第2話 ④

 入浴を済ませた森野は部屋着を身につけ、書斎へと入った。夕食は断った。ダイニングで食卓に着いているのは妻と息子だけだ。「調子でも悪いの?」と尋ねた妻には、食欲のない旨のみを伝えておいた。家族三人が定時で帰宅したのだ。久しぶりに三人が夕餉に顔を揃える機会だが、そんな気分ではない。

 二歳年下の妻のあきあか地区の診療所で看護師をしており、三十三歳の息子のたもは市街地の企業に勤めていた。昭子は仕事が充実しており、一方、恋人がおらず未だに独身の保津もそれなりに日々を横臥している。平凡で幸せな家庭であるに違いない。

 森野が山神信仰から手を引いたのは十年も前だ。妻も息子も森野の両親の葬式には立ち会っているが、山神の儀式には参加しておらず、山神がなんたるかを把握していない。

 森野は机を前にして椅子に腰を下ろした。自分が犯罪の片棒を担ぐかもしれない――これまでの人生を一変させるに足りる脅威だ。今夜の儀式が無事に済めば問題ないが、最悪の場合は家族を巻き込む可能性がある。警察沙汰では済まなくなる、というわけだ。

 ふと、「逃げる」という選択肢が脳裏に浮かんだ。昭子と保津を伴って車でこの土地から離れるのだ。唐突すぎるが、週末の夜のドライブという手が使えるかもしれない。何も起こらなければ翌日にでも平然と帰宅すればよいだろう。不審に思われるに違いないが、どうにか言いくるめるしかない。

 森野は腰を上げた。


 凹凸の多い細い砂利道を進んだ先に、小学生が野球をするには格好の広さの空き地があった。この一角は砂利さえ敷いておらず、車が徐行しただけでも土埃が立ってしまう乾いた地面だ。

 その奥に霊柩車を停めた岸本は、エンジンをかけたまま、そしてヘッドライトを点けたまま、運転席で宵闇の景色を見渡した。言うまでもなく人の姿は皆無だ。フロントガラスやドアガラス越しに寂寥とした空気を感じる。

 日中のうちに確認しておいた目印が、目の前でヘッドライトに照らされていた。空き地の北側――雑木林の手前に立つ一枚の看板だ。手作りの立て看である。縦長のベニヤ版に『これより先、私有地につき立ち入り禁止』と手書きの縦書きで記してあった。立て看の先には細い道があり、雑木林の暗闇へと延びている。特に柵もフェンスもなく、難なく入れる状態だ。

 北には山林が迫り、それ以外の周囲は藪に囲まれている、という一角だ。岸本が車を走らせてきた細い道と同様の道が何本か放射状にこの空き地から闇の中へと延びており、北以外の方角の遠くに何件かの民家の明かりが見えた。

 そして再び、視線を雑木林の中の細い道に向けた。まだ足を踏み入れてはいないが、山神の斎場がこの奥にあるのは間違いない。あと数十分後に、岸本は野辺送りに合流してこの雑木林に入ることになる。

 薄ら寒さを覚えて肩をすぼめるが、改めて、この職務の手軽さに首を傾げてしまう。薄ら寒い思いをしなければならないことを除けば、何もかもが容易だ。むしろ、やりがいのない仕事ゆえ、誰もやりたがらないのか。

 否――と岸本は肩をこわばらせた。朱地区では忌避されている儀式なのだ。表向きには知られていない何かがある。しかも、住民の一部はそれを知っているらしい。ならばなぜ、隠匿されている何かにかかわるかもしれない仕事に、この自分が任命されたのか。

 ――任命されたんじゃなくて、左遷されたんだったな。

 だからこそ岸本は、さらなる疑念を抱いてしまう。弱みを握られているのは自分のほうなのだ。なぜ市は――これらを牛耳っている誰かは、自分を儀式の立会人に仕立てたのか。

 葛城宅はこの近くにあるらしい。もしかすると今このときにも、草むらで葛城家の誰かが監視しているかもしれない。

 芹沢本家宅の庭で、清めに入る直前にほんのつかの間だが綾と視線が合った。人を哀れむようなあの目はこちらの事情を知っているということなのだろうか。彼女の胸中を察するのは不可能だが、こちらの不快感が払拭できないのは事実だ。

 そろそろ森野に経過報告をしなければならないが、それさえためらわれた。上司である森野というあの太り気味の男も、結局は同じ穴の狢だろう。

 岸本はこの朱地区から遁走したくなっていた。しかし自分に逃げ場所がないことは、すでに承知している。

 今回だけなのだ。たった一度きりである。この職務が済んだら辞表を提出し、自由の身となるのだ。

 あとのことは、それから考えればよい。

 岸本は霊柩車のヘッドライトを落とし、エンジンを切った。


 無駄話をする者も手を休める者もいなかったおかげか、台所での洗いものは五分程度で終わり、「居残った者でお茶を飲もう」と淳子が提案した。居間には、棺が安置されていた部屋の襖の取り付けや庭の片づけを済ませた男たちがいた。姿の見当たらない仁志を除いた男女全員ぶんのお茶が準備されたところで、梨花は奥の部屋へと行き、トレーナーとジーンズに着替え、スマートフォンの入ったポーチを袈裟懸けにした。そして、持参した運動靴を手にして玄関へと向かう。

「梨花ちゃん、お茶は? 今から出かけるの?」

 襖が取り外されたままの大広間から、淳子に声をかけられた。

 梨花は足を止めた。運動靴を手に提げていれば不審に思われても仕方がない。

 見れば、居合わせた全員が梨花に好奇の目を向けていた。

「ううん、スマホで電話をするから庭に出ようかと……」

「何も部屋ですればいいじゃない」

 淳子は呆れたように言うが、絶対に聞かれたくないのだから、屋内での通話は避けるしかない。

「まあ、いいじゃないの」花江が言った。「若い人だもの、年寄りなんかに聞かれたくないわよ」

 嫌みとも受け取れるが、その表情から推測するに悪気はないようだ。

「電話を済ませてから飲むね」と伝えて、梨花は先を急いだ。

 棺が安置されていた部屋の襖は完全に閉じてあった。それでも、啓太の声が聞こえてくるかもしれない、という疑心暗鬼に駆られ、不謹慎とは思いつつもその前を足早に通り過ぎる。そして、玄関で運動靴を履いて庭へと回り、そこで思わず足を止めた。

「誰かと思ったら梨花か」

 外灯の下で声をかけてきたのは俊康だった。一人で喫煙していたらしく、右手にタバコ、左手に携帯灰皿を持っている。梨花が着替えている最中に外に出たのだろう。

 六十八歳の俊康は実年齢以上に老けて見えた。足腰が弱いということで常に猫背ぎみである。親族からの意見があり、今回も前回と同様に野辺送りに参加できなかったが、本人に至ってはさほど残念そうな雰囲気でもなかった。俊康の心中を梨花は知る由もないが、そんな俊康の様子を目にした紀夫が、「俊康おじさんが出られないんだったら、自分が代わりに行くのに」と何度も憤懣を漏らしていた。

 梨花は俊康の肩越しに庭を見た。概ね片づいているが、大麻とそれを差してある台はそのままだった。この大麻はすべての行程が済んでから綾が回収する、ということを梨花は聞いていた。大麻は、穢れを拭き取ったあとは清めて処分する。火葬祭と埋葬祭でも大麻を使うらしいが、それら二つの儀式では和彦が手にしていた二本のそれぞれを使うのだろう。まして綾は臨時駐車場に自分の車を停めたままなのだから、ここに使用済みの大麻が置かれたままなのはむしろ当然である。

「まさか、タバコを吸うのかい?」

 本気とも冗談ともつかぬ問いかけに梨花は苦笑した。

「電話をしようとしただけなの」

 タバコのにおいが気になり、梨花は数歩、あとずさった。

「電話だったのか。じゃあ、おれはすぐに退散しよう」

 言って俊康は、まだ半分ほど残っているタバコを携帯灰皿に押し入れようとした。

「大丈夫」梨花はとっさに口にした。「門の外で電話するから、俊康おじさんはゆっくりしていて」

 大叔父である俊康を梨花は「俊康おじさん」と呼んでいる。滅多に会わないこの老人は祖父の弟であるが、一般的な慣習でも「俊康おじいちゃん」と呼ばないことは、さすがに心得ていた。

 この俊康とその弟の喜久夫は、それぞれ県外に住んでいる。ゆえにこの二組の夫婦も昨日から芹沢本家宅に泊まっており、野辺送りに出た喜久夫を除く三人は今晩もここで過ごす予定だ。しかし梨花は、午前の葬場祭に出席してからずっと、その大叔父や大叔母の誰とも会話らしい会話をていなかった。今が絶好の機会なのだろうが、たばこのにおいはともかく、賢人に電話をかけることが優先である。

「いや、しかし――」

 俊康は言いかけたが、梨花は頭を下げてその場をあとにした。

 スマートフォンの着信が鳴ったのは、門を出た直後だった。ポーチから出したスマートフォンを見れば「賢人くん」と表示されている。塀伝いに東へと歩きながら、梨花は電話に出た。

「こっちからかけちゃって、ごめん。手、空いたかな?」

 口火を切ったのは賢人だ。

「ちょうどね、賢人くんに電話をしようとしていたところ」

 抑えぎみの声で返しつつ、梨花は塀の角を左に曲がって細い脇道へと入った。

「じゃあ、野辺送りは出発したんだね?」

「うん、二十分くらい前に出たよ」

 答えた梨花は、これ以上進むと通りの街灯の明かりが届かなくなる、という位置で足を止めた。それでも、想定していた以上の明るさがある。ふと見上げれば、レモンのような形の月が東の山並みの上に浮かんでいた。

「じゃあ、山神の斎場に着くまであと三十分くらいか」

 賢人のその言葉を耳にして、梨花は胸騒ぎを覚えた。山神――と呼び捨てにしているのも気になるが、野辺送りの到着時間を尋ねるというのも腑に落ちない。

「賢人くん、今、どこにいるの?」

「そっちへ向かうつもりだったんだけど、乗っていた自転車がパンクして、転んじゃったんだ」

 そもそも梨花の胸騒ぎは、賢人が何を企んでいるか、だった。しかし賢人の災難に意表を突かれてしまう。

「転んだ? けがはしていないの?」

「草むらに突っ込んだおかげか、どこもなんともない」

「そう、よかった」安堵したが、だからこそ、鎮まりかけていた不安が再浮上する。「まさか、野辺送りを止めようだなんて思っていないよね?」

「止めるつもりで出てきた。こうなったら、ここで待ち伏せするさ」

 はたせるかな、梨花の危惧は証明されてしまった。自分の近くには誰もいないはずだが、それでも通りに背を向け、小声で問う。

「野辺送りが通る道にいる、っていうこと?」

「そうだよ。畑の間の細い道。山神の広場に近いところ」

「ちょっと待って。野辺送りを止めるだなんて、そんなこと、しないほうがいいよ」

「野辺送りを止めるとは、とんだ暴挙だな」

 賢人の声ではなかった。電話の向こうではなく、梨花の背後から聞こえた。

 肩をすくめて振り向くと、カジュアルシャツにワイドパンツという姿の仁志が立っていた。

「梨花ちゃん、どうしたんだ?」

 賢人は呼びかけるが、梨花はスマートフォンを耳に当てたまま言葉を失っていた。

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