第5話 ①
木村の運転する軽ワンボックスは東郷の市道を東へと走り、
揺らめく光に照らされて、あらゆるものが自然の理を失ったかのようだった。葛城宅を出発してからの沿道の至るところでこの異常事態を目にしようとする老若男女が見られたが、国道を北上して家並みがなくなると、そういった人々の姿も途絶えてしまった。
歩くだけなら照明の類いは必要なさそうだが、間違いなく日中よりは暗い。夜明け直前の明るさと同等だろうか。軽ワンボックスのヘッドライトは点灯してあり、雅之もそれをよしと思った。
「雅之さん、訊いてもいいですか?」
走り出してから車内は沈黙に包まれていたが、不意に木村が口を開いた。
「ああ、いいよ」
答えられるかどうかは質問次第だが、狭い空間で会話のない状態に気まずさを感じていたため、助手席の雅之は迷わずに承諾した。
「葛城さんがみんなに説明していたあれって、やっぱり本当なんですか?」
「あれ、というのは、岸本さんを贄にしたこと……かな?」
雅之は問い返した。
「はい」進行方向に視線を定めたまま、木村は頷いた。「ということは、雅之さんや野辺送りに参加したみんなが納得していた、ということなんですか?」
芹沢本家の野辺送りに参加した四人や連絡を受けて参集した十七人を前にして、勝義がこれまでのいきさつを説明した。しかし、火葬祭の経験者であるはずのあとから駆けつけた十七人でさえ、今回の儀式の詳細は知らなかった。むしろ昇天の儀の解説を聞いておののく始末だ。木村もそんな十七人のうちの一人であり、彼が懐疑を抱くのも当然である。
「今回の野辺送りの連中が納得できたかできなかったかは、それぞれだろうが、おれは甘んじて受け入れた。これでこの因習に終止符が打てるんだからな」
雅之が答えると、木村は眼鏡のフレームを片手でつまんで位置直しをしつつ、小さなため息をついた。
「おれは葬場祭では気づきませんでしたが、野辺送りに出なかったご親族……俊康さんも承知していた、と葛城さんは言っていました。そればかりか、金成さんたちまで知っていた」
木村を始めとする招集された十七人も啓太の通夜と葬場祭に参列していたが、山神の儀式が無事に終了していれば、彼らは生け贄の件を――雅之たちの罪を知らずに済んだのだ。
「君たちを騙したようなものだよな」
自責の念に駆られながら、雅之は言った。
「というより、巻き込みたくなかったわけでしょう?」
そう返されて雅之は苦笑した。
「確かに、こんなことにかかわるのは可能な限り少ない人数のほうがいい。なんせ……岸本さんをあれに食わせようとしたんだからな」
「しかし、今回の儀式の段取りを考えたのは、葛城さんだけじゃないというか、黒幕がいるんでしょう? さっきの葛城さんの話にはなかったけど、飛田さんや森野さんも絡んでいるはずです」
「まあな……否定はしないよ」
曖昧に答えておいた。木村は現にわかっているのだから、それで十分だろう。
「なんせ、贄として差し出されたのが、汚職事件を起こした市役所職員なんですから」木村は言った。「横領した岸本さんの弱みに付け込んで立会人の任務に就かせた。おおかた、そんなところでしょうけど、自分が雅之さんの立場だったら……」
言葉に詰まった木村を雅之は横目で見た。
「おれと同じような立場だったら?」
雅之にそう促され、木村は口を開く。
「やっぱり、昇天の儀を遂行すると思います。山神の存在を知る者にしかわからない感慨です。表沙汰にはされていないけど、あの化け物を見て精神をやられちゃった人が何人もいるじゃないですか。しかも、あいつの怒りを鎮めるためということで、以前にも生け贄が何度か出されたらしいですし。こんな信仰は早く終わりにしたいですよ」
言って木村は口を閉ざすが、雅之も言葉を紡ぐ気にはなれなかった。せっかくの会話だったが、いかんせん、話題が重すぎた。
軽ワンボックスは上りに差しかかった。緩い左カーブで杉林に囲まれ、鬱蒼とした景観の中でさらに標高を増していく。天空の揺らめく光は木々の枝葉で弱められ、ここぞとばかりにヘッドライトの照明が効力を発揮した。
上りの道は右へ左へと緩いカーブを繰り返すようになった。北側の国道は山を越えて反対側の平地に至るまで、杉林が途切れることがない。南側の峠のような展望は利かない、ということだ。
前方の木立の先に光の固まりが見えた。空を覆う光とは異なり、揺らめきはない。
「そろそろだ。速度を落とそう」
雅之が言うと、木村は「はい」と答えた。
ややきつめの右カーブを過ぎると、上りの長い直線だった。しかし、その直線は中ほどで遮られていた。発光する泥状の何かが、路面や左右の杉林を覆っているのだ。路面を覆っている辺りを見る限りでは、その厚さは五十センチ前後だろう。今のところは広がりの拡大は止まっているようだ。そのはるか先で光の幕が立ち上がっているが、それが地面に接する情景は杉林に遮られていた。
発光する何かの手前の左側に、こちらにテールを向けた軽トラックが停車していた。車外に作業着姿の一人の男が立っている。発光する何かを見渡していた彼が、こちらに正面を向けるなり、両手を頭上で大きく振った。「止まれ」と合図しているらしい。
軽ワンボックスは軽トラックの後ろに停車した。
「エンジンはかけたままだ。ドアは開けておこう」
雅之のその指示に木村が「そうしましょう」と答えた。そして二人はエンジンをかけたままの軽ワンボックスから外に出た。ドアはどちらも開けておく。
山神特有の刺激臭があった。雅之が眉を寄せると、木村も同様の表情を呈した。においそのものの疎ましさより異形の存在が確かであるという脅威を、木村はその表情で訴えているらしい。無論、雅之も緊張を覚えずにはいられなかった。
両手を振っていたのは、白髪頭の初老の男だった。軽トラックのエンジンは止めてあるようだ。雅之と木村が悪臭に耐えながら近寄ると、男は山向こうの集落の自宅に帰る途中であることを告げた。
「これがなんだかわからんが、通り抜けるのは無理みたいだよ」
困り果てた表情で男は言った。
「そうですね」と頷いた木村が、雅之を見た。「おそらく、ほかも同じでしょうね」
「だろうな。ほかを回っているみんなの報告を聞かないと、なんとも言えないが」
二人のそんな会話を聞いていた初老の男が、怪訝そうに「あんたらは朱の人かね?」と尋ねた。
「ええ」雅之は答えた。「周りの山が光っているんで、どうなっているのか見に来たんですよ」
「じゃあ、朱一帯の街灯や建物の照明が点いていないことも知っているんだね?」
「はい」雅之は頷いた。「大規模な停電のようです」
山神の仕業であるなどと説明するわけにいかないのは当然だが、自分たちが絡んでいるだけに、適当にはぐらかすのも心苦しかった。
初老の男は、朱の南の山向こうにある集落から帰る途中だった、と告げた。所用で友人宅に行っていたが、話が弾んで辞去するのが遅れてしまったらしい。朱の里の一角で車を停め、携帯電話で自宅に「今から帰る」と連絡をし終えたところで、異常現象が起こったのを知ったのだ。
「それで今、このありさまをうちのかみさんに伝えようとしたんだがね、ケータイが繫がらないんだよ」
「雅之さん」木村が雅之に耳打ちした。「この人、おれの自宅で休んでもらってもいいですよ」
「そうしてもらえるか」
雅之も小声で返した。
二人のひそひそ話にまたしても怪訝そうな色を浮かべた男に、木村が話しかけようとした。その木村が、ふと、動きを止める。
不審に思い、雅之は木村の視線を追った。
国道の先――三人の位置から二十メートルほど先で、路面を覆う光る泥状物質の表面の一部が、細い棒のような形状となって伸び上がっていた。泥状物質本体の表面からの高さは一メートルほどであり、頭頂部は球形だ。やはりそれも、付け根から頭頂部の部位に至るまでのすべてが光を放っている。
怪訝そうな表情のまま、初老の男もそちらに正面を向けた。
「あれはなんだ?」
男が声を漏らした。
「山神の目のようだが……」そう言って雅之は木村を見た。「車に乗ろう」
木村は「はい」と答えるが、道の先に目を向けたままだ。
棒状のものはわずかにくねっていた。先端に付属する球体には瞳のような部位があり、それがこちらを向いている。やはり山神の眼球に違いない、と雅之は確信した。
「あなたもうちらの車に乗って」
雅之は初老の男に言った。男は雅之に顔を向けるが、困惑の様子である。
「あれがどうかしたのか?」
「あとで説明します。さあ、早くこっちに」
焦燥を抑えて訴えるが、男は動こうとしない。
「あれがなんだかわからんが、自分の車を置いていくわけにはいかんよ」
「そんなことを言っている場合じゃないんです!」
雅之が声を張り上げたのとほぼ同時に、山神の眼球のすぐそばから別の何かが伸び上がった。眼球を有する棒状のものよりも太くてはるかに長いそれも発光しており、先端には見覚えのある線対称の「手」が五本の細長い指を広げていた。
「急いで」と言いつつ雅之は左手で男の右手を引こうとしたが、異形の動きに気づいていない様子の男は、雅之のその右手を振り払った。
「あんたら、さっきから何様なんだよ」
初老の男が怒りもあらわに言い放った次の瞬間、異形の手を優する触手がこちらに向かって一気に伸びた。
「雅之さん急いで!」
軽ワンボックスの右に立つ木村が、そう叫んだ。
巨大な手は初老の男の背後だった。助けようにも間に合わないのは一目瞭然だ。
ふと、和彦の最期が雅之の脳裏をよぎった。
両腕ごと鷲づかみにされた男は、自分の身に何が起きたのかわからなかったのか、「おわっ」と素っ頓狂な声を出した。
「雅之さん!」
二度目の呼び声で雅之はようやく諦める気になった。そして軽ワンボックスのほうへと向きを変えようとした彼は、新たに現れたもう一つの手によって男の頭がねじ切られるのを目にした。
叫びはなく、血しぶきが飛んだ。揺らめく光の中で鮮血の色がくっきりと浮かび、そのコントラストが男の断末魔の代替えだった。
白髪の頭部はその位置でとらえられたままだが、作業着姿の体は異形の手によって持ち運ばれ、発光する泥状の何かに飲み込まれてしまう。
雅之は軽ワンボックスの助手席に乗り込んだ。ドアを閉じる、という動作は二人同時だった。
「行きます」と言って木村はハンドルを握った。軽ワンボックスは一度だけ切り返しをして向きを変え、朱方面へと走り出した。
雅之は身を屈めて助手席側のドアミラーを覗いた。手を有する何本もの触手がのたくりながら迫ってくる。
「木村くん!」
「見えています!」
せかすまでもなかったらしい。
直線はすぐに左カーブとなった。きつめのカーブであり、道は下りのままだ。加速したばかりの軽ワンボックスだが、すぐに減速する。とはいえ、減速した状態でも制限速度を二十キロも超過していた。
軽ワンボックスの後輪が右に流れた。カーブの内側にフロントが向いた状態で、車の動きが止まる。エンジンはかかったままだ。
雅之は歯を食い縛り、両足を広げて踏ん張っていた。横目で見れば、運転席の木村はハンドルを握ったまま硬直している。
「あ……」木村が我に返った様子でまばたきした。「車を走らせなきゃ」
ふと助手席側の外を見た雅之は、息を吞んだ。水平方向に浮かぶ光る触手が、ゆったりとのたくっていた。
「ひっ」と木村が声を上げた。
その声につられて正面に視線を戻すと、初老の男の顔があった。異形の手に白髪をつかまれた彼の頭部が、フロントガラスの前に吊されていた。見開かれた双眼が雅之に向けられている。
男の頭部を押しのけるようにして軽ワンボックスが朱方面へと走り出した。
フロントガラスの左――雅之の正面に血糊がなでつけられた。
雅之は振り向き、リアガラスの外に視線を定めた。光る触手も巨大な手も男の頭部も、そこにはなかった。
「人が殺されました」
うわごとのように木村が言った。
「ああ」と答えながら雅之は正面に向き直った。
速度計を覗くと、制限速度をわずかに上回る程度だった。軽ワンボックスはその速度を維持して下りの緩いカーブを次々とこなしていく。
「やっぱり山神だった」木村は進行方向に目を向けたまま言った。「ほかの道も同じであれば、おれたちは朱に閉じ込められてしまったことになるわけです。しかもあの化け物は、おれたちを威嚇しました」
威嚇――とは男の頭部をさらしたことだろう。
フロントガラスの血糊を見つめながら、雅之は口を開く。
「そうしておいて、おれたちを逃がした。つまり、おれたちを使って朱の人たちに山神の力を知らしめようとしているわけだ」
「ただの化け物じゃない……ということですかね?」
「あれを神とは思いたくないが、魔神というか……邪神と呼ぶのがふさわしいだろうな」
「邪神……」
声を低くした木村が、眼鏡のずれを、フレームをつまんで直した。
血糊から目を逸らした雅之は、左のドアミラーを覗いた。
薄闇の中で木々が流れていくだけだった。
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