第5話 ③
畳の上で仰向けになっている、という状態に気づいた岸本は、なぜ自分がここにいるのか、そしてここがどこなのか、わからなかった。和室であるのは確かであり、小窓から差し込む光からすると、今は日中らしい。とはいえ曇っているのか、照明の落とされている室内はどんよりと薄暗かった。
頭をわずかに起こして自分の体を見れば、薄い毛布がかけられており、フォーマルスーツを着たままだ。続いて自分の左横に棺が置いてあるのを知り、自分が山神の儀式の立会人であることを思い出す。
「もう起きたのか」
そんな言葉を耳にして反射的に右を見ると、一人の中年男が座布団にあぐらをかいていた。チェックシャツにジーンズという姿の彼は、仏頂面で岸本を睨んでいる。
「ここはどこなんです?」
尋ねながら半身を起こすと、激しい頭痛に襲われた。思わず右手でこめかみを押さえてしまう。
「まだ横になっていたほうがいいぞ、岸本さんよ」
男は表情を変えずに言った。
「わたしをご存じで?」
痛みに耐えながら、岸本はこめかみから右手を離した。
「ああ、支所の職員の岸本さんだ」
そして男は、
「高田さん……
岸本が問うと、とたんにその男――高田は噴き出した。
「そうだが、この期に及んでまだ営業モードかい?」
何もかもがわからない、という状況だが、笑われる理由がわからないのが、この頭痛と相まって腹立たしかった。
「ここはどこなんです? いったい、どうして自分はここにいるんです?」
悔しいが、尋ねることしかできない。
「自分がどうして気を失っていたのか、それさえ忘れてしまったのか?」
高田は怪訝そうな色を呈した。
「気を失っていた?」
ただ寝ていたのではない、ということだ。そしてもう一度、棺を見る。自分が闇に落ちる寸前に目にしたのは、この棺だった。
「あ――」と声を上げてしまった。
「やっと思い出したか」
高田は呆れたように肩をすくめた。
締めつけられるような頭痛の中で、岸本は思い出した。火葬祭の最中に羽交い締めにされ、芹沢和彦によってハンカチで口を覆われたことを。ハンカチがアルコール系と柑橘類を合わせたようなにおいだったのも覚えている。自分を羽交い締めにしたのは、和彦の弟の雅之だったはずだ。
「あんたはあいつらの……野辺送りの連中の仲間なのか?」
営業モードなど吹き飛んでしまった。先にされていたように、岸本は高田を睨みつけた。
「だとしたら?」
否定しているわけでもなく、しかも悪びれた様子もなかった。ならば、間違いないということだ。そして連鎖的に憶測が進んでしまう。
「まさか、森野さんや飛田さんまで?」
自分を山神の儀式の立会人に仕立てた二人なのだから、無関係とは思えなかった。
「そうらしいな」
高田は言った。笑みは消えている。とぼけているようにも窺えた。
「らしい?」
憤りを隠せなかった。隠すつもりさえない。
「ああ」高田は頷いた。「葛城さんから聞いたばかりだ」
「なら、ここは葛城さんの家なのか?」
「そういうことだよ」
その答えを受けて憶測の連鎖がさらに広がった。おのずと重要な問題に突き当たる。
「おれを、どうしようというんだ?」
「今さら、どうしようもできないだろう」
「今さら?」意表を突かれた岸本は、質問を変えてみる。「なら、どうしようとしていたんだ?」
「あんたに説明する役目を承ったからそうするが、本当に面倒くさいな」
げんなりとした表情で、高田は告げた。
いら立ちが募るが、岸本はそれをこらえた。
「説明してやるよ」高田は言った。「岸本さん、あんたはな、生け贄にされるところだったんだ」
「生け贄?」
目を丸くした岸本は、二の句が継げなかった。
「理解できなかったか……だから面倒なんだよな」
高田は首を横に振った。
そこで岸本は、ようやく察する。
「山神の生け贄、ということか?」
「そうだよ」高田はおっくうそうに答えた。「あんたは山神様に食われるはずだった」
数秒の沈黙のあと、岸本は「ぶっ」と噴き出した。
「なんだよそれ……儀式の演出かよ」
しかし、笑い事では済まされない。自分は羽交い締めにされたうえ、麻酔薬らしきもので眠らされたのだ。事実、高田は微笑さえ浮かべていなかった。
「冗談にもほどがある」
言って岸本は立ち上がった。頭痛は鎮まる気配がないが、こんなくだらない行事にかかわる必要はない。何せ自分は、暴行を受けたのだ。
座ったままの高田が、静かに岸本を見上げた。
「生け贄の問題はあとにして……岸本さんは大切な何かを忘れていないか?」
「なんの話だよ?」
眉を寄せ、岸本は問い返した。
「あんたは横領の罪を犯した」
無表情でそう告げられ、岸本は息を吞んだ。
「何を言っているんだ……?」
どういった表情を作ればよいのか思いつかず、意図せず口を引きつらせてしまった。
「だからあんたは、生け贄に選ばれたんだ。どれもこれも、さっき聞いたばかりだがな」
その無表情の目に反論したかったが、言葉が何も出なかった。自分がしでかしたことに対するペナルティ――不安は的中していたのだ。しかし、大勢の人間を巻き込んでのこの猿芝居は何を意味するのか、まるでわからない。
真相を問うべく、岸本は森野に連絡を取ることを考えた。そして上着のポケットに手をやるが、そこにあるはずのものが、なかった。
「スマホ……」と岸本は声を漏らした。
「預かってあるよ」
高田は言った。
「あんたが持っているのか? 返せよ」
横領をしたからといって、警察でもないこの男に私物を奪われる筋合いはない。ましてこの男やその仲間らも、犯罪者には違いないのだ。
「おれは持っていない。ほかの者が預かっている。安心しろ、スマホ以外のものはそのままだ」
安心できるはずもなく確認してみると、上着の内ポケットには免許証や証明書の類いがそのまま入っており、ズボンのポケットには財布が残っていた。念のために財布の中身を確認するが、現金を抜き取られた形跡はなかった。
「そうかよ」
吐き捨てた岸本は、財布をズボンのポケットに戻し、襖に手をかけた。
「どこへ行く?」
問われて岸本は振り向いた。すぐ目の前に、高田が立っていた。岸本より上背があった。
「別の誰かがおれのスマホを持っているんだろう。なら、それを返してもらう」
「どのみち、今はスマホが使えない」
「はあ?」
相手の体躯に臆しながらも、岸本は横柄に対応した。
「使えないのはあんたのスマホだけじゃない」高田は言った。「今、朱ではスマホも固定電話も使えない。おまけに停電だ」
からかわれている、としか思えなかった。岸本はすぐに応戦する。
「スマホがつかえないんだったら、それを預かる理由はないだろう」
「通信が復旧したら、使うだろうが」
「ああ、使うさ」と返して、岸本は部屋を出ようとした。
視界が縦に一回転したのは、そのときだった。気づいたときには、岸本は畳の上で仰向けになっていた。しかも、高田は右手で岸本のワイシャツの胸元を握っており、右膝で岸本の腹を押さえている。
頭痛が倍増した。背中にも痛みを感じる。
岸本は右手で殴りかかろうとしたが、右の袖を岸本の左手がつかんでおり、それは不可能だった。利き手は右手だが、とっさに左手のこぶしで高田の顔面を狙った。
その動きを見越していたのか、高田は素早く上半身を横にずらしてそれを躱した。もっとも、厳つい両手は岸本の胸元と右袖をとらえたままだ。
岸本の胸元が、一瞬、引き起こされた。そしてすぐに畳に送り返され、反動で岸本は後頭部を畳に打ちつける。
頭痛の激しさが二重三重に襲ってきた。
今度は大きく引き起こされた。高田はつかんでいる両手をそのままに、腰を落としつつ岸本に背を向けた。
またしても岸本の視界が縦に一回転した。そして岸本は、背中から畳に叩きつけられ、反動で後頭部も打ちつけてしまう。
背中の痛みはまだしも、頭は割れそうだった。目が回り、高田の顔を直視できない。
「もうやめてくれ。頼む」
岸本は哀訴した。
「だったら、ここでおとなしくしていろ」
言いながら、高田は岸本の胸元を締めつけた。
頭痛や背中の痛みに加えて、呼吸困難に陥った。岸本に要求を拒否する選択肢はない。
「わかった……おとなしくする」
「賢明な答えだ」
言うや否や、高田は岸本を、毛布の落ちている辺りに放り出した。
体が回転しているわけでもなのに、天井がぐるぐると回っていた。頭痛も相まって、上半身を起こすことさえできない。
「もうすぐあんたの見張りの交代時間だ。仲間たちがここに来る。そうしたら、岸本さんにも外の景色を見てもらうさ」
二人がかりか、もしくはそれ以上の人数で屋外に連れ出す、ということなのだろう。
「おれを外に出して、口封じに殺すのか?」
散々痛めつけてくれたのだ。自分の横領を露呈させてでも、これまでの暴行を訴えることはできる。だが、連中がそれ阻止するために非道な手段に出る、という可能性はあるだろう。
「あんたが生け贄として食われていたらそれで済んだんだがな、それがかなわなかった現状としては、こちらも罪を重ねるわけにはいかんだろう。殺しはしないが、どうするかは、みんで話し合って決める」
声が近かった。回転し続ける視界の中で、高田が座布団に座っているのが、どうにか把握できた。
「十分に重ねているじゃないか」
余計な言葉だったかもしれない。この男の機嫌を損ねる言動は慎むべきだ。
「せめてものあらがいだ」
高田は静かに告げた。
「あらがい?」
問い返した岸本は、落ち着いてきた目で、座布団に座っている高田を見た。
「あんたが山神様に食われなかったおかげで、和彦さんが食われてしまった」
「和彦さん……って、芹沢和彦さん?」
対象者の名前よりも対象者がどうなったかが気になり、「食われた?」と続けた。
「ああ。食い殺された」
「山神にかよ?」
噴飯ものであるが、岸本はあえてそう問うた。
「そうだ。山神様は実在する」
実在すると断言されてもそれで信じるようでは、ある意味、まともな人間ではない。
「それが人を食うのか? まるで化け物じゃないか」
目の焦点はどうにか合ったが、頭痛が鎮まらないため、仰向けのまま吐き捨てた。
「化け物だと?」
その揶揄に気分を害したのか、高田は眉を寄せた。
失敗したかもしれない。また暴力を振るわれるのでは――と岸本は己の失言を悔やんだ。
「そうかもな」
意想外の言葉だった。岸本は黙して高田を見た。
「人を食う行為自体がとんでもないことだが、その姿も怪物……というか妖怪だ。あんたの言うとおり、確かに化け物かもしれない」
神妙な趣だった。少なくとも岸本をからかっている様子ではない。
「おれは信じたわけじゃないが」岸本は口を開いた。「その山神の姿を知っているのは、あんただけじゃないのか?」
「野辺送りに出た者は、否応なしに目にすることになるんだ。もっとも今回は……岸本さんは例外だ。生け贄は山神様が現れる前に眠らされる……らしいからな」
「らしい……というのは、やっぱり、聞いたばかりのことだからか?」
「そうだ。今回の山神様の儀式……というか、今回の火葬祭は特別だった。今回は芹沢さんちの葬式だから、そこの野辺送りの参加者と葛城勝義さん、勝義さんの娘の綾ちゃん、その人たちだけが知ることだ」
岸本をじっと見ながら、高田は言った。
それでも、岸本には理解できなかった。
「わからない」
岸本は言うと、高田から目を逸らして天井を見つめた。
なめていた――岸本はこれまでの人生を省みた。
市役所職員として採用されたのを機に、反りが合わない両親に見切りをつけ、金盛市にある自宅を出て同市内のアパートで独り暮らしをしてから十年になるだろうか。あれから両親と会ったのは二回だけだ。盆の墓参りさえ行っていない。
自分だけでどうにかなる。親から解放されて自分の人生は自由なばかりだ――などと浮かれていたのはいつまでだったのだろう。
気づけばギャンブルにはまり、膨大な額の借金ができていた。二千万円を超す額の横領に手を出したのはこのためだった。
そしてすべてが崩れてしまった。
「なあ、高田さん」
天井を見つめたまま、岸本は高田に声をかけた。
「なんだ?」
「おれは、これからの人生をどうすればいい?」
お門違いの質問だったに違いない。笑われるのを承知で、答えを待つ。
「悩んでいる、といことか?」
問い返してほしくなかった岸本は、「ああ」とだけ返した。
「おそらく」高田は言った。「今回の野辺送りに参加した人はみんな、あんたと同じ悩みを持っているよ……というか、持ってしまったな」
「おれが食われなかったから?」
「つまりは、火葬祭が失敗したから、ということさ。とんでもない事態に陥ってしまったんだよ。もしかすると、取り返しのつかない事態なのかもしれない」
「取り返しのつかない事態……って?」
尋ねて、顔を高田に向けた。
「外の景色を見ながら説明を受けたほうがわかりやすいが……」そこで高田は、小窓に目を向けた。「今、何時だか、わかるか?」
問われて岸本は左手を見た。アナログ腕時計もそのまま残っている。
「午前九時半を過ぎたばかりだ」
短針と長針の位置を確認して、そう答えた。
高田も自分の腕時計を見た。そして視線を岸本に移し、不敵な笑みを浮かべる。
「午前ではなく、午後だ。午後九時半だよ」
「午後だって?」
目を丸くした岸本は、もう一度、小窓を見た。その光は、どう見ても夜を想起させない。
「まあ、しばらく待てよ。外に出たら、わかることさ」
訴えて高田は口を閉ざした。
今は何を訊いても無駄なのだろう。
それを悟り、仰向けの岸本は目を閉じた。
外に出るまでは休んでおこう。
頭痛は少しだけ引いていた。
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