第4話 ④
用意された照明器具はLEDランタンだった。全部で十二個もあるという。災害時のためにまとめて購入したということだが、どうやら近所のぶんまで備えておいたらしい。二個が玄関に置かれ、残りの十個も、廊下やトイレなど家中のあちこちに配置された。
棺は雅之と岡野、大賀、柴田の四人で葛城宅の九畳間に運ばれた。眠ったままの岸本は棺から出され、畳の上に仰向けにされた。フォーマルスーツの上に薄い毛布がかけられたが、彼の横に置かれた棺はそのままだ。
岸本が屋内に運ばれて間もなく、矢田裕次がやってきた。ツバキの生け垣の外に停めた軽トラックから降りた裕次を、玄関先で待機していた雅之が迎えた。
「雅之くん、大変なことになっちまったな」
開口一番にそう告げられ、雅之は恐縮しつつ頭を下げた。
「うちの祭儀で不手際がありました。申し訳ありません」
「起きてしまったものはしょうがない。和彦くんのこともあるし、つらいのはわかる。みんなでなんとかしよう」
裕次は雅之の肩を軽く叩き、光の幕によって覆い尽くされた空を見上げた。
雅之も見上げる。
「あの光のせいなのか、スマホでの通話ができなくなりました」
「スマホもか」裕次は雅之に顔を向けた。「さっき、自宅の固定電話で葛城さんちに電話をかけようとしたんが、まったく繫がらなかったんだ。停電のせいなんだろうが」
それは葛城家の固定電話で確認したばかりだ。裕次と視線を合わせた雅之は、皆から出た意見を要約して口にする。
「停電だけが理由ではないかもしれません。電話線そのものがあの光の影響を受けている可能性があります」
「固定電話や公衆電話も使えないかもしれない、ということだな」
「そうですね」雅之は頷き、そして言う。「とりあえず中へ」
裕次を玄関の中へと促した雅之は、ほかの来訪者を迎えるために、引き続きその場に佇んだ。玄関の中を覗けば、廊下へと上がった裕次が、迎えに出た勝義にいざなわれて奥へと進んでいくところだった。
煌々と照らされる野山に顔を向け、雅之はその忌避すべき明かりに顔をしかめた。
信代や梨花がどうしているか、それが気がかりだった。特に梨花の精神状態を慮ってしまう。雅之が山神の姿を目にするのはこれで二度目だが、梨花にとっては初めてであり、しかも彼女は予備知識さえなかったのだ。そればかりか梨花は、和彦の死という惨劇をも見てしまったのである。高校生の少女がこの異常な状況にはたして耐えられるのか――雅之は愛娘を不憫に思った。
もっとも、本家宅には俊康や喜久夫、紀夫がいるはずだ。梨花が精神的な不安を抱えていても、彼らならうまく支えてくれるだろう。むしろ、信代や時子が一緒だということのほうが落ち着ける要因かもしれない。いずれにしてもそんな安心材料がなければ、この異例の事態に対処すべく論理的な思考に基づいて皆と意見を交わす、など不可能である。
あるいは――と雅之は思う。山神信仰の家に生まれた自分がその信仰とかかわりのない者を妻とすること自体が間違いだったのではないか、と。己の妻子に対する罪悪感を、どうしてもぬぐいきれなかった。
車の音がした。生け垣の外を見れば、裕次の軽トラックの後ろに軽ワンボックスが停車したところだった。
軽ワンボックスの運転席から降りた眼鏡をかけた細身の男が、雅之の立つ玄関先へと歩いてきた。東郷の住人の
木村は三年前に父を亡くしており、三十七歳という若さで山神信仰に携わらなければならなくなった。三十代以下の山神信者は少数だ。山神信仰にきな臭さを感じたのか、木村のような若くして跡を継がなければならなくなった者が仏教やほかの宗教に改宗した、という例もある。
「スマホと固定電話に留守電が入っていることに、気づくのが遅くなりました。家族はさっきまでご近所に出かけていたし、自分は仕事に没頭していて……」
申し訳なさそうに言った木村はエンジニアであり、在宅勤務が多い。木村への連絡を担った雅之は、彼がこの日も自宅で仕事中だったことを、彼から折り返しにもらった電話で知ったのだ。
「いや、ここに来たのは君でまだ二人目だよ。それより、せっかくの週末なのに、とんだ迷惑をかけてしまった。すまない」
雅之が頭を下げると、木村は首を横に振った。
「何を言うんです。和彦さんが亡くなられたんですよ。それに危うい信仰なんですから、何が起きてもおかしくない」
核心を突く言葉だった。これを否定する者はいないはずだ。
「不謹慎かもしれませんが」木村は続けた。「おれはあの山神というやつを神様だなんて思っていません」
「おれも同じだ。誰もがそう思っているに違いない」
ついに本音が出てしまった。勝義の前では口にしづらい言葉だが、おかげで踏ん切りがついた。兄を食い殺したあの化け物を、雅之はもう二度と神として崇めないだろう。
木村を玄関の中へと促した雅之は、光の天蓋を見上げた。憎しみを込めて、それを睨みつけた。
蛭田夫婦とは同年代であり、沙織にとっては気の置けない隣人といえよう。ほかの住人たちがそれぞれの家に戻っても、沙織と蛭田夫婦の三人だけは路上に残った。
その間にも新たな情報が飛び込んできた。インターネットが使えないだの、スマホでの電話もメールも不通だの――もっともそれらは、蛭田夫婦が立ち話をしながらスマートフォンをいじっていたがために知って当然の現実である。スマートフォンを手にして焦燥する夫婦を見た沙織は、自分のスマートフォンでもそれを確認し、事態の深刻さを思い知るに至った。
街灯も家々の明かりも皆無だが、天空を覆う光によって夜のグリーンタウン平田は照らされていた。光の天蓋の光量自体はさほどでもない。暗い光がオーロラのごとくゆったりと揺らめいている。それでも空全体が光っているために、地上は満月に照らされるよりも明るいのだ。
光の幕によって覆われてしまった空を見上げながら、上背のある蛭田
「ネットが通じなくなるちょっと前にSNSを覗いたら、この現象について騒いでいるやつがいたんだよ。そいつは山火事だと思っているみたいだけど、とにかく金盛の市街地からでもこの怪しい光は見えるそうだよ」
そう言って、修司はスマートフォンをスウェットパンツのポケットに入れた。
「どんなふうに見えたって?」
修司の妻の
「詳しく見ようとしたとたんにネットが切れちゃって、大まかなことしかわからないけど、市街地から
修司の答えを聞いて、京子は得心したように頷き、スマートフォンをなでる手を離した。
「なるほど。これはドーム型のオーロラみたいなものね」
彼女の顔は喜んでいるようにも見えた。というより、実際にはしゃいでいる。
この状況下で何が楽しいのか、沙織は理解に苦しんだ。もっとも、それがこの夫婦の魅力でもある。ご近所のムードメーカーであるのは、住人の誰もが認めるところだ。
「沙織さん、どうしたの?」
京子に声をかけられ、沙織は慌てて表情を柔らかくした。
「いえね、えっと……オーロラって磁気とか電磁波でできているっていうでしょう。それで電波が遮断されちゃったのかな、って考えていたの」
満里奈とのやり取りで気になったためにインターネットが使えるうちに検索して得たにわか知識であるが、我ながら上出来の即興であると感心した。
「うーん」と首を傾げた修司が沙織を見た。「あれって、本当にオーロラなのかな?」
とたんに京子が、しかめ面を修司に向けた。
「いいじゃない。わからないんだから、いろんな仮説が立てられるんだよ」
「だったら、オーロラじゃないかもしれない、というのも立派な仮説だろう」
修司は表情を変えずに反論した。
そんな二人を見て、沙織はやはりどこかがずれているような感じを受けた。それとも緊迫感を抱いている自分のほうが変わっているのだろうか。
ため息をつきたいのをこらえ、右手に持ったままのスマートフォンを操作しようとして、思いとどまった。真樹夫がどうしているか、連絡を取りたかったのだが、それが不可能であることに改めて気づくという始末だ。そそくさと、スマートフォンをジーンズのポケットに差し込む。
「もしオーロラだとしたら、近くまで行って、実際に見ることができるのかなあ」
間延びしたような声で京子がぼやいた。
満里奈と同じレベルである、と沙織は思った。普段であれば楽しい雰囲気にもなるだろうが、京子の高ぶり具合は現状には不釣り合いだ。
「オーロラは磁気や電磁波でできている、って沙織さんが言っていたじゃないか」修司が意見した。「空のあれがオーロラだとすれば……だとすればだが、スマホもそうだけど、車の電子部品もだめになるかもしれないんだぞ」
「車というか、歩いていける距離だよ」
京子が反論すると、修司は肩をすくめた。
「
その進――蛭田夫婦の長男と、次男の
「お母さん」と背後から声をかけられて、沙織は振り向いた。自宅の門を背にして満里奈が立っていた。
「懐中電灯、三個見つけたけど、それで足りるかな?」と沙織に尋ねた満里奈は、蛭田夫婦に顔を向け、「こんばんは」と頭を下げた。
「こんばんは」
蛭田夫婦は声をそろえた。
「探してくれたんだ。ありがとう」
頼んだわけでもないのに気遣ってくれる――そんな娘に沙織は感謝した。
「うちも照明を用意しないとな」
修司が言うと、京子が頷いた。
「アウトドア用の照明があったね」
「確か二つあったな。カーテンを開けておけばあの光が入るから、それだけで間に合うだろう」そして修司は、沙織を見た。「真樹夫くんはまだ帰宅していないのかい?」
「ええ。残業で遅くなる、って連絡があったの。もう連絡が取れないから、最終バスに乗れたかどうか、それがわからない」
真樹夫はおそらく朱地区の異変を知っているだろう。そろそろ最終バスが駅前を発車する時刻だが、こんな事態ではバスが運行するかどうかさえ怪しい。IHクッキングヒーターや電子レンジが使えないために真樹夫のぶんの夕食を温め直せないことなど、取るに足らない問題だ。冷蔵庫の中身がだめになってしまうのも致し方ない。当事者の真樹夫もそうだろうが、沙織も気が気ではなかった。
「やっぱり迎えに行ったほうがいいかしら」
行動を決められず、沙織は独りごちた。
「いや」修司が口を開いた。「さっきも言ったけど、車に悪影響があるかもしれないんだ。途中で止まっちゃうかもしれないよ。この現象の原因が判明するまでは、やめておいたほういい」
「そうよ。とりあえず、最終バスが来るかどうか、それを待ったほうがいいわ」
京子が追従した。
「そうね」と首肯して、沙織は満里奈を見た。
不安げな眼差しで、満里奈が沙織を見つめていた。
朱地区の上空を覆う異様な光を真樹夫が実際に目にしたのは、最終バスが駅前を発車して数十秒後だった。電車の中や電車を降りた時点でもまったく気づかなかったが、バスターミナルへ向かう途中ですれ違った二人組の若い男女の会話で、朱の変事をようやく知った次第だ。
「さっき見えたのは、やっぱり山火事よね?」
「消防車が走っていったし、そうみたいだね。あの方角だと、朱だな」
などという会話を耳にしたのだから、落ち着いていられるはずがない。とりあえずバスターミナルへと急ぎ、発車まで二分というきわどさでバスに乗車した。そして一番後ろの席に座ってビジネスバッグを脇に置くと、ズボンのポケットから出したスマートフォンで連絡を試みたが、沙織や満里奈――どちらのスマートフォンにも、そして自宅の固定電話にもまったく繫がらなかった。メッセージやメールも試したが、いずれも反応はないままだ。気もそぞろであるが、沙織や満里奈からの連絡があることを願って、スマートフォンを手にしたままうつむいた。
バスが動き出してしばらく経ち、真樹夫は車窓の夜景に目を投じた。異様な現象がビルの間から垣間見える。乗客は真樹夫を含めて男ばかりの五人だけだったが、その誰もが固唾を飲んだ――否、乗客ばかりではない。
「あれはなんだ?」
運転手の声がスピーカーから聞こえた。
「運転手さん」運転席のすぐ後ろにかけていたサラリーマンとおぼしき五十がらみの男が運転手に声をかけた。「あそこは朱じゃないか?」
「ですね」
三十歳前後の運転手が答えた。
「なんだか山火事みたいだけど、行けるの?」
不安そうに五十がらみの男が問うた。
「山火事かどうかはわかりませんが、営業所からの連絡はないし、まあ、通常どおりに行ってみます」
「おれは朱よりだいぶ手前だから問題ないけど」
そう返した五十がらみの男は、それでも不安げに窓の外を眺めている。
「
運転手がアナウンスした。坂田宿の先には四カ所の停留所があるが、その四カ所のすべてが朱地区内だ。真樹夫が下車するのは坂田宿の二つ先である。
「朱の平田で降ります」
名乗り出たのは真樹夫だけだった。
「わかりました」
運転手はそうとだけ答えた。乗客である真樹夫が気遣う必要はないが、それでも「この運転手は面倒な事態を避けたいに違いない」と勘ぐってしまう。無論、好んで自ら進んでやっかいごとに飛び込む人間は少ないはずだ。畢竟、朱地区で不測の事態が起きていた場合は、その手前で運行を取りやめて営業所に戻る、という対応を考えているのかもしれない。
金盛の夜の市街地は明かりが乏しかった。日中でさえ人通りの少ない街なのだ。いずれにせよ、今の街並みの寂寥さが真樹夫の不安をよりいっそう肥大させる。
いたたまれず、またしても沙織のスマートフォンに電話をかけるが、やはり反応はなかった。満里奈のスマートフォンにもかけてみるが、こちらも繫がらない。
試しに職場の後輩の
「お疲れ様です。残業、終わったんですか?」
先に宮本が短い挨拶をした。
「あ……ああ」とっさにかけたため言葉を用意していなかったが、それでもどうにか訊いてみる。「今、帰りのバスの中なんだけど、金盛市の朱地区で事故とか事件とかが起きている、っていうニュース、やっていないか?」
「朱……って、石塚さんの家があるところじゃないですか?」
「そうだ。その朱がニュースに出ていないか、って気になってな」
「何かあったんですか?」
問われた真樹夫は、見たままの光景と家族に連絡が取れない事態を、手短に伝えた。
「どういうことなんだろう」宮本は言った。「今、自宅なんで、テレビで見てみます。あと、ネットのニュースもチェックしてみますよ」
インターネットのニュースなら自分でも調べられる、ということを、宮本の言葉を聞いて気づいた。
「すまない。とりあえず、いったん切るよ。ネットのほうは、おれも調べてみる」
「はい」宮本は答えた。「結果がどうであれ、調べ終わったらこっちから連絡します」
「頼む」
通話を切った真樹夫は、スマートフォンの画面を操作してインターネットニュースのアプリを立ち上げた。「おすすめ」や「ヘッドライン」、「地域」など項目を切り替えながらチェックするが、関連する記事はまったく見当たらない。
続いてSNSのアプリに切り替え、「金盛」や「朱」、「光」などというキーワードで検索を試みると二件だけヒットした。最初に確認した投稿では、金盛市の市街地らしき位置から撮影した画像が上げられていた。真樹夫が見たとおりの風景である。「金盛市の山のほうが異様に明るい。光る巨大な半円に見えるけど、山火事だろうか?」とつぶやいてあった。「いいね」が三件だけあり、コメント欄に「山火事でしょ。夜は目立つね」と入っている。本文投稿者による「さっき、消防車が走っていったから、火事だねきっと」と返信があり、それに対する反応は、今のところはない。あと一つの投稿も画像が添付されているが、不鮮明で把握しづらかった。どうやら朱地区側で撮影したらしく、山の稜線とその上空が光っている、という光景に見えなくもない。プロフィールを見ると投稿者は車好きの男のようであり、「オーロラ?」と一言だけつぶやいていた。
真樹夫はその光景を確認しようと窓の外に目を向けた。少しでも朱に近づいたせいか、異様な光が先ほどよりもよく見える。
――山火事とかオーロラって、あんなふうなのか?
確かに光は、SNSでつぶやかれているとおり、弧の側を上にした半円だった。うっすらとした光であり、表面が波打っているようにも見える。
乗客の誰もが窓から目を離さなかった。中央付近に座る若い男がスマートフォンを取り出して撮影しようとしたが、室内灯の照明の反射が支障らしく、すぐに諦めてしまった。
今の真樹夫には、家族の安全を祈ることしかできなかった。
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