第4話 ⑥
県道上の停留所である坂田宿を過ぎて間もなく、停留所でなければ信号機も一時停止の標識もない場所でバスは停止した。民家さえ見当たらない一角である。坂田宿で一人が降りたことで乗客は真樹夫だけになっていた。
周囲は異様な光に包まれていた。光の揺らめきは坂田宿の辺りから感じられたが、今はそれに加えて赤色灯とおぼしき赤い光の明滅もあった。
「お客様」運転手の声がスピーカーから聞こえた。「通行止めです」
それを聞いた真樹夫は、ビジネスバッグを持って運転席の横まで歩いた。歩きながら、バスの前方の騒々しい光景を目にする。
「何があったんだ……」
運転席の横に立ったまま、真樹夫は呆然とつぶやいた。
赤色灯を回転させた二台のパトカーが、後ろをこちらに向けて横列に並んでいた。両車線が塞がれている状態だ。バスの前には一台の軽トラックが停車しており、その運転席側に立つ一人の制服警察官が、照明を灯した誘導棒で市街地方面を指しつつ、軽トラックの運転手に何やら話しかけている。
パトカーの手前には二人の制服警察官がやはり誘導棒を持って立っており、うち一人がバスの運転席のほうへと歩いてきた。
真樹夫は二台のパトカーの先を見た。赤色灯を回す車両がさらに四台停まっている。消防車のようだ。
消防車の先には、降り積もった雪のような何かが、路面だけでなく杉林や田んぼ、朱川さえも覆っているが、それが雪でないことはすぐにわかった。白く鈍い光を、それ自体が放っているのだ。朱川を見れば、その発光物質は流れをせき止めるでもなく、また流されるでもなく、川面の上にとどまっていた。
運転手が運転席側の窓を開けると、警察官が「この先は通れません」と告げた。
「あれは、いったいなんなんです?」
運転手が問うた。
「まだわかりませんが、悪臭がするんです。人体に悪影響があるかもしれないので、すぐに引き返してください。われわれも消防士も、もう少し下がらないといけないようなんですよ」
言われたそばから、刺激臭が漂ってきた。
悪臭をこらえて、真樹夫は道のさらなる先を見た。百メートル以上も離れた辺りでオーロラのような光が垂直に立ち上がり、ゆっくりと揺らめいている。大地を覆う光る何かから直接伸び上がっているらしい。まるで光の幕だ。確かに「ここを通過するのは無理」と考えるのがまっとうだ。しかし、真樹夫の自宅はこの先にある。沙織と満里奈が真樹夫の帰りを待っているのだ。
バスの前に停車していた軽トラックが、警察官の誘導によってUターンをし、市街地方面へと走り去った。おそらく、このバスと同様に突然の通行止めを食らったのだろう。
「お巡りさん」真樹夫は運転手越しに警察官に声をかけた。「朱に行くほかの道は通れるんですか?」
しかし、警察官が答える前に運転手が真樹夫に顔を向けた。
「このバスはここから営業所に戻りますが、この状況を営業所に無線で連絡するので、お客様を街までお送りしてもよいか、問い合わせてみます。それで了承されたら、お客様を街まで送るくらいのことはしますが」
「ぼくの家は朱なんだから、街へ行ったってしょうがないんですよ。ここで降ります」
言ってから、意固地になっている自分に気づいた。
「ここで降りても先には行けないんですよ」警察官が言った。「運転手さんの言うとおり、街に引き返したほうがいいです」
「ほかに通れる道があるんなら、ここにタクシーを呼んで、それに乗って朱に帰ります」
とっさに出した案だが、悪くはないと思った。
「それもできません」
警察官は無慈悲な言葉を口にした。
「通れる道はない、ということですか?」
真樹夫が尋ねると、警察官は頷いた。
「この光る何かは、朱の全周を囲んでいるようなんです。ここを含めた朱の玄関口……つまり、県道と国道の四カ所に警察が出向いているのですが、どこも同じ状況です。そのほかの道……林道などは調査中ですが、おそらく通るのは不可能でしょう」
「そんな……」愕然とするが、それでも家族を見捨てるわけにはいかない。「朱の状況はわかるんですか? 朱との連絡は?」
「もうご存じかもしれませんが、ケータイも固定電話も通じません。インターネットもメールも無理のようです。朱との連絡はまったくつかず、あの光の壁だかなんだかわかりませんが、その向こうがどうなっているのか、状況は把握できていません」
そんな絶望的な答えを聞いて、真樹夫は言葉を失った。
「空からは?」不意に、バスの運転手が警察官に問うた。「ヘリとかで空から朱に降りられないんですか?」
「そう、それだ」と真樹夫は追従した。
「それもこれから調べるところです」
申し訳なさそうに言われても、納得できるはずはなく、真樹夫はいきり立つ。
「警察官や消防士でさえ危険だから距離を取るつもりでいる、そんな光なんでしょう。一刻の猶予も許されないはずですよ」
「われわれも到着したばかりなんです。全力を尽くしているんです」
そう説くしかないのだろう。自分がこの警察官の立場なら、やはり同じ台詞を告げるはずだ。しかし焦燥は去ってはくれない。自分の取るべき行動さえ、わからないのだ。
「お客様」運転手が言った。「とにかく営業所に連絡しますから、席にかけてください」
何をどうすればよいのか判断がつかず、真樹夫は運転手に言われるまま、左の列の一番前に腰を落とした。
「連絡が済んだら、誘導します。少しバックすれば、バスが転回できる場所があります」
警察官のその説明に頷いた運転手が、無線の準備を始めた。
悪あがきのようだが、ズボンのポケットからスマートフォンを取り出して沙織に電話をかけるが、やはり繫がらなかった。続いて満里奈にもかけてみるが、これも同じ結果だ。
「なんなんだよ」
スマートフォンを左手に持ったまま、真樹夫はうなだれた。
運転手が無線で話しているが、もうどうでもよかった。
掛け時計は午後八時四十五分を指していた。裕次が出かけてからほぼ一時間が経つ。座卓を前にして座る昌子は、卓上LEDライトの明かりだけの薄暗い居間で、ときが過ぎるのを待った。
停電は裕次が出かけた直後に起こった。不安を紛らすために長男に連絡しようとして、スマートフォンも固定電話も通じないことを知った。メールやメッセージアプリ、インターネットもだめだった。少なくとも家の中にいる限り、どこにも連絡ができなければ情報を得ることも不可能、というわけである。
これらの事態とあの異様な光との因果関係を慮るのは、至極当然だろう。むしろその因果を否定するほうが不自然である。また、裕次の言動から山神の儀式が失敗したことが窺い知れることや、裕次の動揺に平常では見られない甚だしさがあることなどから、常識を凌駕する災禍が起きている、と推し量っても致し方あるまい。
「そうよ」と昌子は声に出した。
これは杞憂ではない。停電も電話の不通もあの光も、すべてが山神信仰にかかわっているのだ。そして裕次は、その全貌、もしくは一端を知っているに違いない。
ここで一人でじっとしているのは、夜の墓場に一人、取り残されたようなものだ。とはいえ、屋外に出る勇気もなかった。電話が通じないのを知ってから玄関の外に出て、天空が光の幕によって完全に覆われているのを、この目で見てしまったのだ。あれの下を歩くなど、どうしてできよう。車での移動さえためらってしまう。そして、どこへ行くのかが問題なのだ。葛城宅には事態の真相を知っている者たちが集まっているだろうが、昌子が出向いたところで追い返されてしまうだろう。隣家は山神信仰を数年前に抜けており、そこに身を寄せるのも、今回の問題に巻き込んでしまいそうで心苦しい。
昌子は冷静さを取り戻そうとした。事態が変わるのをもう少し待ってみよう――そんな考えを無理にでも脳裏にとどめる。この異常現象が解消されることも考えられるのだ。もし事態が沈静化すれば、裕次からの連絡があるかもしれないし、本人が帰宅する可能性もある。その際に昌子がいなければ、裕次は心配するだろう。
――こらえなくちゃ。
おそらく、朱地区の住人の誰もが、何もできずに震えているのだ。
昌子は座卓の上で左右の手を組み、それに額を載せた。主人が無事に帰宅することを、切に祈る。
静かに瞑想していたときだった。
外で物音がした。車が敷地内に入ってきたらしい。タイヤが砂利を踏みつける音がするが、排気音は裕次の軽トラックのものより静かだ。しばらくして、ドアを閉める音が、続けて二回あった。
このような状況でなければ玄関を開けて外の様子を見るのだが、気づけば、身動きを止めて息を凝らしていた。
玄関の引き戸が叩かれた。停電のため、家庭用電源コンセントから電源を供給されている玄関チャイムが鳴らなかったのだろう。
「昌子さん、いる?」
女の声がした。
玄関の戸を叩く音は続いていたが、昌子が「はい」と声を飛ばすと、来客は気づいたらしく、戸を叩くのをやめた。
玄関へと急いだ昌子は、サンダルを履いた。そして念のため、鍵を開ける前に「どちら様?」と尋ねる。
「
女は答えた。尚子も美佳も東郷の住人だが、昌子とは親睦が深い。そのうえどちらも、山神信仰の家の者だ。
昌子が玄関の戸を開けると、はたしてなじみ深い二人が立っていた。どちらも押っ取り刀で駆けつけたのか、飾り気のない普段着だった。
庭の片隅に一台のコンパクトカーが停めてあった。尚子の愛車だ。
「裕次さんも行っているんでしょう?」
尚子に問われたが、意味がわからず、昌子はきょとんとする。
「葛城さんのところよ」と付け加えられて、昌子はようやく「うん」と頷いた。
「うちの人と美佳さんちの
「地区の境……って、あの光のあるところ?」
尋ねて昌子は、二人の背後――山並みと空とに目を投じた。異様な光景に変化はない。
「朱から出られるかどうか、確かめるんだって」
答えた美佳は、わずかに眼鏡を震わせていた。
「じゃあ、朱にいては危険だっていうこと?」
昌子が尋ねると、尚子が首を傾げた。
「それはまだわからないけど、電気が使えなければスマホもだめだし、車のカーナビも動かないんだから、安全とは言いがたいよね。で、ね……うちのひとは裕次さんと組んでいて、裕次さんも一緒だったの」
「うちの人が……」
裕次の行動の一部を知っただけでも安堵が得られた。
「そうよ」尚子は頷いた。「裕次さんにお願いされたのよ。昌子さんと美佳さんはどっちも一人で家にいるから、三人で芹沢さんのお宅に行ってくれ、ってね。だから、迎えに来たの」
「芹沢さん?」
今回の山神の儀式を出した家である。この現象に関連がありそうだが、ゆえに、そこへ行くことに懐疑を抱いてしまう。
「あそこなら事情を知っている人が集まっているし、何かあったときも、協力し合えるでしょう。みんなでいたほうが、安心できるもの」
「そうだったの」
一気に全身の緊張が抜け、昌子は倒れそうになった。
「ほら、しっかりして」と尚子が昌子を抱き留めた。
「わたし、どうなるかと思っていたの。怖くて怖くて……」
抱き締められながら、昌子は胸の内を吐露した。涙があふれて視界がにじんだ。
「大丈夫だよ。もう心配はいらないから」
尚子は言いながら、昌子の肩を優しく叩いた。
にじむ視野の中で、眼鏡を外した美佳が自分の目頭をハンカチで拭いていた。
そんな三人を、空一面の揺らめく光が見下ろしていた。
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