第4話 ⑤

 森野の運転するミニバンは、自宅のある西郷を離れ、県道を東へと走っていた。ヘッドライトは点灯したままだ。

 さすがに停電だけあって県道沿いのコンビニエンスストアでさえ店内や看板の明かりが消えていた。駐車場に二台の車が停車していたが、どちらも県道に向けてヘッドライトを照射しており、それがやけにまぶしく感じられた。

 この異常現象を眺めているのだろうが、西郷でも県道沿いでも、ところどころに人の姿が見受けられた。天空のすべてが異様な光に覆われたために、徒歩であるぶんには照度は足りているらしく、懐中電灯を使っている者はいなかった。

 午後八時半を回ったばかりだが、すれ違う車の数が少ない。国道との交差点を過ぎたが、県道に出てここまでの間にすれ違った車は三台だけだ。

 ここまで見かけた信号機――県道に出る交差点の信号機と通り過ぎたばかりの交差点の信号機は、どれもが消灯していた。どちらの交差点も徐行で通過したが、歩行者やほかの車に走行を遮られることはなかった。

「インターネットが使えなくなっている」運転席の後ろで保津がぼやいた。「SNSも表示できない。空の全部が光に覆われたけど、そのせいで電波が遮断されちゃったんじゃないかな。友達に電話をかけてみたんだけど、それもまったく繫がらないし」

 今の状況でこんな話を聞かされたら、平静でいられるのが不思議だろう。案の定、助手席の昭子が、おびえた表情を森野に向けた。

「ねえ、引き返したほうがいいんじゃない?」

 どのように返せばよいのか躊躇する森野の背後で「なんでかなあ」と声が漏れた。

「このまま走れば、あの光を近くで見られるかもしれないよ。近くまで行ったら車を降りて、あの光がどんなんだか観測してみようよ」

 相反する意見を呈した保津は、この事態に興味津々といった様子だ。

「保津ったら何を言っているの」昭子が半身をひねって運転席の後ろを見た。「停電になったり電話が繫がらなかったり、そんなおかしな現象の原因かもしれない光に近づこうなんて、どうかしているわ」

「そこまでびびることないじゃん」

 保津はいつもの調子だ。

「冗談じゃないわよ」

 そう返して昭子は正面に向き直った。

 森野はどちらの意見にも従うつもりはなかった。自宅へ引き返すのもあの光のそばで車を降りるのも願い下げである。一刻も早くこのあか地区から離れるのだ。

 進行方向の右に南郷、左に東郷があった。県道のセンターラインでそれぞれに分かれるため、森野のミニバンは東郷側を走っていることになる。

 前方を見ると数キロ先の景色が光の幕によって遮られていた。まっすぐに東へと延びる路面が、その光を受けて照らされている。左右とも道沿いの建造物がなくなった。そろそろ朱の里を出る辺りだ。

 朱の里を囲繞する山並みは唯一、この先だけが途切れている。朱と市街地とを結ぶ狭い平地であり、山を切削したわけではないが切り通しのような趣だ。通常の日中ならその景色が見えるはず、という位置に差しかかったが、夜にしては明るいにもかかわらず、それを目視することはできなかった。

 空を覆う光の幕が大地に接するところ――その位置に接近したためか、日中ほどの照度ではないものの周囲の明るさがわずかに増していた。しかし、光の幕は照度の強弱を把握できないほどゆったりと揺らめいており、景色の視認性は一定していない。

 ふと、カーナビのマップが自宅付近から動いていないことに気づいた。しかし目前の風景が、それを頭から追いやってしまう。

「光が……」

 森野はつぶやいた。

 山並みの稜線から中腹にかけて広がっている光る何かが、この先においてはその狭い平地をも覆っているのだ。それは、溶けて広がったろうのように見えた。降り積もった雪のようでもある。厚みは五十センチ程度だが、県道も、市街地に続く朱川も、付近の空き地も、左右の山の斜面も、多くの木々も、光を放つそれによってことごとく覆い尽くされていた。

 その何かのへりから奥のほう、数百メートル先で光の幕が垂直に立ち上がっていた。大地を覆う何かと同体らしく、海面に立ち上がった大波のごとく、水平部分と滑らかに繫がっている。

 大地を覆う発光する何かの百メートルほど手前、県道の左端に、五台の車が停まっていた。平ボディトラックにミニバン、SUV、クーペ、軽ワンボックスが一台ずつである。

「あなた、見てよ。道が変なのに埋まっちゃっているわ。車だって立ち往生しているじゃない」

 すさまじい剣幕で昭子がまくし立てた。

「でもあそこにいる人たちは、なんだか楽しんでいるようだよ」

 保津が得意げに言ったとおり、発行する物体の手前の路上に三人の人間が立っており、揺らめく光を浴びながら、おのおのが何やら楽しげにスマートフォンで撮影している。

 車の列の最後尾である軽ワンボックスの横で、森野はミニバンを停止させた。エンジンはかけたままだが、道の先にいる三人に配慮してヘッドライトは消灯する。

 軽ワンボックスの横に立っていた五十代とおぼしき男が、ミニバンの前を横切って運転席側へとやってきた。男は宅配業のユニホームを身に着けている。見れば、軽ワンボックスの側面に宅配業者の企業名ロゴがあった。

 森野はドアガラスを下げた。

「市街地方面へ行くんですか?」

 宅配業の男が森野に尋ねた。

「ええ」答えて森野は問い返す。「通れそうにないですか?」

「やめたほうがいいです。なんだかわかりませんが、あの光るやつは化学薬品かもしれないです」

「化学薬品?」

「いやなにおいがするんですよ」

「そうですか」

 山神の災いであると目星をつけていた森野は、当てが外れた気分に見舞われた。だが、その異臭が車内に漂うや、自分の危惧が外れていなかったことを、森野は悟る。

「何よこのにおい」

 昭子が口と鼻を片手で覆った。

 化学薬品のにおいにしても強すぎる刺激臭だった。山神の斎場での儀式に参加した者ならば知っているはずの「悪臭」である。この悪臭の中で騒いでいる三人を見ながら、森野は眉を寄せた。

 宅配業者の男が北のほうを指差した。草だらけの空き地が広がっており、その先には朱川がある。

「空き地の向こうの川も、この下流であの変なやつに覆われているんですけど、流れは止まっていないし、化学薬品だとすればやばいですね。市街地にまで影響が広がるかもしれない」

 山神の災いによる原因であるにせよ、発光する何かがどういった物質なのか、森野にはわからない。問題は、それを突破できるか否かだ。

「あれは、固いんでしょうか?」

 前方の光る何かを見つめつつ、森野は男に問うた。

「あのばかどもがあれに石を投げたんですが、石はあれの表面から中に沈んでしまいました。そこそこ柔らかいみたいですよ」

 答えた男も、前方に顔を向けた。

 男の言う「ばかども」は三人とも二十代の男らしい。「ばかども」と呼ばれるだけあり、光る何かを背にして自撮りしたり、光る何かそのものを被写体にしていた。いずれにせよ興奮冷めやらぬ様子であり、大声で騒いでいる。

 不意に保津が身を乗り出した。

「あいつら、朱のコンビニで見かけるグループだ」

「あたしもたまにコンビニで見かけるわ。特に夜、暗くなってからとか。騒いだりして、マナーが悪いのよね」

 憎々しいといった感じで昭子が言った。

 森野にも覚えがあった。コンビニエンスストアだけでなく、仕事で外回りをしたときに、グリーンタウン平田の一角にたむろしているのを見かけたのだ。三人ともその新興住宅地の住人らしい。

「うん、今と同じようにね」保津は話を繫いだ。「でも撮影できるということは、スマホ自体は使えるみたいだ」

「しかし電話は無理です」男がこちらに顔を向けた。「急ぎの配達があるから朱を通ったのに、遅れることを客に伝えようとしたんですが、ケータイの電話が通じなくて、まいっているところなんです。うちの支店とも連絡がつかないし。……道を塞いでいるこの光る何かや、空を覆っているあの光が、電波に悪さしてるのかもしれない」そして男は西のほうに目をやった。「戻ったところにコンビニがあったけど、あそこなら公衆電話がありますかね?」

「公衆電話はあるけど、停電だし、使えるかどうか……」

 森野は曖昧に答えたが、男の表情はわずかに明るくなった。

「公衆電話なら災害時に対応しているはずだから、たぶん使えるはずです。どうも」

 片手を上げ、男は軽ワンボックスへと急いだ。

「でもこの様子じゃ、電話線自体がやられている可能性があるよね」

 保津のそんな言葉を聞いて、森野は見上げた。県道沿いの架空線の類いが、光の幕を貫いている。

「早く窓を閉めてよ」

 昭子がせかした。

「ああ」と頷き、森野は運転席側のドアガラスを上げた。

 昭子も保津もレンタルビデオなど頭にないはずだ。二人はおのおの違う選択を望んでいるが、少なくとも市街地に向かうことは微塵も考えていないだろう。

 男が軽ワンボックスの運転席に乗った。エンジンのかかった軽ワンボックスは、バックしてUターンすると、県道を西へと走り去った。

 この異常現象を眺めていたのか、朱川のほうから一組の男女が歩いてきた。この二人も森野夫婦と同じく五十代とおぼしい。もっとも、森野には見覚えのある顔だった。

「あら、しんどうさんだわ」

 昭子の言う二人――新堂夫婦が向かっているのは、軽ワンボックスが走り去ったことにより列の最後尾となったクーペだった。

 昭子は助手席側のドアガラスを開けようとするが、森野は左手を伸ばしてそれを制した。

「やめておけ」

「どうしてよ? 挨拶しなきゃ」

 昭子は横目で森野を睨んだ。

「面倒なことになる」

 森野のその一言に昭子は「え?」と声を漏らして訝しげな面持ちを浮かべた。

 ここで声をかければ長話になりかねない。やり過ごすのが得策である。

 新堂夫婦はこのミニバンに森野たちが乗車していることに気づいていないらしい。その夫婦の夫がクーペの運転席に、妻が助手席に乗った。

 クーペがミニバンの前方でUターンをし、西のほうへと走り去った。

「新堂さんって西郷の端のほうに住んでいるんだよね」

 保津が尋ねた。

「そうよ」昭子が答える。「うちみたいに、市街地のほうに出かけるつもりだったのかもしれない」

「この光を見に来た、なんてことも考えられるかも」

 そんな保津の意見を聞いて、昭子は「ないわよ」と否定した。

「それより」昭子は森野に顔を向けた。「どうして新堂さんに声をかけさせてくれなかったの? 面倒ってどういうこと?」

 問い詰められたが、森野は答えずにヘッドライトを点灯させた。

 それとほぼ同時に、列の先頭に停車していたトラックもヘッドライトを点灯させた。そしてその巨大な車体が動き出す。やはりUターンをするらしく、車体が右に寄り始めた。

「まぶしいぞ!」

 三人のうちの一人――背の高い男が怒鳴った。森野に対してではないらしい。その矛先はトラックの運転手に向けられていた。

 とたんにトラックは停止し、作業服姿の男が運転席から降りた。ドアを開けたままにして三人のほうへと大股で歩いていく男は、三十代か四十代らしく、スポーツ刈りで、プロレスラーのような体格をしていた。怒鳴った若者よりも上背がありそうだ。

「怒鳴ったのは誰だ!」

 歩きながら、男が声を荒らげた。

「まぶしいからまぶしい……と言ったんだ……よ……」

 トラックの運転手に返された言葉は徐々に弱くなった。声の主は、先に怒鳴った青年らしい。

 トラックの後ろに停まっていたミニバンがエンジンをかけてヘッドライトを点灯するなり、Uターンして走り去った。目の前のもめごとは異様な光よりも面倒である、と判断したに違いない。残ったSUVには誰も乗っていないようだ。おそらくは、あの三人の若者が乗ってきた車両なのだろう。

「うちらもここを離れたほうがいいよ」

 そう訴える保津も、男たちの悶着に危険を感じたらしい。

「当然だわ。あなた、早く車を出してよ」

 時期とばかりに昭子も便乗した。

「ここにいるやつらは誰もわかっちゃいないんだ」

 気づけば声にしていた。

「なんなの?」

 昭子は問うた。

「この光の内側にいる人間は、みんな殺されるんだよ」

「意味がわからないわよ」

「どうしたんだよ、父さん」

「黙れ!」森野は一喝した。「おれには家族を守る義務があるんだ」

 言って森野は、ミニバンを急発進させた。Uターンはしない。直進あるのみだ。

 ――妻や息子よりも自分に威厳があるのだ。

 ――この非常事態に本気でけんかをするばかなど、気にかける必要はない。

 ――捨てたはずの山神信仰に翻弄されるなどもってのほかだ。

 憤りが次々と森野の脳裏を駆け巡った。昭子と保津が何かを叫んだが、それを解釈する余裕はない。生き延びなければ意味がないのだ。

 森野はアクセルを踏み込んだ。

 瞬間、もみ合う二人の男がそろって顔をこちらに向けた。ライトに照らし出された二人が目を見開いた。

 強い衝撃があり、二人の男がフロントガラスに当たって後方へと飛んだ。それと同時に運転席と助手席のエアバッグが勢いよく開いて視界が塞がれる。

 続いてミニバンは白い何かへと突入するが、とたんにタイヤが空転した。

 二つのエアバッグはすぐにしぼみ、おかげで視界は取り戻せた。しかしハンドルを取られてしまい、ミニバンは右に九十度、横向となった。エンジンは止まっていないが発光する何かにタイヤを取られているためか、いくらアクセルを踏んでも、今度は空転さえせず、前進もしない。

 気づけばフロントガラスに無数のひびが走っていた。昭子は両目を閉じて震えており、ルームミラーの中の保津は目を見開いて硬直している。

 森野はアクセルから足を離した。しかしまだ諦められず、エンジンを切らなければサイドブレーキもかけない。

 息を吞みつつ外を見ると、青年の一人とトラックの運転手が路上に倒れていた。残りの二人が、倒れている二人を呆然と見下ろしている。

 発光する何かにつけられたミニバンのタイヤの跡が、徐々に消えていった。へこんだ部分が盛り上がっていくのだ。

 悪臭が車内に漂った。

「もう嫌」

 目を閉じてうつむいている昭子が、すすり泣いた。

「あれ……何?」

 声をうわずらせた保津が、運転席と助手席との間から右手を突き出し、ミニバンの前方を指さした。

 点いたままのヘッドライトが照らす一角――否、それ自体が白い光を放っている一面が、大きく波打っていた。

「生きている」と声を漏らしたのは、いつの間にか目を開けていた昭子だ。

 波がより激しくなった。そして無数の波がそれぞれ独立して伸び上がり、一本一本の光る触手となってのたくった。

「化け物……」

 保津がつぶやいた。

 それぞれの触手の先端には、手のひらのようなものがついていた。どの手にも五本の細長い指が備わっている。しかし、いずれの手も両端の指が親指のようであるためシンメトリーとなっており、明らかに人間の手とは異なっていた。

「なんてことだ」

 絶望が言葉になった。できることはもう何もない。家族を守る義務がある、と明言したばかりなのに、そんな意気込みは微塵もなくなっていた。

「逃げよう!」と叫んだ保津が、ドアを開けて外に出た。

「保津――」

 森野は呼び止めようとしたが、間に合わなかった。

 もっとも、車外に出た保津は例の何かに足を取られ、もがくだけで、歩くことも走ることもできないでいる。

 開けっ放しのドアから刺激臭が一気に入ってきた。

「父さん! 助けて!」

 泣き声で求められたが、手立てはなかった。

「あなた、なんとかしてよ!」

 昭子の声は明らかに森野を非難していた。

「どうしようもないんだ」森野は言った。「こうなる運命だったんだ。おれたちは山神の餌食にされるんだ」

 諦念の言葉が終わるか終わらないうちに、ミニバンのルーフが吹き飛んだ。無数の光る触手がそこから車内になだれ込む。

「あなた!」

 昭子は叫ぶが、森野にはなすすべがなかった。森野でなくても、こんな化け物にかなう人間など存在するわけがない。

 人間の腕ほどもある太さの触手が、森野を襲った。無数の光る触手が、首や胴、両腕、両足に巻きつく。それらは大の大人の自由を奪う強さを有しており、しかも冷たく、とてつもない悪臭を伴っていた。

 いくつものシンメトリーの手が運転席と助手席のシートベルトを引きちぎった。そのうちの一つの手が森野の顔をさっとなでる。冷たさと悪臭が際立った。

 強靱な何本もの触手によって、森野の体が運転席から持ち上げられた。助手席の昭子も宙に浮いており、彼女の表情はこの世の最後を目の当たりにしてるかのようだった。

 二人の体はミニバンから引き上げられ、揺らめく光の中で、ミニバンが小さく見えるほどの高さへと至った。無数の光る触手によって、二人は空中でさらし者のように掲げられていた。

 身動きの取れない森野は、唯一自由になる両目を、ミニバンで撥ねた二人に向けた。路上に倒れているその二人も、無数の光る触手にとらえられている。現状にようやく気づいたのか、残りの二人がSUVに向かって駆け出した。

「きゃあああ!」

 昭子のその絶叫が何を意味するのか、と見れば、保津も夫婦の横に並べられるところだった。しかも彼には、あったはずの頭部がなかい。

「へげっ」という昭子の声がした。同時に、何かがちぎれるような音も聞こえた。

 昭子に視線を戻すと、彼女の体は頭部と胴、両腕、両足に分けられていた。各部位はそれぞれを保持するシンメトリーの手によってもてあそばれている。衣服だった切れ端によってかろうじて覆われている両腕、両足、胴、のそれぞれが彼方へと遠ざかっていく一方、昭子の両目を見開いた顔が、森野のすぐ近くに固定されていた。

 次は自分の番なのだろう――と覚悟した次の瞬間、森野の全身を激痛が襲った。

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