第5話 ②

 芹沢本家宅に残っている者たちは、庭から戻ると引き続き大広間に集まった。間もなくして避難してきた矢田昌子と城島尚子、坂上美佳といった三人も、その席に加わった。晶子ら三人は、本家宅に残っていた者たちのうちでは梨花や信代、紀夫、良子、花江ら以外の者――すなわち、あか地区住人、もしくは朱出身者とは顔見知りということだった。また、昌子らはおのおのが夫婦で啓太の通夜祭と葬場祭に出席していたらしいが、梨花はそこまでは覚えていなかった。逃走を観念した仁志も皆と同席したが、不調を訴えた淳子だけは、晶子ら三人と挨拶を交わすと、台所の隣りにある自室にこもってしまった。また、金成、吉田、井坂、野口ら近所の年輩組は、晶子ら三人から雅之らの行動の概要が伝えられると、とりあえず安堵したらしく、家族の待つおのおのの自宅へと戻った。一方、金成らが帰宅してすぐに喜久夫がこれまでのいきさつ――和彦の死や山神という名の異形が実在したこと――を口にすると、当然だが晶子ら三人は安堵するどころか戦慄をあらわにした。憔悴しきっている綾をねぎらってか、今回は喜久夫がすべてを説明した。

 一通りの情報交換が済み、淳子や綾ほどではないにせよ疲労を覚えた梨花は、奥の部屋に一人で入った。照明がない状態でも室内を見通せるのは、天空を覆い尽くした光の影響であるらしい。

 この部屋ばかりではなく、廊下や大広間、玄関、トイレなど、屋敷の中の至るところに忌まわしい光が侵入していたが、それを厭うたのか、各所に配置された提灯はそのまま灯され続けた。少なくとも提灯の周囲だけは忌まわしい光が弱くなる。とはいえ、本家宅の提灯はこの部屋に回せるほどの数がなかった。

 ポシェットを傍らに置き、とりあえず布団の上で横になった。しかし、疲れている割には目が冴えて落ち着かない。

 状況次第では屋外に出る可能性もあるため、衣服は着替えずにいた。大人たちも事態の急変の可能性を考慮したらしく、高齢者組が帰ったあとで、臨時駐車場に停めてあった車のすべてを門のすぐ外に移動させたほどだ。岡野や大賀、柴田らの車は、俊康がそれぞれのキーを預かっていたため、信代と時子、紀夫が手分けして移動させた。

 梨花が横になって十分ほどが経過した頃、信代が襖の外から「入るわよ」と声をかけてきた。可否を問うわけでもない。有無を言わせぬということだ。

 梨花が一言も返さないうちに襖が開いた。梨花は布団の上で上半身を起こした。開いた襖の向こうには、信代と時子が立っていた。さらには、白衣姿のままの綾が時子に肩を抱かれて悄然としている。

「綾ちゃんもここで一緒に寝ることになったからね」信代は言った。「わたしと時子さんは大広間の片づけをしてくるから、梨花は綾ちゃんの布団を用意してあげて。それから、女の人たちだけ、二人ずつ交代でお風呂に入ることになったの。まずはあなたたち二人からよ。さっき沸かしたばかりだから、早く入っちゃいなさい。停電で追い焚きできないから、お湯は無駄にしないでね」

「うん」と答えて梨花は立ち上がった。

 うつむき加減の綾は、大きめのスポーツバッグを両手で前に提げていた。臨時駐車場にあったすべての車を門の近くに移動する際、綾の軽トールワゴンは時子が運転したが、その時子が機転を利かせ、車中に残されていたスポーツバッグを持って戻ってきたのだ。それを大広間で受け取った綾は、中に着替えやスマートフォンが入っていることを、その場で梨花や時子にこっそりと打ち明けたのだった。

「さあ、綾ちゃん」

 時子に促され、綾が部屋に入った。

「じゃあ梨花、あとをよろしくね」

 静かに告げた信代が襖を閉めると、綾がすまなそうに梨花に顔を向けた。

「ごめんね梨花ちゃん、くつろいでいたのに」

「平気だよ。綾ちゃんが来てくれたから、かえって落ち着ける」

 笑顔を作るのは無理だったが、真意を吐露した。

「わたしなんて、なんの役にも立たないよ」

 言って綾は、またしてもうつむいた。しかしそれは、梨花に自責の念を思い出させる言葉でもある。自分が山神の斎場に出向かなければ、綾を苦しめることはなかったのだ。詫びなければならないのは自分のほうである――と思うからこそ、梨花は首を横に振った。

「そんなことないって。それより、早くお風呂に入っちゃおう」

 あえて謝罪は口にしなかった。今、それを口にすれば、綾の悔恨を長引かせてしまうだろう。

「そうしようか」と答える綾に「うん」と返した梨花は、部屋の片隅のリュックからタオルや下着を取り出した。


 風呂を済ませた梨花と綾は、大広間の女たちに声をかけてから奥の部屋へと戻った。そして二人は、すでに用意してある三組の布団を横に引いてスペースを確保し、押し入れを開けてもう一組の布団を準備した。

 綾は入浴を済ませる際にブラウスにコットンパンツという装いに着替えた。彼女のスタイルのよさはすでに梨花も承知しているが、脱衣所や浴室ではその裸体の美しさに見とれてしまいそうだった。もっとも、風呂場に向かってから部屋に戻るまで、二人とも口数は少なかった。

 床の準備が済むと、スポーツバッグを梨花のリュックの横に並べた綾が、深いため息をついて畳の上にへたり込んだ。

「綾ちゃん?」

 梨花は綾の正面に座った。そして綾の頬を涙が伝っていることを知る。

「みんなわたしのせいだよ」 

 綾は畳を見つめながら嗚咽を漏らした。

「綾ちゃんのせいじゃないよ。わたしが山神の斎場に行かなければ、あんなことにはならなかったんだよ」

 そう返して梨花は唇を嚙み締めた。とはいえ、自分や仁志はさておき、綾を慮って行動を起こした賢人のことだけは、許してあげてほしかった。いずれにせよ、やはりこの話題は避けられないらしい。

「いいえ」綾は首を横に振った。「わたしがしっかりしていれば、山神様の怒りを鎮められたはずなの」

「怒りを鎮める……って、どうやって?」

「万が一の場合に備えて、そういう呪文も用意してあったの。本当に効力があるのかどうかはわからないけど、可能性はあった。その呪文をちゃんと覚えていたのに、怖くて震えるだけで、わたしは何もできなかった……」

「あの状況じゃ無理だよ。綾ちゃんは悪くない」

 道理にかなった言葉である、と言いたいところだが、自信はなかった。儀式や呪文に関して、梨花は見識がないのだ。だからこそ、確かな事実を口にする。

「わたしは仁志くんを止められなかった。だからわたしの責任――」

「梨花ちゃんに感謝しているの」と綾は梨花の言葉を遮った。「梨花ちゃんたちが来てくれたから、わたしたちは殺人を犯さずに済んだわ。喜久夫さんの言ったとおりよ。わたしたちは山神様が怖くて、人の道を踏み外していた」

「そんな……」

 梨花は声を詰まらせた。儀式に参加した者たちの罪の代償を和彦が一人で払った、と受け取れそうな気がしたのだ。もっとも、冷静に考えれば、綾は己に責任を感じているのだから、梨花の杞憂に違いない。

 それにしても――と梨花は思う。山神自体の問題だ。

「綾ちゃんは、やっぱり山神様を神様として敬っているんだよね?」

「神様……」と綾は声を漏らした。

「だって、山神様に威厳があるのかどうか、気になるんだもん」

 そう言った梨花を、綾は静かに見つめた。

「古代の人たちは自然や太陽を崇拝していたわ。それは梨花ちゃんにもわかるよね?」

「うん」

 授業で習ったのかテレビの番組で見たのかはおぼろだが、記憶の片隅には残っていた。

「けど、その当時の人たちにとって、神様って怖い存在だったのよ」

「神様なのに? 朱の山神様みたいに怖いの?」

 梨花は尋ねた。アニミズムなどはかじった程度の知識ゆえ、梨花にとっては未知の領域なのだ。

「そうね」綾は頷いた。「彼らが崇拝したのは自然そのもの。それは恵みをもたらす大切な存在だけど、常に穏やか、とは限らない。嵐や地震、洪水、津波、干ばつ、そういった自然災害はいつの時代にもあるわ。彼らにとっての神様は、気まぐれに怒りをあらわにする。そうならないように、もしくはそれを鎮めるために、彼らは神を崇めたの。つまり、昔の人にとっての神様って、個人的な願いごとをかなえてくれる優しい神様なんかじゃなかったのよ」

 そこで綾は口を閉ざし、おもむろにうつむいた。彼女の涙はすでに乾いている。

 仁志も同じ話をしていたが、それを耳にしたばかりだからこそ、綾の話の内容はすぐに理解できた。しかし、綾はまだ梨花の問いに答えていない。山神を神として敬っているのか否か――。

 業を煮やし、梨花は問い返す。

「昔の人たちが神様を怖がっていたように、綾ちゃんも朱の山神様を怖がっていた、ということ?」

 すなわち、「畏れ」ではなく「恐れ」についての問いである。

「そうよ。あれは、コウジンだもの」

 うつむいたまま、綾は答えた。

「コウジン?」

「荒ぶる神……こうじんよ」綾は梨花に顔を向けた。「もっぱら、台所を司る神として知られているけど、荒ぶる山のがみを指す場合もあるわ」

 荒ぶる神についても仁志は言及していた。それだけに因縁を覚えてしまう。聞き逃してはならないような気がした。

「なら、あの山神様は女性なの?」

「梨花ちゃんは、どう思う?」

 逆に問い返されてしまった。

「女性のような感じは……しなかった」

 梨花が感じたままを伝えると、綾は得心したような面持ちを呈した。

「実のところ、朱の山神様ががみ様か女神様かは、『天帝秘法写本』には記されていないの。でもね、わたしも梨花ちゃんと同じく朱の山神様は女神様ではないと思う。男の神様と感じたわ」

 それを聞いて梨花は頷いた。感覚的な問題であり、しかも数十分前の出来事のうちのほんのわずかな単位である。それでも梨花は、その雰囲気を確実なものとして思い出していた。

「山を司る女神様は女人が神域に入ること自体を嫌うわ」綾は言った。「でも朱の山神様にはそれがない。わたしやわたしのお母さんだって入れるんだもの。もっとも、女性の山神様についてのうんぬんは、日本全国に散らばる言い伝えによるもの。あとね……朱の山神様については、荒神以外にも、日本神話に登場するまがひのかみも想起できるかもしれない。こっちだと、自然神というより観念神になるけど」

 そして綾は梨花から目を逸らした。言葉を紡ぎ続ける様子はない。

 綾でさえ山神を畏れて――否、恐れていたのだ。それを知っただけでも梨花はいくぶん気が楽になった。

 ふと気になり、梨花は問う。

「賢人くんは今、どうしているの?」

「大広間でみんなと一緒にいるわ。紀夫さんと同じ部屋で休むみたい」

 明らかに賢人も落ち込んでいた。自分たちの行動によって岸本の命は救えたが、同時に、和彦を死なせてしまったのである。さらには、岸本を生け贄にしようとする行為に綾が加担していたのだから、賢人の失意は想像にたやすい。

「賢人くんは綾ちゃんを心配していたの。だから彼のこと、叱らないでね」

「もちろんよ」

 期待どおりの返事をもらえて、梨花は愁眉を開いた。

「賢人が何かしようとしているのは、野辺送りの途中で気づいたわ」綾は続けた。「道端にあの子の自転車が放置されていたの。きっと、無我夢中だったのね。でも……賢人のことはいいんだけど……仁志くんと淳子さんの間には、深い溝ができちゃったみたい」

「うん」と首肯した梨花は、初めて仁志に哀れみを抱いた。彼が昔からそうまで追い詰められていたなど、気づきもしなかったが、今となっては彼の悲憤も理解できる。

「あんな仁志くんでも昔はおとなしくて真面目だったの。悪い子じゃなかった。彼を変えたのは、山神信仰への反発心だったのね」

 そう告げて、綾は遠くを見た。彼女の視線の先には、忌まわしい光の反射が揺らめく襖があった。

「山神信仰の犠牲者、ということ?」

 梨花が尋ねると、綾は視線を落とし、考えるように首をひねった。

「そうね。でも今は、山神信仰の犠牲者、という意味では、朱に残っているみんながそうなんじゃないかな。もしかすると、あの光の先へは行けないのかもしれないし……というより、閉じ込められちゃったのかもしれないのよ。みんなが犠牲者だわ。仁志くんだけじゃない」

「そっか」

 相づちを打ってみるが、単に閉じ込められて済む問題かどうかさえまだわからない。同じ犠牲者でも、和彦のように命を奪われた者もいるのだ。言い換えれば、命拾いをした岸本も、横領犯であるにせよ、現状では犠牲者の一人ということになるのだろう。

「岸本さん」と梨花は声に出した。

「岸本さん?」

 神妙な趣で綾は梨花を見た。

「あの人は横領をしていたんでしょう? そんな人でも、山神様に差し出せば……意図的に死なせてしまったら、罪になってしまう。殺人を犯さずに済んだ、って綾ちゃんも言っていたし」

 昌子ら三人が大広間で提示した情報によれば、岸本は意識を失ったまま葛城宅に運ばれたらしい。無論、昌子らが岸本の罪を知ったのは、喜久夫からの説明によってである。

 いずれにせよ、今回の山神の儀式に参加していない山神信仰の家の代表者たちも、葛城宅に集まっているという。そして、雅之を始めとする数人が、朱地区を取り囲む光を調べている、ということも伝えられた。岸本の件があったにせよ、山神信仰の真実を把握している人たちは懸命に動いているのだ。

「うん」

 綾は頷くが、痛いところを突かれたように動揺を表した。

 申し訳ないと思いつつ、梨花は言う。

「それでもね、わたしが綾ちゃんやうちのお父さんの立場だったら、やっぱり同じようにしたと思う。大切な人たちを守るためにほかに手段がないのなら、そうする」

「でも実際は、梨花ちゃんはそれをよしとは思わなかった」

 不意打ちのような切り返しだった。梨花は思わず息を吞む。

「わたしが梨花ちゃんの立場だったら」綾は言った。「賢人を止めようとして山神様の斎場へ行くなんて、たぶんできないよ。もし先に儀式の内容を知ったとしても、岸本さんみたいな人は捨て石にするしかない、と思うんじゃないかな。梨花ちゃんは芯の強い人だよ。わたしはそうはなれない」

 買いかぶりである、と梨花は思った。あの時点で儀式の内容を知っていたら……ほかに犠牲者が出ると知っていたら、自分も岸本を捨て石にすることを受け入れてしまうかもしれない。

 疑念が湧いた。岸本は無事である。その彼は羽交い締めにされたうえ、睡眠薬で眠らされたのだ。つまり、雅之や和彦を傷害罪で訴えることもありうるわけだ。加えて、睡眠薬は特殊なものらしいが、特殊であれどうであれ、それ自体を許可なく用いるのも罪であるはずだ。野辺送りに参加したほかの者――この綾も、共犯の可能性がある。

 岸本の行く末をどう思うか尋ねたかったが、想定外の出来事による措置など綾の知るところではないだろうし、加えて裁判沙汰の可能性がある旨を意識させるのは酷である。岸本に関する話題は避けるべきだろう。だが、早急に話題を変えるのも不自然だ。

 信代と時子が戻ってくるのを、ただ待つのが得策だ。そんな思いに至り、梨花はため息をついてうつむいた。

 言葉を紡げない、という空気を察したのか、綾も沈黙を守った。

 揺らめく弱い光の中で、二人はうつむいて座っていた。

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