第1話 ④

 今朝は熱が下がらなかったにもかわらず布団をたたむつもりでいた。こんな性格ゆえ、無理を押して風邪を引いたのかもしれない。肝心なときに体調を崩し、二十二歳の娘に昇天の儀という大役を任せる事態となってしまったのだ。

 とはいえ、勝義もまだ四十八歳だ。先代が十一年前に他界してすぐに引き継いだため、三十七歳にして会社員を辞して宮司となったが、その当時は無論のこと、今でさえ「若すぎる」と半畳を入れる者がいる。

 妻のみどりまでをも失った今では、斎主を頼める家族といえば綾だけだ。高校生の賢人には儀式の作法も山神がなんたるかも伝えていない――というより、山神の儀式は今回をもって最後となるため、彼に伝授する必要はない。願ったりかなったりだ。気の毒なのは、最後の儀式を担うことになった綾である。

 ――たった一度きりとはいえ、よりによって昇天の儀とは。

 布団の中で天井を見つめたまま、勝義は娘の不憫を心の中で嘆いた。それが今の勝義にできる唯一の贖罪なのかもしれない。

 掛け時計を見ると午後二時六分だった。

 おもむろに半身を起こすが、特に目まいなどは感じなかった。昼食後に測った体温は三十七度一分であり、基礎体温に鑑みても微熱であるが、いかんせん喉の調子が悪いままである。祝詞の最中に咳き込んだり咳払いをしては、凶事を招く恐れがあるのだ。山神の儀式を重く受け止めるのは一部の住民だけだ。あか地区の住民の大半を占める仏教徒においては、「山神の儀式」なる言葉さえ知らない者もいるだろう。とはいえ、不首尾は許されない。

 どうにか立ち上がると、パジャマのまま襖を開けた。そして廊下に立ち、掃き出しの窓を開ける。

 雑草がちらほらと窺える殺風景な和風の庭だ。生け垣以外の庭木のほとんどを処分してしまい、花壇の花々も見頃は過ぎており、だだっ広いだけの土地に変わり果てている。老後の自分がそこで家庭菜園をしている光景を、つかの間、脳裏に浮かべた。

 因果なものだ、と勝義は思った。事実を知る者は当然だが、山神の儀式、という祭儀があると知るのみの者でさえ、この風習を――否、山神を恐れている。事実を知らない者にしてみれば存在しないも同然の神だが、事実を知る者にとっては心の底に染みつく重い闇だ。だからこそ、葛城家の者以外で野辺送りに参加した経験のある輩は、葛城家の者と適度に距離を置くのである。

 ならば、綾のみならず賢人も肩身の狭い思いをしているに違いない。だが綾も賢人も、それを口にしたことは一度もなかった。二人とも聞きわけがよいのだ。母を失ってからはなおのこと、父である勝義に気苦労をかけまいとしている。父としては素直に喜びたい反面、複雑な心境だ。

 あと一時間もすれば綾は帰宅するだろう。賢人も一緒らしい。綾は夕食のために出来合いの惣菜を買ってくるという。普段なら勝義と綾、まれに賢人も加わって夕食の準備するのだが、今日は風呂の準備だけしておけば問題はない。

 少し寝たせいか、午前よりは調子がよかった。じきに喉も回復するかもしれない。そうすれば綾に任せる必要はなくなる。

 綾は「あれ」を一度だけ目の当たりにしているが、そのときの彼女は正気を保つのも危うい状態だった。まして今回は特別な贄を捧げるのだ。綾はそれをも知ったうえで、代役を務めるという。

 勝義はため息を落としつつ窓を閉めた。


 畑周辺の草刈りを終えた矢田やだ昌子まさこは、草刈り機のエンジンを切って麦わら帽子のつばを上げると、畑に隣接した空き地に顔を向けた。昌子と同様の麦わら帽子姿のゆうが、空き地の手前の斜面で草刈り機を操っている。

「あなたー」

 声をかけたが、草刈り機の音が邪魔なのか、裕次は反応を見せない。

「あなたー!」

 ボリュームを上げてもう一度声をかけると、ようやく裕次は顔を上げ、草刈り機のエンジンをアイドリングにした。

「どうした? そっちはもう終わったのか?」

 やや疲れ気味の表情で、裕次は問うた。

「もうこれくらいでいいんじゃないの。二時には終わろう、って言っていたけど、今、何時なの?」

 昌子が尋ねると、裕次は草刈り機の回転刃を地面につけ、腕時計を見た。

「二時二十分かあ」そして裕次も草刈り機のエンジンを切った。「そうだな。三時からのあれに間に合わなくなっちまう」

 あれ、とはテレビドラマの時代劇のことだ。そんなに焦るのなら録画予約しておくべきだろう、と昌子は思う。もっとも、西の藪の向こうに見える我が家は直線距離でここから百メートルほどであり、迂回路を通らなくてはならない車でも一分程度だ。

 昌子は「まだ間に合うわよ」と口走り、空き地へと移動した。

 気づけば、一帯は青臭さに満たされていた。

 乗用車が三台は駐車できるスペースに一台の軽トラックがあった。裕次の所有車だ。

 草刈り機を軽トラックの荷台に置いた昌子は、脱いだ麦わら帽子も荷台に置くと、首に巻いていたタオルで額の汗をぬぐった。

「斜面の草はまだ少し残っているけど、明日にしよう。小一時間程度で終わるだろう」

 遅れてやってきた裕次が、そう言いながら自分の草刈り機を昌子の草刈り機に並べた。

「そうね。ドラマもあるけど、とにかく今日は早いうちにしまわないと」

「ああ」裕次は頷いた。「芹沢さんちの野辺送りがあるからな」

 そして裕次は、開けっぱなしの助手席の窓に手を入れ、床に置いてあったクーラーボックスを取り出し、それを荷台に置いた。代わって昌子がクーラーボックスを開け、五百ミリリットルの麦茶のペットボトルを二本、取り出す。

「あそこのお宅では、未だに自宅からだものね」

 言って昌子は、片方のペットボトルを裕次に渡した。

「啓太さんもそうだったけど、和彦さんも信心深いからな」

 遠くを見るような目でそう返した裕次は、キャップを開けるなりペットボトルに口をつけた。

 昌子と裕次は芹沢啓太の通夜祭と葬場祭のどちらにも参列した。矢田家の葬式でも山神の儀式を執りおこなっていたため、今回の流れも勝手知ったるものであり、二人にとって特に問題はない。とはいえ矢田宅は神会の東寄りであり、芹沢本家宅と山神の広場とを結ぶ里道の近くにあるのだ。野辺送りが矢田宅の近くを通過する時間帯は、午後六時半を過ぎた辺りのほんの数分間だ。しかし、裕次や昌子に急用が生じないとは言いきれない。外出するにも帰宅するにも、葬列と鉢合わせになる事態はありうるのだ。

「でも、山神様の儀式もこれで最後よ」

 ペットボトルのキャップを開けながら、昌子は言った。

「面倒だったもんな。村が金盛市と合併して、本当に助かったよ。今回の神葬祭自体が稲刈りのあとだったのも、幸いだったけど」

「滅多なことを言うもんじゃないわよ」

 たしなめてから、昌子は麦茶を飲んだ。

「よそから嫁いできた割には、信心深いんだな」

 揶揄する表情の裕次は、もう一口飲むと、ペットボトルのキャップを閉めた。

「だって、人が亡くなったのに、幸いだなんて不謹慎よ。それに、神様は神様でしょう。お粗末にはできないわ」

 そして昌子ももう一口飲み、キャップを閉める。

「不謹慎だったのは反省するよ……でも、今後はほかの神道と同じような形式で葬式ができるんだ。まあ、これを機会に仏教に変えてもいいけど、そっちは金がかかるからなあ」

「そういうのが不謹慎なのよ」昌子は肩をすくめた。「とにかく、今日は今日でしかたがないから、明日は早く来ましょう。雑草の残りを刈ることより、人参と玉ねぎとキャベツを採ることを優先しなきゃ」

 直売所に出荷するぶんではない。東京の企業に就職した息子たちに送るぶんである。二人いる息子はどちらもまだ独身であり、特に次男は今年の春に上京したばかりだ。それでも昌子の指導により二人とも料理はそこそこにこなせた。兄弟の仲は良好だが、同じ東京に住んでいても滅多には会えないほど、それぞれは多忙な毎日を送っている。

「そうだったな」と相づちを打つ裕次の横顔を、昌子は一顧した。

 昌子は野辺送りに参加したことがない。裕次の両親の火葬祭のいずれでも、昌子は山神の広場から葬列を見送るまでだった。そんな昌子が山神を尊崇するのに対し、両親のときはもちろんのこと隣近所の山神の儀式にも参加した経験のある裕次は、山神を侮蔑する態度を見せるのだ。

 ――この人は山神様を恐れている。

 今になって感じたことではない。しかもその感触は裕次だけではなく、山神の儀式に加わった経験のあるすべての者に感じられるのだ。特に裕次は、不謹慎な言動でそれを隠している様子だった。

「でも確かに、息子たちには負担がかからなくてよかったのかも」

 ふと出てしまった言葉だった。

「山神様の儀式のことか?」

 問われて昌子は、自分こそ不謹慎なのかもしれない、と思った。

「え、ええ」取り繕うためにも、何かを口にしなければならない。「市役所も気を利かせたつもりなんでしょうね」

「そうかもな」

 答えた裕次は麦わら帽子を脱ぎ、それを荷台の麦わら帽子に重ねた。

 自分の口から出た言葉に疑問を覚え、昌子は裕次に顔を向けた。

「でも、なんか変よね」

「何が?」

 裕次は眉を寄せた。

「その市役所よ」眉を寄せたいのは昌子のほうだった。「今まではご遺体が問題なく火葬場に運ばれるか、そしてちゃんと火葬されるか、それを確認するために村役場の職員が立ち会っていたんでしょう。でも朱村と合併した金盛市は、そんな風習は好ましくないとして市の条例を作った……まではいいんだけど、だったら、どうしてさっさと廃止にしないんだろう? 今回が最後、として芹沢さんのところのは許可しちゃったんだよ」

「何百年も守られてきたしきたりだからさ」

「だからって、そんなのを市役所が認めるわけ?」

 問い詰めると、裕次は首を傾げた。

「本当のところ、市役所がどうかかわっているのか、おれにもわからないんだ」

 偽りではないらしい。もっとも、山神の儀式における火葬祭の現場を知っているからこそ市役所の対応は理解しがたい、といった表情にも窺えた。

「やっぱり飛田とびたさんなんじゃない?」

「ああ……」

 たどたどしい様子で裕次は頷いた。

 飛田は旧朱村役場で福祉部部長を務めていたが、金盛市との合併を機に金盛市役所市長室長に昇進した。その彼が、山神の儀式を陰で支えた功労者なのだ。

「しかし今の飛田さんは市長室長だぞ。市民課なら口出しもできようが……」

 裕次は説くが、それで得心がいくわけがない。

「根回ししたのかもしれない」

「飛田さんがか? ありえないよ」

 大げさな失笑を受け、昌子は理性を失いかけた。

城島じょうしまさんの奥さんやさかがみさんの奥さんも、わたしと同じ考えだったわよ。最後の最後にして立会人が替えられちゃうし」

「おまえ、そんなことをよその家の人らと話してるのか?」

 裕次の焦燥の色を見て、昌子は我を取り戻す。

「内輪だけのひそひそ話よ」

「内輪だけ、ってな……国道も県道も整備されているけど、やっぱり閉ざされたに近い土地だからな。滅多なことは口にするなよ」

「わかっているわよ」

 裕次は昌子をたしなめる立場にないはずだ。山神の儀式について知っていることを、彼は何も口にしない。昌子の「内輪だけのひそひそ話」のほうがよほど他愛ないはずだ。それだけに腹立たしかった。その勢いで、飲みかけのペットボトルをクーラーボックスに入れ、重ねられた二つの麦わら帽子を手にして助手席のドアを開けた。

 すかさず裕次も自分のペットボトルをクーラーボックスに入れた。

「さっさと帰るか」

 話題を切り上げたらしい裕次が、クーラーボックスを助手席の足元に置いた。

 昌子は助手席につくと、クーラーボックスを足でシートの下に押し入れ、ドアを閉じた。

 自宅に着くまでに機嫌を直そう――昌子はそう思った。


 車を発進させたときには綾の気分は鎮まっていたらしい。

 芹沢本家の屋敷まで送る、と綾は言ってくれたが、梨花はコンビニエンスストアで降ろしてほしいと頼んだ。ゆっくりと買い物をしたかったのだ。

 コンビニエンスストアの駐車場で梨花が車を降りると、綾が運転席のドアガラスを開けて「それじゃ、夕方のお清めのときにね」と声をかけてくれた。

 続いて後部座席のドアガラスが開き、「仁志さんの嫌がらせがあったら、いつでも迷わず連絡してくれよな。なんだったら、今からコンビニの中で警護するよ。また来ているかもしれないじゃん」と賢人が言った。

「いないと思うけど、仮にいたとしても、なんとかするよ。よほどのときは、賢人くんに連絡する」

 苦笑しつつ、梨花は答えた。

「賢人ったら、梨花ちゃんと連絡先の交換をしたの?」

 綾が後部座席の賢人を横目で睨んだ。

「別にいいじゃん」とうなった賢人は、綾から目を逸らした。

「綾ちゃん、ありがとう」梨花は綾に礼を述べると、賢人に顔を向けた。「賢人くんも、ありがとうね」

 それを聞いて賢人は表情を緩めた。

「気をつけて帰ってね」

 綾は言って、車を発進させた。

 県道を西へと走り去る軽トールワゴンを見送り、梨花はコンビニエンスストアへと入った。客の入り具合は先ほどと大差はない。とりあえず店内を見渡すが、仁志はいないようだ。

「今日、本郷で自宅からの野辺送りが出るんだってよ」

「野辺送りって、火葬祭の? じゃあ夕方は、本郷のほうには行かないほうがいいね」

 主婦らしき中年女の二人組が、店から出る際にそう交わした。

 なんとなく、胸が痛いような気がした。

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