第2話 ③

 鍋を洗い終えたおりは、そのタイミングで「お父さんの帰り、遅くなるの?」と背中に声をかけられた。見れば、リビングのソファに座る娘のが、ゲーム機を操作していたはずの手を休め、ワンレンショートがそこそこ似合っている顔をこちらに向けている。

「さっき、スマホにメッセージが入ったの。残業で遅くなるから夕飯は先に食べておいてくれ、って」

 沙織がそう答えると、満里奈は不服そうに「ふーん」と鼻を鳴らした。

「あら、お父さんと一緒に食べたかった?」

「そうじゃないけど、この間みたいにさ、終バスを逃したお父さんをお母さんが車で駅まで迎えに行く……なんてことになったら嫌じゃん。それに、あのときのお父さん、かなり酔っていたし」

「あのね、迎えに行くのはお母さんなんだよ。それに終バスに間に合わないのは飲み会のときばかりじゃないでしょう。残業でそうなることだってあるんだから」

 ため息混じりに言った沙織は、洗った鍋を水切り篭に入れ、タオルで手を拭いた。

 夫のは市外の企業に勤めており、自宅と駅との間は路線バス、その先の区間は鉄道を利用していた。終電を逃すことはこれまでに一度もなかったが、終バスに限っては何度かしくじっている。

「だって」満里奈は言った。「理由が飲み会でも残業でも、同じことだよ。お母さんがお父さんを迎えに行ったら、わたしが一人で留守番なんだもん」

「だったら一緒に迎えに行けばいいじゃない」

「面倒臭いし」

「そう言うと思った」

 いつものことだ。むしろこの怠慢な態度が出なくなったら、それはそれで憂慮すべき事態なのかもしれない。

 父の話題に飽きたのか、満里奈はゲーム機の操作を再開させた。

 そろそろ配膳の準備に移ろうと思い、満里奈の面倒臭そうな表情を見るのは嫌だったが、沙織は手伝いを頼もうと口を開きかけた。

「そういえば」と先に言葉を発したのは満里奈だった。「今日は本郷で野辺送りがあるんだってさ」

「何それ? のべ……何?」

 不意に向けられたら言葉が把握できず、沙織は問うた。

「お葬式にやる行列みたいなものだよ」

 ばかでも見るかのような目を向けられ、沙織は憤慨した。

「その野辺送りなら、お母さんにだってわかるわよ」

 うっかり口を尖らせてしまったが、それがおかしかったのか、満里奈は失笑した。

「本当かなあ?」

「本当に決まっているでしょう。それより、野辺送りがどうしたの?」

 実のところ、野辺送りは世間話程度に耳にしただけであり、詳細を把握しているわけではない。とはいえ、娘にあげつらわれるのもしゃくに障るため、沙織は話を先に進めたかった。

「その野辺送りって、ちょっと変わっているんだってさ」満里奈は言った。「なんていうか、このあか地区には何軒かの家で代々続いている信仰があってね……」

 満里奈はうまい具合に沙織の問いに食いついてきた。母としての体面を保つためにもこの流れを乱すわけにはいかない。特に興味はなかったが、煽ってみる。

「信仰……ふーん、それでそれで?」

「えーとね……」満里奈は一呼吸を置いて続けた。「その野辺送りは、見送るのはそのお葬式に参加した人だけで、それ以外の人は見てはいけないんだって」

「見てはいけない?」軽い相づちを打って済むものと期待していただけに、瞬時にして自分を取り巻いた不穏な空気に、沙織はおののいてしまう。「見てはいけない野辺送りが、今日……これからあるの?」

 すでに日は落ちているのだ。宵闇に死者を送る葬列が歩き進む様子を思い浮かべ、固唾を飲んでしまう。

「うん、そうらしいよ」

「そうなんだ……」

「お母さん、そんな風習が朱にあっこと、知らなかった?」

 尋ねられて、沙織は首をかしげた。

「うーん……あ、そういえば」ふと思い出し、首を立てる。「いつだったか、保護者会の集いで誰かが言っていたの。なんとかという神様を祀る家がこの朱に何軒かある、って」

「山神様?」

 確認するように、満里奈は声を潜めた。

「そう、山神様よ」沙織も思わず声を潜めてしまう。「得体の知れない神様なんだって。この平田の新興住宅地に住んでいる人たちはもちろんだけど、それ以外の……この朱に元から住んでいる人たちでも半数以上はよくはわかっていないんじゃないか、って言っていた」

「誰が言っていたの?」

「はす向かいのひるさんの奥さんよ」

 長男が満里奈と同じクラスである蛭田家とはそこそこの付き合いがあった。もっとも、親密なのは母親同士である。父親たちはたまに世間話を交わすが、子供たちに至っては挨拶を交わす程度だ。

「蛭田さんのおばさんは、古い住人から聞いたんだね。それとも又聞きかな?」

 満里奈は尋ねた。

「さあ……それはわからないけど、満里奈は誰から聞いたの?」

ちゃんだよ。波瑠ちゃんちでも山神様を祀っているんだってさ」

 波瑠、とは満里奈のクラスメートの女子生徒だ。自宅は東郷である。

「波瑠ちゃんちは昔からあるおうちだったわね」沙織は頷いた。「なら、彼女もその野辺送りに出たことがあるのね」

「ない、って言っていたよ」即座に満里奈は否定した。「波瑠ちゃんちでもその野辺送りを出したことはあるんだけど、たとえそういった信仰をしている家だとしても、野辺送りに参加できるのは限られた親族だけなんだって。波瑠ちゃんちで野辺送りをやったときはおじいちゃんのお葬式だったんだけど、孫というだけでは野辺送りに参加する資格がなくて……それに未成年者や女子はよほどでないかぎり野辺送りを見送るだけなんだってさ」

「そ、そうなの……」

 沙織の声が震えたのは演出ではないが、一方の満里奈は目を輝かせている。

「ねっ、気味が悪いよね。でもね、たかくんは波瑠ちゃんを本気で怒ったんだよ。余計なこと言うんじゃねえ……ってね。高田くんちも山神様を祀っているらしいよ」

 高田という少年は西郷が自宅だ。彼の家もやはり古くからの世帯である。

「どうして高田くんが怒らなきゃいけないの?」

「そのあとで波瑠ちゃんから聞いたんだけど、山神様の信仰にかかわりのない人には細かいことを知られちゃいけないんだってさ」

「あらまあ」

 娘の学級内での諍いを知り、沙織は憂いを抱いた。六人という小さなクラスではちょっとした諍いでも一人一人にかかるストレスは大きくなる。しかもたった一学級しかないのだ。それは二学年ばかりではなく、一学年と三学年においても同様だ。朱中学校は満里奈が卒業したあとで小学校とともに閉校する予定だが、「それまでに大きな問題が起こらなければいいのに」と願うのは沙織以外の父兄も変わらないはずだ。以降は小中学生とも市街地の学校にかようことになるが、それを羨ましく思っているのは、満里奈よりも沙織に違いない。

 朱地区全体で見れば、グリーンタウン平田の戸数よりも旧家の戸数のほうが圧倒的に多い。しかし朱小学校と朱中学校のいずれも、古くからの家の子供は全校児童生徒の三割程度だ。山神信仰の家に生まれた子供はそれよりもさらに少ないだろう。児童生徒で最も多いのはこのグリーンタウン平田に住む子供たちである。だが、多勢に無勢とはいかない趣は以前からあったのかもしれない。特に男子は、グリーンタウン平田以外の子供のほうに威厳があるらしい。

 一方の大人たちといえば、さすがに新旧住人が対立することはないが、さりとて深い交流があるのでもなかった。それは、子供たちの場合と比較して都会での人間関係のごとく無関心の度合いが高い、ということなのかもしれない。

 朱地区の古くからの住民は概ね排他的なのだろう。だが、山神を信仰する一部の人々においては過剰の嫌いがある。これまで深く考えたことはなかったが、沙織は改めて陰鬱なその空気を意識した。

 新天地と浮かれて移住したが、はたして正解だったのだろうか。考えてみれば、近所付き合いも一部の家庭との間だけであるし、市街地から離れすぎているために利便性の悪さもある。

「お母さん」

 声をかけられて目を向けると、満里奈の不安げな面もちがあった。

「なんでもない」沙織は慌てて笑みを繕った。「さあ、ご飯にするよ。満里奈もこれ、一緒に運んでちょうだい」

 言って沙織は、料理を盛りつけた皿をお盆に載せ始めた。

「やっぱり手伝うようかあ」

 満里奈は肩を落とすが、それでも、沙織の反応に安堵したようだった。

 いつものいしづか家の風景が戻っていた。


 全員の箸が置かれているのを確認した和彦が、立ち上がって「会食を終えます」と告げた。

 さっそく男女総出で膳を台所に下げた。梨花や仁志も働いたが、無論、状況からして仁志が梨花にちょっかいを出すことはなかった。

 食器洗いは清めのあとだ。まずは廊下の掃き出しを大きく開いた。棺の置かれた部屋は再度、襖のすべてが取り外された。そして、開け放たれたその部屋に照明が灯され、紙垂つきの注連縄を巻いた棺が丸見えとなった。

 襖の撤去は梨花も手伝ったが、ここから清めが始まるまでは、割り当てられた仕事はない。信代とともに廊下の片隅に立ち、清めの準備を見守る。

 俊康と喜久夫によって庭の東寄りに木製の台が用意され、和彦、雅之、紀夫、仁志、岡野、大賀、柴田ら七人によって棺が廊下からその台の上へと運ばれた。もっとも、仁志は棺に手を添えているだけのようにも窺えた。

 台上の棺はその一方の側面を、清めの会場である庭の中央に向けていた。清めの間はこの側面が棺の正面と見なされるわけだ。遺体の頭は母屋側、すなわち北に向いている。

 棺を乗せた台は本体と取り外し式の天板からなっていた。天板の前後部それぞれの左右からは、前方と後方に担ぎ棒が突き出している。四人の人間がそれぞれの位置でこのまま担ぎ棒を担げば棺ごと持ち上げられる、という仕組みだ。

 さらに淳子と時子によって棺の背後に三本の柱が立てられ、それぞれに提灯がかけられた。三つの提灯のそれぞれには芹沢家の家紋である抱き茗荷が描かれている。三つの提灯は内側のろうそくに火が灯された。

 棺は屋敷内の照明と三つの提灯によって照らされた。この儀式の主役は啓太なのだから、彼が収められた棺が周囲の何よりも際立って当然だろう。

 準備が整ったところで、残りのフォーマルスーツ姿の一同も廊下から庭へと出た。梨花だけは靴が玄関にあるため、一人だけ玄関から庭へと回った。神妙な趣の大人たちは無言か小声で話す程度であり、陰鬱な会食の延長であるかのごとくだ。

 見上げれば星空が広がっていた。市街地で見るよりも明らかに星が多い。

 いつの間に来たのか、フォーマルスーツ姿の岸本が面々の背後に立っていた。これで斎主以外の参加者は全員がそろったことになる。

 梨花が腕時計で午後五時五十四分であるのを確認した直後に、門のほうから白衣姿の綾が歩いてきた。雅之から聞いた話では、彼女は車で臨時駐車場に乗りつけたはずだ。綾は草履を履いており、白い布に包まれた何やら長いものを右手に提げていた。

 額当てをつけた綾の容貌が屋敷からの明かりに照らされた。これまでに見たことのない綾だ。衣装だけでなく肌までもが白く輝いて見える。彼女のその神々しさに、梨花は思わず息を吞んでしまう。

 和彦が前に進み、立ち止まった綾を正面にして無言で一礼した。綾も静かに一礼する。

 一同が左右に分かれた。梨花は両親に挟まれた状態で、皆に倣った。

 ほんのつかの間、梨花の視線と綾の視線とが合った。緊張を隠せない梨花に向かって、まるで励ますかのように綾がわずかに頷いた。

 分かれた参加者の間を通って棺へと近づいた綾は、左に向きを変え、母屋の廊下へと近づいた。そして廊下の手前で足を止めた彼女は、白い布に包まれた長い何かを廊下に置き、手際よく包みを開く。

 開かれた布の上に現れたのは、いくつかの神具らしきものだった。無数の細い白布に覆われている三本は、明らか「おおぬさ」だ。十字形の中央から角筒が垂直に伸びている木製品も三つあるが、これは大麻の台だろう。梨花はそれらと同様のものを今日の葬場祭で目にしており、その際に雅之から「お祓いに使う道具だ」と説明を受けていた。それらよりも梨花の目を引いたのは、柄にいくつかの鈴がついた道具だった。鈴の部分だけを見れば神社の祭事などで巫女が手にする巫女鈴に似ているが、一般的な巫女鈴よりも柄が長い。百五十センチほどはあるだろう。むしろ全体的には僧侶の使う錫杖に似ており、かんを鈴に置き換えたような意匠だ。しかもその柄は金属製らしく、鈴の反対側の先端が槍のごとく尖っている。この神具を二年前の儀式でも使っていたことを、梨花は思い出した。綾の父である勝義が野辺送りで手にしていた神具だ。

 綾は大麻の一本と台の一基を取り、台を母屋と棺との間に立て、それに大麻の柄を差した。彼女はその位置で棺に一礼し、棺と一同との間へと進む。綾が皆に頭を下げるのに合わせ、一同も頭を下げた。

「これより清めの儀を執りおこないます」

 言って綾は再度、頭を下げ、一同もこれに合わせた。

 綾は棺に向きを変え、今度は深く頭を下げた。続いて、起こした頭を浅く下げ、その姿勢を維持する。

「天津神より生まれし山神の、治めるここは朱の大地。芹沢啓太おきなのみこと御霊みたまも血肉も山神の祝福を授かり神の地へと参らん……」

 はらえのことばは続くが、梨花が聞き取れたのは最初の部分だけだった。というより、最初の一部に意識をとらわれしまったのだ。

 ――血肉?

 二年前の儀式でも耳にしているはずだが、本気で立ち会っている今回だからこそ、その文言が気になった。神道の葬式なら汚穢を避けるはずだ。

 そんな動揺が作用したのか、二年前には果てしなく続くと思われたこの祓詞が、今回は予想していたより早く終わってしまった。特に省略されたわけではなさそうだが、自分がわずかでも年を重ねた証しなのかもしれない。

 綾は棺に深く頭を下げると母屋の側に向き、設置した大麻の台へと近づいた。そして大麻を両手で持って一同の前へと戻り、棺に正面を向けて深く一礼した。

 白衣の背中を見つめつつ、梨花は息を潜めた。

 大麻を左、右、左、と大きく静かに振った綾が、棺に深く頭を下げた。次に彼女は母屋に向きを変え、誰もいないそちらに一礼し、大麻を左、右、左、と大きく静かに振って、再度、一礼した。続いて母屋の反対、庭の南側に向きを変え、そちらも同様の手順で祓い清める。

 綾が一同に正面を向けた。彼女が皆に一礼し、一同も頭を下げる。そして綾は、一同に対しても大麻を左、右、左、と大きく静かに振った。大麻の動きが止まると、綾と一同が互いに一礼した。

 綾は大麻の台の前に移動し、大麻の柄をそれに差した。そしてその場で皆に正面を向け、一礼する。

「清めの儀を了します。ではこれより、御霊を山神様の斎場へとお送りいたします」

 そう告げた綾が一礼したところで和彦が前に出た。その和彦を従え、綾は廊下の手前へと進み、布の上から鈴つきの神具を取った。続いて和彦が、残されている大麻と台との二式を布で包み、布の二組の対角同士をしっかりと結ぶ。

 淳子、信代、時子の三人が棺の背後に回り、おのおのが一つずつ提灯を柱から取り外した。そして淳子が和彦に、信代が綾に、時子が喜久夫に提灯を手渡した。

 次に、遺体の頭を前方として、雅之が棺の右前、岡野が左前、大賀が右後ろ、柴田が左後ろにしゃがんで待機した。四人の担ぎ手はそれぞれの位置で担ぎ棒を自分の内側の肩にかける。さらに俊康、紀夫、金成、吉田、井坂、野口らが棺を取り囲み、台の天板に手を添えた。

 俊康の「せーの」という合図で棺が持ち上げられた。手を添えた五人が離れ、棺は担ぎ手の四人によって門のほうに頭を向けられる。

 右手に鈴つきの神具、左手に提灯を携えた綾が葬列の先頭に立った。二番手は、右手に白い包み、左手に提灯を持つ和彦だ。棺がそれに続き、左手に提灯を持つ喜久夫が最後尾である。

 井坂と野口がそれぞれ懐中電灯を手にし、門の外に小走りで向かった。葬列が細道に入るまでの市道の安全確保を担っているのだ。

 列が整ったところで綾が鈴つきの神具を鈴を上にして垂直にし、柄の先で地面を一度だけ突いた。鈴の音が空気を引き締める。

「えい!」

 綾が正面を向いたまま声を上げた。それを機に葬列が動き出す。残りの者はその場で黙して見送るだけだ。

 葬列の歩みは急ぐでもなく遅らせるでもなく、淡々とした歩調だった。二歩に一回のタイミングで綾が鈴つきの神具を立てに揺らし、ためにほぼ一秒ごとに鈴の音が鳴る。

 見送る紀夫の複雑そうな趣が、今の梨花には理解できるような気がした。

 葬列の最後尾が門を出ると、淳子が一同に目を配った。

「じゃあ、男の人たちは庭の片づけをお願いします。信代さんと時子さんは車の移動をお願いね。あとの四人……良子おばさん、花江おばさん、梨花ちゃん、わたしで、食器洗いをします」

 淳子の采配で皆が動き出した。

 急ぎ足で門から出ていったのは岸本だ。これから霊柩車で山神の広場へと向かうのだろう。

 梨花は淳子らとともに玄関へと向かった。

 梨花が台所に入るまで鈴の音は聞こえていた。

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