだけど、そっちではそんな光は見えないよね?」

「えーと、窓から景色を見てみるね」と典枝が外を窺う様子が伝わってきた。「ないよ、そんな光」

「そうなんだ」と返して、沙織はリビングの照明を落とした。そしてテーブルや椅子に注意しながら、リビングの窓に近寄る。東向きの掃き出し窓のカーテンをそっとめくり、外の様子を窺った。二階ほどの眺望は望めないが、家々の間に異様な光の光景が垣間見えた。

「もしかして」典枝は声の調子を落ち着かせた。「何かのお祭りとか、工事をしているとか、そんなんじゃないの?」

 可能性はない、とは言えないだろう。だが、どうしてもそんなふうには見えない。

 とりあえず、以前の居住地では見られない現象であることはわかった。適当に話を繫いでやり過ごし、沙織は通話を切った。

 スマートフォンを片手に持ったまま窓の外を見ていると、路上にいくつかの人影が現れた。その中の二人――スウェットスーツ姿の二人が近所の蛭田夫婦であることを、沙織は認めた。どうやら人々は、異様な光を眺めながら話し込んでいるらしい。

 自分は一人ではない。

 自分には仲間がいる。

 不安を共有できる者が身近にいることを悟った沙織は、スマートフォンをジーンズのポケットに差し込んでリビングを出た。戸数が二百十の新興住宅地だが、話せる住人は少ない。だが少ないぶん、どうしても頼ってしまう。

「満里奈、お母さんは外に出ているからね」

 電話にしろメッセージのやりとりにしろ撮影にしろ、夢中になっている最中かもしれない。返事は期待しなかったが、念のために声をかけた。

「やっぱり車で出かけるの?」

 想定外の言葉だった。

「違うよ」玄関で靴を履きながら返す。「門の外で、ご近所さんとお話しするの」

「なんだ」

 肩を落としたような声が聞こえた。

 満里奈の言葉を捨て置き、沙織は玄関のドアを開けた。


 雅之からの電話は一方的に切られてしまった。火葬祭がうまくいかなかったらしく、おまけに和彦が死んだというのだ。和彦の件についてはとても事実とは思えないが、梨花と仁志が山神の斎場にいたという話は、不思議なほど腑に落ちてしまった。梨花と仁志は喜久夫がミニバンで連れ戻るそうだが、綾と賢人も一緒に来るという。とにかく詳細を伝えられておらず、いわんや信代にしてみれば雑駁な話なのだ。

 これらを芹沢本家宅に残っている者たちに伝えるべきなのか、雅之はそれを明言していなかった。喜久夫からの説明があるというが、ならば自分はへたにしゃべるべきではない、とも思える。スマートフォンをハンドバッグに入れた信代は、玄関の上がり口に立ったまま、どうすればよいのかわからず、途方に暮れてしまった。

「あ、信代さん」

 玄関に入ってきたのは野口だった。近所から参加の年配組はそろそろ帰宅するということだったが、その前に庭でたばこを吸っていたのだろう。それにしてもこの老人は、落ち着きを失っているようだ。

「野口さん、どうしたんです?」

 尋ねた信代は、自分のほうこそ落ち着けない事情を抱えている、と訴えたい気持ちをこらえた。

「いや、それが……」

 言葉を詰まらせた野口は、三和土から上がろうとしない。

「どうしたの?」と声をかけてきたのは、台所にポットを取りに行っていた淳子だ。すでに普段着に着替えていた彼女は、ポットを右手に持ったまま、不審そうに信代と野口を交互に見やった。

 雅之からあんな電話があったばかりであり、信代は淳子の顔をまともには見られなかった。どのように切り出そうかと思案するが、言葉にならない。

「大変なんだよ」野口が言った。「山が……」

 野口が何を訴えようとしているのか不明だが、少なくとも雅之からの電話の内容は信代の中でまだ整理されておらず、野口の訴えよりも茫漠としている。野口の問題から取り組んだほうがよい、と感じた。

「山が?」

 信代は野口を促した。

「うまく言えない……見てもらったほうがいいな。大広間のみんなを呼んでくれないか」

 そんな言葉に信代と淳子は顔を見合わせた。

「何かあったみたいね」

 神妙な面持ちで淳子は言った。

「わたしがみんなを呼んできます」

 信代は申し出るが、淳子は首を横に振った。

「これを大広間に持っていくところだったし」淳子は右手のポットを掲げた。「ちょっと待っていてね」

 告げるなり、淳子は大広間のほうへと小走りに立ち去った。

 野口の焦燥が気になった信代は、靴を履いて玄関の外を見た。

 真っ先に目に入ったのは、ガレージの横にバックで停められた紀夫のSUVだ。そのフロントガラスが光を反射しているが、玄関の照明でないことはなんとなくわかった。その光源を探って、敷地の外に視線を飛ばす。

 門の外、南の方角に、横長の光が見えた。庭の木立が間にあるため、ここからではよく見えない。

「山が光っているんだよ」

 野口が言った。

「山が?」

 疑問をそのまま口にしたが、訴えている野口自身が事態を把握できていないのだから、答えは期待できない。野口の言うとおり、自分の目で確認したほうが早いだろう。

 信代は玄関を出ると、門のほうへと向かった。その時点で、異様な光景が広がっているのがわかった。南だけでなく、東も西も、木立の切れ間から光りの帯のようなものが見えるのだ。

 門を出た信代は、道を渡り、田んぼのあぜ道の端に立った。そして周囲を見渡す。

 山並みの稜線から中腹までを覆う光と、星空に立ち上がっていく光とが、ぐるりと朱の里を取り囲んでいた。東の空では、立ち上がっていく光によって月が飲み込まれようとしている。信代がその異様な光景をどうにか認識したところで、大広間にいた者たちが門から出てきた。

「何よこれ」

 信代の横に立った時子が、虚を突かれたような声を漏らした。

 時子だけではない。門の外に出た皆が、騒然となった。

「信代さん」

 背後から声をかけられて振り向くと、フォーマルスーツのままの紀夫が立っていた。

「さっきの電話、雅之くんからじゃないか?」

 そう尋ねられて、信代は「ええ」と首肯した。

「火葬祭で何かあったとか?」

 重ねて尋ねられ、信代は答えに窮した。

「あなた」時子が紀夫に顔を向けた。「それとこの変な光りとは何か関係がある、って言いたいの?」

 問われて紀夫は、南の方角――遠くの異様なな光景を睨んだ。

「前々から怪しい風習だとは思っていたんだ。もしかしたら本当に山神という何かが存在するんじゃないか、ってね。ばかばかしいとか、迷信だとか、最初のうちはそう思っていたんだけど、だんだんと、何かある、と感じるようになったんだよ」

「だって、ただの宗教でしょう」

 そう言って首を傾げた時子に、紀夫は顔を向けた。

「時子だって山神信仰がなんたるかを、知らないんだろう?」

「それはそうだけど」

「雅之くんから信代さんに電話があった。しかし埋葬が終わるまでは、緊急事態とか特別な用でもない限り、電話なんてないはずだ」

「緊急事態……」と復唱した時子が、信代に視線を移した。紀夫も信代を見る。電話の内容の催促であろう。

「そしてこの光だ」信代を見たまま、紀夫は言った。「この不可解な現象があって、それとほぼ同時に雅之くんから電話があった。何かとんでもないことが起きた、と勘ぐっても当然じゃないか」

 どうやら逃げ道はないらしい。とはいえ、憶測で語れることではないのだ。

「確かにうちの人から電話があったわ。思わぬ事態に陥ったらしいの。でも詳細はわからない。喜久夫おじさんが先に戻ってくるから、そうしたら話が聞けると思う」

 信代の言葉に時子は眉を寄せた。

「喜久夫おじさんが先に?」

「そう聞いたわ。ほかの人たちは、事態を収束させるために葛城さんの家で話し合うんだとか」

「事態の収束だなんて、ただごとじゃないな」

 言って紀夫は、小さなため息をついた。

「それから、喜久夫おじさんが梨花と仁志くんを連れてくるらしいわ。あと、葛城さんちの綾ちゃんと賢人くんも、だって」

 信代が付け加えると、時子はわずかに愁眉を開いた。

「梨花ちゃんがいたのね?」

「ええ」

「でも、どうして仁志くんまでが?」

 時子のそんな問いに信代は「それもわからないの」と答えた。それ以外に言葉が見つからなかった。

「斎主である綾さんが来るのはなんとなくわかるけど……賢人くんって確かその弟のはずだが、どうして彼が?」

 紀夫の問いを受けた時子は、ここまでの流れならばそれを問われても答えられるはずがないでしょう、とでも言いたげな表情だった。

「あの……」と言いかけて、信代は門の前の面々を見た。その中には淳子もいるが、信代たち三人からは離れた位置だ。それを確認して、信代は時子と紀夫に顔を向けた。

「どうしたの?」

 訝しげな目で、時子は信代を見た。

「和彦さんに何かあったらしいの」

 信代は声を抑えてそう告げた。

「和彦さんに?」

 問い返した紀夫も声を抑えた。

 信代は続ける。

「和彦さんが死んだ、ってうちの人は言っていた」

「和彦兄さんが……どういうこと?」

 当然の反応を示した時子だが、彼女の顔はすでに青ざめていた。

「雅之くんが、そう言っていたのか?」

 そう尋ねる紀夫も、時子と同様の顔色を呈していた。

「言っていたわ」信代は答えた。「でも、わたしだってそんなことは信じられないし、詳しいことがわからないから、淳子さんにはまだ言っていない。というより、うちの人から電話があったことは、あなたたち二人にしか言っていないの」

「なら、喜久夫おじさんが戻ってくるのを待つしかないな」

 紀夫のその言葉に信代と時子はそろって頷いた。

「あっ」と声がした。淳子の声だ。

 今の話を聞かれたのかと思い、信代は肩をすぼめ、おそるおそる門のほうに正面を向けた。時子と信代もそっと同じほうに顔を向ける。

 淳子は自分の家のほうを見ていた。淳子だけでなく、ほかの者たちも同様だった。

 何が起こったのか、信代がそれに気づくまでに三秒ほどかかった。

 本家宅の一切の照明が消えていた。さらに見渡せば、道沿いの街灯も、周囲の家々の照明も、明かりのすべてが消えている。

「停電だ」

 言ったのは、声からすると最年長の金成だ。

 しかし、一帯が闇に包まれることはなかった。

 山並みにへばりつく光と星空を侵食していく光によって、朱の里は照らされていたるのだった。

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