第2話 ②
庭の片隅に梢が塀よりも高い一本の松があった。その幹と塀との間に身を潜め、梨花はスマートフォンを耳に当てた。電話はすぐに繫がった。
「ごめん、忙しいのに」
口火を切ったのは賢人だった。
「ううん」念のため、声をやや小さめにした。「それより、どうしたの?」
「そっちで、何か変わったこととか起きていないか?」
唐突に尋ねられて、梨花は答えに窮した。
「変わったこと、って訊かれても」
この風習自体が梨花にとっては異様なのだ。とはいえ、門外漢を自称できる立場でもない。
「たぶん、変わったことはないと思う」
感じたままを口にした。
「そうか……」
賢人は二の句が継げない様子だった。それでは状況がつかめない。たまらず、梨花は問い返す。
「賢人くん、何かあったの?」
「うん」賢人は答えた。「父さんと姉さんとが話しているのをこっそり聞いちゃったんだけど、今回の山神様の儀式は、いつものとは違うらしいんだ」
「最後だから、っていうこと?」
「そうなんだろうけど、なんだか、かなりやばいことをするみたいなんだよ」
「やばい?」
冗談や悪ふざけでないのは察しがついた。スマートフォンを持つ手が小刻みに震えているのに気づき、意図してそれを止める。
「父さんの話によると、姉さんは今回の儀式で斎主をすれば罪の意識にさいなまれてしまうらしい」
「罪……」よくない何かをするらしい、ということは理解できた。「今回の山神様の儀式でどんなことをするのか、具体的にはわからないんだね?」
「わからない。これまでの山神様の儀式も謎だったけど、今回のもまったくだよ。ただ、今回のはやっちゃいけない、そんな気がしてならないんだ」
「だけど……」
中止など不可能と思われた。独特の風習とはいえ、大勢の大人が金や手間暇をかけて準備してきたのだ。しかも、葬場祭はすでに済んでいる。梨花と賢人が二人で訴えたところで、きつい叱責が下されるだけだろう。
「なんとか、今から止められないかな」
梨花の憂慮を打ち砕くかのような言葉だった。
「そんなの無理だよ」
「清めが終わって野辺送りを見送ったら、時間、空くかな?」
梨花の焦燥を無視して賢人は問うた。
「会食の片づけがあるよ」
「そうか。……どうしたらいいか、一緒に考えてほしかったんだけど、どのみち間に合わないか」
そして重いため息が返ってきた。
とにかく山神の儀式の中止は不可能なのだ。まして、儀式の内容がわからないのでは、大人たちに訴える道理も不明瞭となってしまう。だからこそ、賢人が不憫に思えた。できれば力になりたい。しかも綾が罪にさいなまれるのならば、雅之ら参加者にも同じことが言えるかもしれないのだ。
無下にできないからこそ、梨花は言葉を繫ぐ。
「片づけが終わったら連絡しようか?」
「うん……頼むよ」
諦念を感じさせる口調だった。とはいえ、今の梨花にできることには限界がある。
「とりあえず」梨花は言った。「この話はほかの人に漏らさないでおくよ」
「それがいいかもしれない」
本心ではないはずだ。得心のいかないまま答えているに違いない。
「じゃあ、長く席を外しているといけないから、わたし、みんなのところに戻るね」
「そうだね」気持ちを切り替えようとしているのは、如実に伝わってきた。「電話、待っているよ」
通話を終え、梨花はスマートフォンをブレザーのポケットに入れた。
そして、賢人の取り越し苦労であることを願った。
「遅くなりまして、申し訳ありません」
一礼して、森野は飛田の向かいに腰を下ろした。そして資料を閉じてあるファイルをテーブルに置く。飛田も自分の前にファイルを置いているが、双方のファイルとも偽装のための小道具にすぎない。
三十人ほどが一堂に会すのも可能な広さであるが、五十過ぎの男が二人で使うには贅沢の極みだろう。部下にはお茶などを持ってこさせないように言いつけてある。定時までの約三十分は貸し切り状態だ。
「相変わらず段取りが悪いな」
「明日までに本庁に送らなければならない資料を、担当の者が紛失してしまいまして。作り直させて、ようやくわたしのチェックが終わったところでした」
事実だが、言い訳と取られてもしかたないだろう。
「目下の問題と比べたら、どうでもいいことだ。こっちは三十分もかけて車で来たんだからな」
そうは言うが飛田の自宅は
もっとも、生前の芹沢啓太との交流があったらしい飛田は、昨夜の芹沢家の通夜祭に参列しており、やり残した事務処理を遂行するために、その祭儀の途中で葬儀場から本所へと戻って夜半過ぎまで残業をしたのだ。ならば今日は早めに帰宅するのも致し方ないだろう。一方の森野は、芹沢啓太との接点はなく、しいて言えば長男の和彦の顔と名前を知ってる程度である。ゆえに、通夜祭にも葬場祭にも参列していない。
「恐れ入ります」
森野は体裁を繕った。
「それで……だ」飛田は椅子にふんぞり返り、両腕を組んだ。「例の彼のほうは?」
「先ほど報告が入りましたが、滞りなく進んでいるそうです」
「なんとかうまくいきそうだな」
「しかし、後味が悪くなりますよ」
森野が訴えると、飛田は眉を寄せた。
「今さら何を言うんだ。やつのことが気になるのか?」
「お気持ちはわかりますが、いくらなんでも……」
言いさして周囲を見回した。盗聴器や隠しカメラなど設置されてはいないはずだが、小心の魔に取り憑かれたのかもしれない。
「われわれは」森野は声を抑えた。「犯罪を犯すことになるんですよ」
「犯罪を犯したのはあいつのほうだろう」
声を抑えることなく飛田は吐き捨てた。
「ですが――」
「だからこの最後の儀式は」飛田は森野の言葉にかぶせた。「これまで以上の慎重さを持って、部外者に悟られないように進めているんだ。足並みを揃えろよ。人生を棒に振ることになるぞ」
以前の飛田はこれほど威圧的ではなかった。少なくとも、中学生時代に野球部でともに汗を流したこの二つ上の飛田は、どの先輩よりも優しく、決して後輩たちを恫喝することはなかった。それが今では、何かにつけて歯に衣着せぬ物言いである。
飛田の人柄が変わったのは、旧朱村役場で福祉部部長に昇進した直後だった。当時の森野は飛田の下で係長を務めていたため、飛田が山神の儀式の管理を担ったことを知っていた。無論、同情はした。しかし森野は口を出せる立場になかった。部内でもこれに携われるのは、部長を筆頭に、山神の儀式立ち会い担当や山神の儀式火葬担当など、特務課の者のみである。朱村役場が設立されてから今に至るまで続くこれも、一つの因習と言えるだろう。
「わかりました」
森野は答えた。飛田の態度がどうだろうと、ほかに選択肢はない。
「ともかくだ」飛田は言った。「今日の山神の儀式……昇天の儀は、なんとしても無事に完遂させるんだぞ。そうすれば、この朱に残る呪いに終止符を打つことができる。だが、もしなんらかの理由で昇天の儀が失敗したとすれば……」
言葉を濁した飛田が、森野を睨んだ。
「失敗したとすれば?」と森野は飛田の言葉を反芻した。
「とんでもない災いがこの朱に降りかかる」
「災い――」
いかなる災いがあるのか、森野にはわからない。だが、何度も山神の斎場での火葬祭に参加したことのある森野だからこそ、その言葉を否定できなかった。自分の両親それぞれの火葬祭でのあの衝撃が、まざまざと脳裏に蘇る。
「災いはこの朱を覆い尽くすばかりか、やがて周辺地域にも広がっていくだろう」
そう返され、森野は顔をこわばらせた。
飛田は若い時分から葛城家との親交があった。そのおかげか、山神の儀式について、ほかの者たちが知る諸事項をはるかに上回る知識を得ている。ゆえにこれは、単なる脅しではないはずだ。
「どんな災いがあるのというのでしょうか?」
抑えきれずに尋ねてしまった。
「わたしにもわからんよ。だがな、多くの人間が命を落とすことになる」
「多くの人間が……」
森野は息を吞んだ。
哀れむようなまなざしを向け、飛田は口を開く。
「だからわたしは、支所に来てまで確認しているんだよ。失敗は許されない。君の家族の命もかかっている、ということだ」
森野は返す言葉を失っていた。両肩がわなわなと震えている。
「昇天の儀だけではなく慰謝の儀でも、失敗すれば多くの犠牲者が出る。それは、葛城家が保有している『
葛城宅の書架に収められているという『天帝秘法写本』なる古文書の存在を、山神の儀式を知る者の多くは知っていた。森野も例外ではない。とはいえ、これを閲覧できるのは、山神の儀式の斎主や飛田など、一部の人間に限られている。森野はその書物の背表紙さえ目にしたことがないのだ。
森野は両肩の震えをどうにか抑えた。
もうあと戻りはできない。
同じ朱に住む同級生の
午後五時二十五分だった。
賢人は学習椅子に腰かけたまま自室の南向きの窓から外を見た。田園風景は闇に落ち、自宅近辺は普段から人通りは少ないが、より一層の静寂に包まれていた。秋の虫の声さえ聞こえない。ツバキの生け垣の向こう側はまるで異世界である。
不意に、襖の開く音がした。隣の綾の部屋だ。そして襖を閉じる音に続いて、階段を下りる足音がした。
すぐにでも引き止めたかった。それができない自分を情けなく思う。
階下から話し声が聞こえてきた。勝義と綾だ。しかし一つ一つの言葉が聞き取れない。
玄関が開く音がし、そしてすぐに、閉じる音がした。
勝義の咳き込む声が聞こえた。屋内である。外で綾を見送ることは、しないらしい。
咳き込む声が小さくなった。一階のいずれかの部屋に入ったようだ。
賢人は立ち上がり、窓際に寄った。
玄関先にはいつものごとく、勝義のミニバンと綾の軽トールワゴンがテールをこちらに向けて横列に並んでいた。その軽トールワゴンに、
綾が軽トールワゴンの運転席に乗り込んだ。
エンジンがかかり、灯火類が点灯した。
「行ってはだめだ」と心の中で叫んでみたものの、慰めにもならなかった。
走り出した黒い車体が闇に飲まれ、灯火類の明かりが小さくなっていく。やがてそれは、賢人の視野から消え失せた。
束縛から解放されたのは、そのときだった。
もう息を潜めるつもりはない。
ナイロンジャケットに袖を通し、その脇ポケットに学習机の上のスマートフォンを入れた。
部屋をあとにして足音を忍ばせもせずに階段を駆け下りると、襖の開く音が聞こえた。
「賢人、どこへ行くんだ?」
廊下の奥から声をかけられたが、応じないばかりか顔さえ向けずに、賢人は靴を履いて玄関の引き戸を開けた。
次の言葉を受ける前に扉を閉じ、物置へと向かった。
何があっても自分の姉を止めなければならない。その一心で動いた。
物置を開け、普段の足に使っているかごつき自転車を引っ張り出す。
「おい賢人!」
玄関を開けて勝義が叫んだ。
「姉さんに何かあったら、たとえ父さんでも許さない! 山神もこの変な風習も、絶対に許さない!」
怒鳴り返しながら自転車にまたがった賢人は、物置の扉を開けたままペダルをこぎ出した。
「何をするつもりだ?」
その問いに答えることなくヘッドライトを点灯させ、門扉のない門口を飛び出した。
道幅の狭い舗装路で、賢人は自転車を加速させた。
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